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昔の新聞点検隊

【当時の記事】
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○本月二日第六号に贋札を製(こしら)へし人名を●●庄吉と記せしハ宗吉の誤り 又同八日十一号医事会同社云々会毎に社中役員改正と記せしハ誤聞につき取消し
(1879〈明治12〉年2月12日付 朝刊4面)
 
 

【参考・訂正元の記事】

○昨年以来(このかた)半円札の偽造(にせ)が多いので誤まって受取り損失をせし者 間(まま)ありしが横堀三丁目●●庄吉なる者天満辺にて買物の際(とき)偽造せし事が露顕し遂に査公(おまわり)の手数となり警察本署に拘留せられ当今(ただいま)専ぱら御吟味(おしらべ)中なり

(1879年2月2日付 朝刊2面)

 

○明九日は石町三橋楼に於て医事会同社の集会があります 会毎に社中役員改正の件を議せらるるとの風説(うわさ)

(1879年2月8日付 朝刊2面)

【解説】

 「訂正」。この2文字、新聞記者が最も恐れる言葉と言っても過言ではありません。先週も少し触れましたが、新聞は正確な情報を読者に届けるのが使命。訂正記事を出すのは、誤ったことを伝えたということですから、書いた記者は穴があったら入りたくなるほど恥じ入り、後悔します。それは、誤りを見逃してしまった校閲記者も同様。いえ、私たちは正確な報道の最後のとりで、「守護神」なのですから、訂正を出すような誤りを見逃すことは、仕事をしていないに等しいとも言えます。99個の間違いを見つけても1個見逃したら意味がない。このような心持ちで日々働いています。書いた記者以上に責任を感じることもよくあります。いつか、校閲記者の背後でぼそっと「訂正」とつぶやいてみてください。みな一様にビクッとして冷や汗顔で振り返るはずです。

 さて、我々にとって恐怖の訂正ですが、ふと、朝日新聞で最初の訂正はどんなものだったのだろうと思い立ち、データベースを振り返ってみました。今回上に紹介した記事は、訂正記事としては通算3本目のようでしたが、訂正する元の記事の発行日付が最も早かった(1879〈明治12〉年2月2日、創刊6号)ため、今回取り上げてみました。現在でもやってしまいがちな誤りなのですが、創刊早々、騒ぎとなってしまったようです。

 間違いを含んだものをわざわざ紹介するのは恥の上塗りのようでもありますが、あくまで130年前のものということで、寛大なお心でご覧いただければ幸いです。

 まず、この記事の前に出た訂正記事を見てみます。訂正記事といっても、当時は「訂正」とは言っていないようで、体裁等もバラバラ。私が調べた限り、紙面の内容を訂正した最初の例は、こちらでした。

社告

○一昨日の新聞紙尾に今日休刊の事を広告せしは甚しき間違にて今日は相変らず発兌致します故 此叚厚く御詫申上候

(1879年2月4日 朝刊4面、創刊7号)

【訂正元の記事】

○明日は月曜日 明後日は新年班幣祭に付両日間休業

(1879年2月2日 朝刊3面、創刊6号)

拡大休刊日の誤りを社告で訂正
 訂正ではなく「社告」として、「おとといの紙面で『あさって(=4日)は休み』と書きましたが、甚だしい間違いでした。おわび申し上げます。今日も変わらず発行します」と述べています。今なら完全に「おわび」ですね。休刊のお知らせを忘れることは、まれにあるかもしれませんが、休刊でもないのに休刊を宣言するのは聞いたことがありません。

 その「一昨日の新聞」である第6号に、「明日は月曜だから休み、あさっては新年班幣祭だから休み」と、今でいう「おことわり」を入れていたんですね。

 創刊当初の紙面を見てみると、紙面は全部で4ページ。1ページは3段。最後に社の住所などが載っており、「本社新聞定価○一枚一銭○一ケ月前金拾八戔○大祭日及毎月曜日休業…」と紹介しています。当時の定価は1枚1銭、1カ月18銭だったようですね。そして大祭日と毎週月曜日は休みとしています。

 大祭日とは、いわゆる「祭日」で、天皇が行う重要な祭祀(さいし)が行われる日。新嘗祭(にいなめさい、11月23日、現在は勤労感謝の日)や先帝がなくなった日(この時は孝明天皇崩御日で、1月30日)などがありました。しかし、この「新年班幣祭」は、大祭には含まれていないようです。班幣祭とはおそらく「祈年祭」のことではないかと思います。旧暦2月4日に行われていたようなので勘違いしてしまったのでしょうか。すでに新暦になっているこの頃の祈年祭は2月17日。1908(明治41)年の制定ではありますが「皇室祭祀令」によると、大祭ではなく小祭扱いだったようです。

