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昔の新聞点検隊

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【当時の記事】

●勝伯と後藤陸奥両伯

 例の氷川老伯此頃後藤伯の長逝と陸奥伯の重病とを聞き客に語て曰く 己れが維新前神戸で海軍兵学校を建てて居った頃 後藤ハ塾長をさせて居った阪本龍馬からの頼みで暫く入校し 又陸奥ハ紀州侯からの頼みと恰度陸奥の伯父の伊達某も入校して居たる因縁とで入校させたが 二人共に随分乱暴な上に横着者であって他の乱暴な塾生すら彼等二人にハ閉口したよ、併し己れハ二人共其横着な所に見込を附けて居ったが 果して二人とも彼の通り立派な人間に成ったが 二人ともゑらく成ってから己れの処へ面出しもせず大きな顔をして居るから 実ハなんだー恩知らず奴と腹の立った事もあったが 皆国家の為めに一仕事した人間だから己や蔭から常に悦んで居たが 横着者の一人後藤ハ既に亡くなり今一人の横着者の陸奥も亦危篤なりと聞く 噫真に残念なりと語り了りて老眼に涙潜々 

(1897〈明治30〉年8月10日付 東京朝日 朝刊1面)

(文に切れ目が少なく読みづらかったので、特例で読点が必要そうなところに半角のスペースを入れています)

【解説】

拡大1897年8月10日付東京朝日朝刊1面。赤く囲っている部分が今回紹介している記事
 朝晩ようやく秋らしくなり、NHKの大河ドラマ「龍馬伝」も佳境に入ってきました。福山雅治さん演じる坂本龍馬の男前ぶりに人気も上々と聞きます。そこで、今回は人気に乗じて龍馬に関する記事を探してみようと思ったのですが……。探しているうちに、龍馬の師匠とも言える人物の面白い記事を見つけました。ドラマでは武田鉄矢さんが熱演している、あの勝海舟です。しかも、海舟の伝記ではありません。なんと本人の発言の聞き書き。そう、海舟は朝日新聞の草創期、まだ健在だったのです。今回は、いつもの大正~昭和前期をしばし離れて、明治時代の紙面をお楽しみ下さい。

 勝海舟は、1823(文政6)年生まれの幕臣。戊辰戦争時に江戸城を攻め落とそうとする新政府軍の西郷隆盛と会談し、無血開城に持ち込んだ話はあまりに有名です。また幕末の1860年に、咸臨丸で太平洋を渡って米国に行くなど、当時最も先進的な知識や考え方を持つ人物だったとされます。幕府海軍の要職にあったときに、神戸に海軍操練所をひらき、龍馬をはじめ何人もの人材を育てました。ドラマでも描かれていましたし、この記事でも少し触れられています。

 海舟は、明治維新後、新政府の役職を歴任しながら、長生きをします。今回紹介する記事は維新から30年。海舟は数えで75歳。朝日新聞は1879(明治12)年1月の創刊ですから、この時ようやく19年目です。

 内容は、海舟が後藤象二郎と陸奥宗光について語っているものです。後藤象二郎は龍馬と同じ土佐藩出身で、大政奉還の建白の実行役とされます。明治政府では逓信相や農商務相などを歴任。ドラマでは土佐の重臣として青木崇高さんが演じています。後藤はこの記事の数日前に死去しました。陸奥宗光は、ドラマでは陸奥陽之助として平岡祐太さんが演じています。諸外国と結んだ不平等な条約の改正に努めた名外務大臣。歴史の授業でも習いますね。龍馬にかわいがられたそうで、海援隊の一員でもありました。その陸奥も、この記事の2週間後にこの世を去ります。すでに危篤が報じられていることが記事から分かります。維新から活躍した人物の相次ぐ不幸について、海舟からコメントをもらおうという趣旨のようです。

 さて、明治の記事は体裁も文体も今とは全く異なるので、校閲的な指摘をするのがなかなか難しいですが、見出しに「勝伯」、本文に「氷川老伯」とだけあり、現代人が一見しただけでは誰のことか分かりにくいですね。「伯」は伯爵のこと。「氷川」は、どうも地名のようです。当時海舟は東京・赤坂の氷川神社の近所に住んでおり、「氷川翁」とか「氷川老伯」などの呼称が紙面で見られます。しかしここは分かりやすく、「勝海舟氏」と最初にフルネームを入れたいところです。また本来ならインタビューした日付も入れるべきです。それから、龍馬が「坂本」ではなく「阪本」となっていますが、当時はこちらの表記も多く見られるので指摘は見送ります。

