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昔の新聞点検隊

拡大当時の記事(全体)。人権に配慮して、紙面の一部を修正しています

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【当時の記事】

金鯱の正体 損害額は五六千円

【名古屋電話】 中京が誇る国宝建造物の名古屋城の表徴であるこの「金の鯱」は慶長十五年前田、毛利、加藤、福島、黒田、細川諸侯の献金によって作られた当時は金色燦として輝いたものださうだが今はそのおもかげはなく時代の流れと共に数度の修復により金の厚さもその都度薄くなり今回の事件で名古屋市並に愛知県刑事課の共同鑑定の結果、鱗の裏面には殆ど全部鋳造打付けの年号が入って居り鱗の厚みは今までの伝説に反して意外に薄く銅の上に紙より薄い金の薄板を張ったもので鱗によっては葉書二枚の厚み位なのもあるが純金分は非常に少く、純金量の比較的多い鰭や尾部は災難をのがれ盗まれた五十八板の総重量は七百四十一匁余で、損害は予想程でなく約五六千円に過ぎなかったとはいへ今では神聖なものとして一種の信仰化してゐたものである

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暗の天守閣から 市中を俯瞰す 案外脆い鯱のうろこ 怪盗自白

【大阪電話】 ○○○は初め取調に口を緘して自供せず「入所前上海から密輸した金を阿倍野の墓地に埋めて隠して置いたのを掘り出した」と逃げてゐたが峻厳な追究に遂に二十八日朝に至って「私がやった」と自供 重荷を下ろしたやうに軽い口調で

金鯱を見た時、あの金を盗むことが出来れば母親を喜ばし行方の判らない妻子を探すことも出来るしそれをもとでに商売でもやって親子揃って気楽に暮らせると考へたのです

 天守閣の屋上に漸く匍ひ上って名古屋市を見下した時空は真暗闇だったが足許から誰かにすくひ倒される様な恐怖を胸一杯に感じた 鯱の金が固くてはがしにくからうとペンチではがしたところ案外もろく腐った魚のうろこの様に指でぽろぽろ簡単に脱落したものの名古屋駅から大阪行の汽車に乗込むまでは全くの夢中だった

(後略)

(1937〈昭和12〉年1月29日付 東京朝日 朝刊11面)

【解説】

 今回は「名古屋城鯱(しゃちほこ)のうろこ盗難事件」の解決編。発生から3週間後に、容疑者は大阪で捕まりました。この事件を「大胆! 空中夢を実現」の大見出しをつけて社会面で大きく扱っています。中でも興味深い二つの記事を見ていきましょう。

 まず「金鯱の正体 損害額は五六千円」の見出しの記事です。前回扱った、事件発生時の記事では、被害額は「約40万円」。ずいぶん安くなってしまいました。記事によれば、当時考えられていたよりうろこは薄く、銅の上に張られていたのは「紙より薄い金の薄板」だったようです。しかも純金量が多いひれや尾は手つかずでしたから、被害額を大きく修正せざるをえなかったというわけです。

 記事はうろこが薄くなった理由を「時代の流れと共に数度の修復により金の厚さもその都度薄くなり」と説明していますが、名古屋城の象徴である鯱の金を、なぜそこまで節約する必要があったのでしょう?

 1981年の朝日新聞日曜版に、この謎を解く記述を見つけました。名古屋城を所有する尾張藩は財政が厳しくなったために、鯱の金を純度の低いものに鋳なおしてしまったというのです。しかも3度にわたってです。

 初めは8代将軍徳川吉宗が改革を進めていた享保15(1730)年。御三家の筆頭である尾張藩はまだ財政難ではありませんでしたが、その格式の高さゆえに交際費や土木建設費がかさみ、鯱に手を出してしまいました。さらに約100年後の文政10(1827)年、弘化3(1846)年にも改鋳をして、紙面当時のような状況になってしまったようです。

 明治時代には、鯱は天守閣から下ろされていた時期もありました。日本各地の博覧会や、明治6(1873)年のウィーン万博に出展されたためです。金の純度が低くなってしまったとはいえ、全身黄金のその姿はまだまだ人々の目を引いたということでしょう。「昭和の金助」が目をつけたのも、無理はありません。

 ちなみに現在名古屋城にある鯱は、このときうろこが盗まれたものではなく2代目。初代は、昭和20(1945)年5月の空襲で雌雄とも焼けてしまいました。雌のほうは燃え殻が残ったため、その後茶釜として生まれ変わり、現在も残っています。

 さて一つ目の記事は、あまり直すようなところはありませんが、うろこを「五十八板」と数えているのが少し気になりました。辞書を引いてもこうした使い方は見あたりませんし、単に「枚」でいいでしょう。あるいは同じ木偏なので、活字を拾い間違えたのかもしれません。