 創刊から間もない頃の混乱が生んだと思われる、この珍訂正が最初でした。

 次に載った訂正記事は、社告ではなく記事そのものの内容に関するものでした。

○第八号に権衡(てんびん)を以て釣上てお目に掛けた松島仲の町稲妻楼に於てカネサの一楽云々の件ハ稲妻楼主并に一楽妓(さん)より事実一切無之(これなき)よし御弁駁がありました故謹で取消と致します 稲妻君も一楽妓も誠にはやお気の毒

(1879年2月9日付 朝刊3面、創刊第12号)

拡大挿絵や艶ダネが載った紙面。赤く囲った部分で「お気の毒」と記事を取り消している
 これは我が社の記事といえどもひどい内容で……、現代口語で直訳すると「第8号(=2月5日付)にてんびんの挿絵をつけて紹介した、松島仲の町・稲妻楼でのカネサの芸妓(げいぎ)・一楽さんについての記事は、稲妻楼主と一楽さんから、このような事実は一切無いとの反論がありました。謹んでこの記事を取り消します。稲妻楼にも一楽さんにも誠に気の毒なことをしました」となります。

 訂正元の記事は紹介するのがはばかられるほどの破廉恥なもの。いわゆる「艶(つや)ダネ」とよばれるもので、簡単に言えば、男と女の情事について書いたものです。記事の内容をざっと説明すると「ある若い男が、芸妓の一楽さんを一夜のうちに自分のものにできるかどうか、稲妻楼の仲居さんと賭けをした。一楽さんはお堅いことで有名だったので仲居さんは勝ったも同然と思ったのだが、翌朝部屋を訪ねてみると男と一楽さんは同じ寝床に……」といった内容です。

 こんな事実無根のことを書いておいて、「お気の毒」は非常識ですよね……。当時の記者に成り代わっておわび申し上げたいくらいです。しかしこの頃の紙面を見てみると、このような艶ダネは、挿絵入りで紙面のかなりのスペースを占めています。これは、創刊当時の朝日新聞の成り立ちから、ある程度仕方のない紙面作りではありました。

 朝日新聞の創刊はこの年の1月25日。大阪の地で産声をあげました。当時すでに東京では東京日日新聞(現・毎日新聞)や読売新聞、東京絵入新聞、郵便報知新聞などが発行されており、大阪でも大坂日報(後の大阪毎日新聞で、現・毎日新聞)、大坂新報、大阪新聞などがありました。朝日は少し遅れての創刊だったのです。

 当時の新聞は、政治の話を主に載せて、文章も漢語調で硬派な「大新聞」と、ちまたの事件や芸能情報をとりあげ、文章も平易な「小新聞」に分類されます。東京日日は大新聞で、読売は小新聞。大阪でも大坂日報は大新聞で、当時かなりの部数を発行していました。後発の朝日は、小新聞に進出の余地を見いだしたのだと思われます。政府を批判するような記事を載せる大新聞より、小新聞の方が発行許可を得やすかったこともあるかもしれません。

 ちなみに、当時の責任者がその発行許可を求めて大阪府知事に出した書類が、社史に載っていました。その一節にはこのようにあります。

専ラ俗人婦女子ヲ教化ニ導ク者ニシテ、紙面ニ挿絵ヲ加ヘ、傍訓ヲ付シ、児童ト雖モ一見シテ其意ヲ了解シ易カラシム

 「(朝日新聞は)もっぱら一般市民の教化を目指して紙面に挿絵を加え、ふりがなを付けて、児童でも一見してその内容が分かるようにする」という内容。取り消しになった、この記事などを見る限り、「市民の教化」にはほど遠い内容ではありますが……。実際は、こういったちまたの話題が読者も取っつきやすかったのだと思います。一応、1面の頭には官報や大阪府の通達などを載せているのですが、当時の法令などは半分文語調で難解です。朝日新聞はこれにもふりがなを付けて載せており、当時の市民にとってはありがたかったのかもしれません。創刊後、ほどなくして朝日は着実に部数を伸ばし、徐々に硬軟を織り交ぜた内容の紙面へと移行していきます。

 では、今回のメーン記事に入りましょう。

 2件の別の記事について訂正していますが、現在では、まずそこでアウト。訂正記事は、同時に発生したときも個々の記事ごとに「訂正」のロゴをつけて掲載します。1本ずつ分けて書くことにしましょう。

 さらに、訂正記事は訂正元の記事が載っていた面に載せるのが現在の基本形。政治面の記事なら政治面に、スポーツ面の記事ならスポーツ面に、といった具合です。今回の場合、訂正元の記事はどちらも2面に掲載されていたので、同じ面に訂正記事も載せたいところです。しかし、当時は今ほど「○○面」という区別がないので、最終の4面に押し込んだものと思われます。それならせめて、日付と号数だけではなく、何ページ目に入っていた記事なのかを入れてもらうことにしましょう(なお、現在の紙面では号数は書いていません。すでに4万6千号を超えていて区別もつかないですよね)。