 校閲の仕事は、記事中の日本語の誤りを指摘するだけではありません。その内容も出来うる限りチェックします。たとえ高名な大学教授や作家の寄稿などでも、その内容に誤りがないか、確認します。大変おそれ多く、緊張する作業です。しかし今回は、日本史上でも指折りの大人物の発言に、それを試みてみます。

 問題の個所は、後藤、陸奥の2人が神戸の海軍兵学校(海軍操練所のことと思われます)にいた、という部分です。後藤は、龍馬の紹介で入校した、とありますが、ドラマをご覧の方なら「ん?」と思いますよね。後藤と龍馬では当時土佐藩の中で身分も違い、仲も良くありません。近辺の記事を探してみたところ、亡くなった後藤の墓誌を紹介する記事が、この3日前の紙面に載っていました(1897〈明治30〉年8月7日付 東京朝日2面= 記事1 )。過去の記事との整合性を見るのも校閲の基本作業の一つです。墓誌によると「1862(文久2)年に罷職後、江戸に出て、1864(元治元)年帰国」とあります。神戸にいたとは書かれていません。

拡大記事1 後藤象二郎の墓誌を紹介する1897年8月7日付記事
 会社の書庫で後藤の伝記(かなり古いですが、大町桂月著「伯爵後藤象二郎」・1914年)を調べたところ、後藤は元治元年4月に土佐に帰って藩の役職についていました。海軍操練所は元治元年5月に正式発足なので、後藤が入所するのは難しそうです。

 海舟はすでに70代半ば、記憶もあいまいになっていたのでしょうか。それとも「ホラふき」ともウワサされた海舟ですから、ついつい龍馬の名前を出した手前、こんな内容になったのでしょうか。世話になっていないのに「横着者」などと批判されるとは、後藤もののしられ放題ですね。

 なるべく気分を害さないように、問い合わせは丁寧に書きたいところですが……。記憶を疑っている形だけになかなか難しいです。操練所の正式発足の少し前から、海舟の私塾のような形で龍馬たちは関西に集まっていたので、可能性がまったくゼロというわけでもありません。いまなら、このような指摘を実際にする場合は、根拠とする資料のコピーを添えて、きちんとした説明とともに指摘します。

 次に陸奥。陸奥が龍馬とともに神戸にいたことは事実ですが、ここでは伯父の「伊達某」が入所していたつてで、とあります。初耳だったので調べてみましたが、そのような人物は見つけられませんでした。陸奥は、もともと「伊達」姓で、紀州藩の名家の出です。伊達姓の伯父がいてもおかしくはないか、と思って系図を見たところ(朝日新聞社「萩原延寿集2 陸奥宗光」参照)、陸奥の父は別の家からの婿養子で、12歳の時に家督を継いでいます。若年の養子を迎えるぐらいですから、伊達家に他に男性がいたとは考えにくい。ですので、その旨をやんわりと聞いてみます。なにせ海舟は当時実際にその場にいたわけですから、記録が残っていないだけで実際は海舟のいう通りかもしれません。

 ただ、海舟の語りを集めた「海舟語録」(講談社「勝海舟全集20」収録)を見たところ、陸奥の義兄の伊達五郎(宗興)を「叔父」と記憶違いしている発言がありました。また、同じく海舟の語録集「氷川清話」の中には、この伊達五郎が紀州藩で世話人をしていて、陸奥を神戸に連れて行くよう頼まれた、と言っているものもありました。伊達五郎が操練所にいたことがあるかどうかは分かりませんでしたが、やはり「おじのつて」の線は薄そうです。

 締めきりが刻々と迫る日々の紙面点検で、ここまで調べて指摘するのはかなり難しいです。数日かけて作りあげる特集面などでしたら、このように細部まで調べることもあります。