 続いて、二つ目の記事を見ていきましょう。供述によると容疑者は、以前服役していた際に妻子と離ればなれになってしまい、見つけ出すためのお金が必要だったようです。暗闇の中、恐怖におびえながら天守閣によじ登り、鯱のうろこをペンチではがして夢中で逃げたというその様子は、「柿木金助」の華麗なイメージとはおよそかけ離れています。

 こちらの記事は、現代の基準で見ると直したいところがちらほら。

 まず「隠して置いた」の「置」は平仮名に。これは「補助動詞の場合は平仮名で書く」という朝日新聞の決まりがあるためです。「年々増えて行く」の「行く」や「だんだん赤くなって来る」の「来る」も同様で、実際に「行ったり来たり」するわけではないので、平仮名にしています。

 しかしこの「追及」、朝日新聞の事件記事では、容疑者に対して使うことはめっきり減りました。逮捕された「容疑者」はあくまで「容疑」の段階で、まだ罪が確定しているわけではありません。「追及」を使うと容疑者が真犯人であるかのような印象を与えてしまうかもしれません。裁判員裁判が始まった昨年からは特に、読者に予断を与えるような表現はなるべく使わないよう、細心の注意を払っています。

 同音異義語をもう一つ。「妻子を探す」は「捜す」にしましょう。新聞では「探す」と「捜す」を使い分けています。「捜す」が「見えなくなったものをさがす」のに対し、「探す」は「欲しいものをさがす」といったニュアンス。「いま独身で、妻が欲しい」という意味の時は「探す」ですが、もともと妻子がいる場合は「捜す」を使うことにしています。

 「昭和の金助」は逮捕後、列車で名古屋に身柄を移されます。そのときの記事の見出しが「“金助”おどおど 駅頭を埋めた好奇の大観衆 金鯱犯人名古屋へ」。この事件がここまで注目されたのは、やはり金鯱の威光がなせるわざでしょうか。

(画像には主な直しだけ朱を書き入れています。現在の朝日新聞の表記基準で認めていない漢字の音訓や、当時は入れていなかった句点を入れる等については、原則として記入を省いています)

【現代風の記事にすると…】

金鯱の正体 損害額5千~6千円

 【名古屋電話】中京が誇る国宝建造物・名古屋城の象徴「金の鯱(しゃちほこ)」は、1610(慶長15)年に前田、毛利、加藤、福島、黒田、細川各大名の献金によってつくられた。当時は金色がきらきらと輝いていたそうだが、今はそのおもかげはなく、時代の流れとともに数度の修復を重ね、そのたびに金は薄くなっていった。

 今回の事件で名古屋市・愛知県刑事課が共同鑑定した結果、うろこのほとんどには裏面に鋳造打ち付けの年号が入っていた。うろこは伝説に反して意外に薄く、銅の上に紙より薄い金の薄板を張ったもので、はがき2枚ほどの厚みのものもあり純金は非常に少ない。純金量の比較的多いひれや尾は無事だった。盗まれた58枚の総重量は約2780グラムで、損害は予想ほどでなく約5千~6千円だった。金額は別にしても、金の鯱は神聖なものと信じられているのだ。

暗闇の天守閣から 市中を見下ろす 意外にもろい鯱のうろこ 容疑者供述

 【大阪電話】容疑者は最初、取り調べに口を閉ざし、犯行を認めなかった。「入所前、上海から密輸した金を阿倍野(大阪)の墓地に埋めて隠しておいたのを掘り出した」と話していたが、28日朝「私がやった」と認めた。重荷を下ろしたように軽い口調で「金の鯱を見て、あれを盗むことができれば母親を喜ばせ、行方の分からない妻子を捜すこともできる。それを元手に商売でもやって、親子そろって気楽に暮らせると考えた」。

 「天守閣の屋上にやっとはい上がって名古屋市を見下ろした時、空は真っ暗だったが、足元から誰かにすくい倒されるような恐怖心で胸が張り裂けそうだった。鯱の金は硬くてはがしにくいだろうと思いペンチを使ったが、意外にもろく腐った魚のうろこのように指でぽろぽろと簡単にはがせた。しかし名古屋から大阪行きの汽車に乗り込むまでは、無我夢中だった」

(後略)

(森本類)

※17日の更新は休み、次回は24日に更新します。ご了承下さい。

当時の記事について

原文どおりに表記することを原則としますが、読みやすさの観点から

  • 漢字の旧字体は新字体に
  • 句点(。)を補った方がよいと思われる部分には1字分のスペース
  • 当時大文字の「ゃ」「ゅ」「っ」等の拗音(ようおん)、促音は小文字に

等の手を加えています。ご了承ください