 現在だと、掲載日の後にその時の見出しを再掲して、どの記事を訂正するのか分かりやすく示します。しかし、この時代はまだ見出しがないので、原文のように説明するのは許容します。ただ、訂正する文言は、かぎかっこで明確にします。庄吉さんが無関係であることも書き添えるとより良くなりますね。

 とにもかくにも、きちんと「訂正します」という文言を入れて、誤りだったことを明確に示さなければなりません。「…の誤り」「…は誤聞につき取り消し」で終わってはなんとも横柄です。もちろん当時の新聞は、より多くの情報を早く広く伝えることが第一の使命であったでしょうから、今ほど正確性は求められていなかったのかもしれません。それでもこちらが間違えたのですから、丁寧に書いてほしいものです。

拡大「偽造」に「にせ」などと平易な言葉に直してルビがふってある(人権に配慮し画像は一部加工しています)
 この訂正記事や、訂正元の記事は、発行許可願いの宣言どおり、漢字にルビがきちんとふられていますが、漢字本来の音訓ではないですね。「偽造=にせ」「御吟味=おしらべ」など、近い意味で平易な言葉に直してルビをふっています。現在では原則こういうことはしないので朱を入れたいところですが、当時は一般市民が読んで意味を分かってもらうことが、第一の目標ですから、今回は指摘を見送ります。

 植字ミスなのか、記者の聞き間違いか、ニセ札作りの容疑者として誤って報じられてしまった「庄吉」さん。単なる誤字では済まされませんでした。この人物は実在し、名誉を傷つけられたとして讒謗律(ざんぼうりつ)にしたがって朝日新聞を告訴します。讒謗律とは新聞などを主に名誉棄損防止の観点から取り締まるために1875(明治8)年に定められた法律。高校で日本史を学んだ方なら、この難しい漢字の並びに見覚えがありますよね。「事実の有無を論ぜず人の栄誉を害す」、つまり「事実であるかどうかにかかわらず個人の栄誉を傷つける」ことを出版行為で行った場合、罰するという、表現の自由を制限した厳しい法律でした。

 今回の場合は、明らかに誤報なので反論の余地はありません。このときの編集責任者は罰金5円を裁判所から言い渡されました。これが、朝日新聞が罰せられた初めてのケースです。初誤報は、苦い記録として永遠に残ることになってしまいました。

 前述したように、この頃の訂正は、特に「訂正」などとは明記せず、一般記事と同じ並びで掲載されています。ざっとデータベースをみたところ、今回の記事の少し後、2月中旬あたりから「正誤」と文頭に示して、過去の記事の誤りを訂正する体裁が見られるようになります。「訂正」を文頭に示すようになったのは1885年ごろから。しかしこの「訂正」と「正誤」はしばらくの間、共存します。時には隣同士で載っている例もありましたが、その使い分けははっきりとは分かりませんでした。

 記事と記事の間に紛れ込ませて書いていたり、紙面の隅っこに小さく載せていたり、といった姑息(こそく)な?掲載手段を経て、戦後の1952年前後から徐々に、文末が「訂正します」と丁寧な表現に。そして現在のように分かりやすい「訂正」のロゴを掲載するようになったのは1954年3月あたりからのようでした。歴史を重ねるごとに、新聞の情報の重要性を自認し、正確な情報を伝えることへの責任感が増していったのだと思われます。体面よりも、誤りはきちんと認め、正しい情報を伝え直すんだという気概が感じられます。

 訂正のない紙面を目指して、心を新たに日々の校閲業務に励みたいと気を締め直した筆者でした。

(画像には主な直しだけ朱を書き入れています。現在の朝日新聞の表記基準で認めていない漢字の音訓や、当時は入れていなかった句点を入れる等については、原則として記入を省いています)

【現代風の記事にすると…】

 訂正  2日付2面に掲載した紙幣偽造事件の記事で、逮捕されたのが「●●庄吉」容疑者とあるのは「●●宗吉」容疑者の誤りでした。●●庄吉さんは無関係でした。訂正します。

 訂正  8日付2面に掲載した医事会同社の集会の記事で、「会ごとに役員改正の件が議論される」とあるのは誤りでした。この部分を取り消して訂正します。

【参考・訂正もとの記事】

 昨年から偽造半円札が出まわっている問題で、誤って受け取ってしまい損害を被る人も少なくなかったが、このほど大阪府警は●●庄吉容疑者=横堀3丁目=を逮捕し、事情を聴取している。●●容疑者は、天満周辺で買い物をした際に、偽造紙幣を使って気付かれたという。

 ◇  ◇  ◇

 9日、大阪・石町の三橋楼で医事会同社の集会がある。会ごとに役員改正の件が議論されるという。

(広瀬集)

当時の記事について

原文どおりに表記することを原則としますが、読みやすさの観点から

  • 漢字の旧字体は新字体に
  • 句点(。)を補った方がよいと思われる部分には1字分のスペース
  • 当時大文字の「ゃ」「ゅ」「っ」等の拗音(ようおん)、促音は小文字に

等の手を加えています。ご了承ください