 さて、海舟は両人を「横着なところを見込んでいた」とする一方で「偉くなったら顔も出さなくなった恩知らず」とも述べています。ここでいう「横着」は、「なまけ者」というより「押しが強く遠慮がない」ことを言っているのでしょう。先ほどの「海舟語録」や「氷川清話」を見ても、やはりこの2人のことはあまり良くは言っていません。ただ、風雲の時代をともに生き抜いてきた人物達が先に逝くのはやはり寂しかったのでしょう、海舟は記者に涙を見せたようです。

 この「氷川清話」は、海舟が新聞や雑誌などで語ったものを収集・編集した語録集です。朝日新聞からも何本か採用されていました。他に読売新聞、報知新聞、国民新聞など、各紙に海舟のコメントが掲載されていたようでした。朝日新聞では、この明治30年あたりから海舟コメントの聞き書き風記事が散見されます。しゃべったまま活字になっている感があり、「歴史上の大人物」勝海舟ではなく、実際に生きていた「人間」勝海舟が急に身近に感じられ、大変おもしろく貴重な史料です。

拡大記事2 勝海舟が松隈内閣について語っている1897年7月14日付記事
 例えば松隈内閣(首相・松方正義、外相・大隈重信)について語っている記事(1897〈明治30〉年7月14日付 東京朝日1面 別記事2)は、講談社の「勝海舟全集21 氷川清話」で採用されていますが、重要な部分しか引用されていません。しかし実際は、お目当ての談話をとる前のやりとりまで活字になっていました。そこを少し現代風にすると……

 勝海舟氏が言うには「今日は揮毫(きごう)はゴメンだよ。でも菓子折りでも持ってきたんならお出しよ。書いてやるから。ええ? オレに菓子をやるのがいやなら、墨をすったり落款(らっかん)を押したりする侍女に髪飾りでも買ってきてやりたまえ……」。

 人間くさくて表情まで思い浮かんできそうですね。

 揮毫とは、扇子などに文字や絵をかくこと。今で言うサインのようなものでしょうか。

 幕末から明治までを知り尽くす生き字引のような存在で、お話好きでもある海舟のコメントは、読者の興味を引く最高のコンテンツだったに違いありません。現代で言えば中曽根康弘さんや渡部恒三さん、塩川正十郎さんのような存在だったのでしょうか。「氷川老伯」のニックネームも「塩爺」と同じ感覚かもしれませんね。

 後藤・陸奥両人の海軍操練所入所の指摘には、海舟がどう答えるかわかりませんので、下欄ではとりあえず海舟の発言にそって現代風にしておきます。本来なら発言中でも極力敬称をつけるようにしますが、今回は天下の勝海舟と言うことで文句をつける人はいないでしょうし、雰囲気も出るので敬称は略します。

(画像には主な直しだけ朱を書き入れています。現在の朝日新聞の表記基準で認めていない漢字の音訓や、当時は入れていなかった句点を入れる等については、原則として記入を省いています)

【現代風の記事にすると…】

勝氏、後藤・陸奥両氏について語る

 「氷川老伯」勝海舟氏に、死去した後藤象二郎氏と重病になっている陸奥宗光氏への思いを聞いた。

 「オレが維新前に神戸で海軍操練所を建てたころ、塾長をしていた坂本龍馬の頼みで後藤はしばらく入所していた。また、陸奥は紀州藩の殿様からの頼みと、ちょうど伯父の伊達某氏が入所していたこともあって、入所させた。2人ともずいぶん乱暴なうえに横着者で、他の乱暴な塾生すら彼ら2人には閉口したよ。しかしオレは2人のその横着なところを見込んでいたね。実際、2人とも立派な人間になったわけだが、偉くなってからオレの所へ顔も出さずに大きな顔をしているから、実はなんだ、恩知らずなやつと腹が立ったこともあった。だがみんな国家のために一仕事した人間だから、オレは陰で常に喜んでいたよ。横着者の一人、後藤は亡くなり、もう一人の陸奥も危篤だと聞く。ああ、とても残念だよ」

 老伯はこう語り、はらはらと涙していた。

(広瀬集)

当時の記事について

原文どおりに表記することを原則としますが、読みやすさの観点から

  • 漢字の旧字体は新字体に
  • 句点(。)を補った方がよいと思われる部分には1字分のスペース
  • 当時大文字の「ゃ」「ゅ」「っ」等の拗音(ようおん)、促音は小文字に

等の手を加えています。ご了承ください