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昔の新聞点検隊

ざん切り頭で取組すれば角界革新の音がする

市原 俊介

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【当時の記事】

何もかも新味横溢 華々しい旗揚げ 楽隊、観衆の大声援も賑はしく ザン切り頭の大熱戦

雨で日延べとなってゐた新興力士団の旗揚げ興行は四日華々しく初日を開けた、下谷中根岸の電車通りには「相撲場入口」といふ新停留所が出来、警戒の警官隊、電気局員が出動して整理に当る

入口のアーチには「選手権争奪戦」と大書してあるのが目新らしい

観衆は早朝から押しかけてなかなかの人気、大テントの真ン中にしつらへた土俵には新らしい砂が盛られ、紅白の幕を巻いた四本柱の下には新しい手をけにひしゃく、勝敗を告げるラウドスピーカーの前にはアナウンサーが頑張ってゐる

荒むしろを敷いた約五千人を収容するさじきは午前十一時頃には半分以上埋(うづ)まってしまった

天竜、大ノ里、山錦をはじめ力士一行は晴れ姿に緊張した面持ちで裏手テント内に控へてゐる 九インチ特製のソフトをはにかんでかむった出羽ケ岳、特大サイズの中折が皆な頭の上に乗ってゐる

茶色がかった粋な洋服姿は和歌島だ、ざんぎり頭に油をつけて、ふとテント張りの隅を見ると大鏡がかけられ床屋は一生懸命一人々々きれいに手いれを引受けてゐる

外では写真屋が記念撮影で大繁忙 十一時十分いよいよ入場式、赤いズボンの楽隊を先頭にABCと三クラスに分けた三十一力士が東西に分れて土俵の両側に登場、観衆は「よくやった」「えらいぞー」「天竜ッー」とわき立つ、楽隊は一層馬力をかける、お目見得も終って、いよいよえぼし、ひたたれ姿で木村伊三郎、同正三郎が審判席に着く、木村弥三郎が

軍配を持って土俵に現れる、「選手権争奪戦を開始いたします」 いふ事が新しい

最初はCクラスの倭岩(東)大高山(西)の取組、言葉は何から何まで新しい、西方大高山の勝ちであっさり片付きプログラムは進む、午後零時四十分Cクラスが済むとまた楽隊が入って天竜大ノ里外六名の理事が紋服姿で現れ革新運動の動機協会脱退以来の経過その他についてあいさつをする

観衆席から「ようし、しっかりやれー」と声がかかる、場内は力士のハイカラに分けた頭髪からして珍しく新鮮味たっぷりでまづ

上々さじきもだんだん埋(うづ)まって行く、九十銭の入場券売場から場内のフトン係まで全部若い女性で、周囲にはよしず張りの売店が取りまいて根岸で始めての賑やかな光景である【写真は入場式 左から大ノ里、天竜、出羽ケ岳】

(1932〈昭和7〉年2月5日付 東京朝日 夕刊2面)

【解説】

 今回紹介する記事は、10月5日に取りあげた、角界の変革を求めた力士たちが立てこもった春秋園事件の続報です。力士たちは、立てこもりの3日後の1932年1月9日に、要求が受け入れられなかったとして相撲協会に脱退届を提出。「大日本新興力士団」という新しい団体を結成しました。

 力士団は、結成後初の興行を2月4日から下谷区中根岸町(現在の東京都台東区)で6日間行います。紙面を見ると新鮮味たっぷりの興行は好評で、たくさんの観客がつめかけたようです。

 記事にあるように、初興行の初日は3日の予定でしたが、雨で1日延期となりました。力士団は協会との対立のため、当時の国技館が使えませんでした。そのため臨時に立てたテントでの興行となり、雨の中では開催できなかったのです。

 さて、この興行の詳しい競技方法はこの紙面ではわかりませんが、前後に掲載された記事などを見ると、協会との違いを打ち出すために、力士団がさまざまな工夫をしたことがうかがえます。

 まず、横綱三役前頭といった番付を廃止し、力量によって力士をA~Cの3クラスに分けて総当たり戦をすることにします。これは従来の番付に、実力が十分に反映されていない、という力士たちの不満を反映したものです。最も上となるAクラスには10人が組み込まれました。

 5日間にわたって行われる総当たり戦は「選手権争奪戦」と呼ばれることになり、最初の選手権獲得者は8勝1敗で天竜でした。

 これにあわせて、日程の都合で1日に2番取組を戦う力士がたくさんいたり、勝ち星で並んだ力士がいたために6日目の千秋楽に順位決定戦が行われたりするなど、それまでの協会の場所では見られない仕組みも多数導入されました。

 取組のあり方を見直すほかにも、入場料を協会の場所よりも割安の90銭に設定し、千秋楽には観客からの投票で選ばれた力士同士の取組を行うことにするなど、相撲を身近に感じられるような試みも多く採りいれました。

 また、当時の相撲協会の場所では同門の対決が組まれていなかったため、力士団の興行ではそれまでに見られなかった取組がたくさん見られると好評でした。

 これらの工夫は、春秋園事件で協会に要求したことを実践したものでした。「角技を大衆のものたらしむる」ことを目指した力士団の工夫は、旗揚げ興行にたくさんの観客が入ったことで、ある程度成功したといっていいでしょう。

 旗揚げ興行で優勝した天竜は、力士団の中心として知恵をしぼったアイデアマンでもありました。

拡大飛行機に乗った天竜=1932年2月3日付夕刊2面
 静岡県浜松市出身で当時28歳の天竜(本名・和久田三郎)は、この第1回選手権の開催を人々に広く知らせるため、予定された初日の前日の2月2日、飛行機に乗って東京上空を飛び回り、2千枚の優待券と宣伝ビラをまきました。自ら飛行機に乗りこんだところに旗揚げ興行を成功させようという意気込みが感じられます。

 身長180センチ、体重100キロ以上ある天竜にはいささか小さいサイズの飛行機で、飛行機を見た天竜は「何だい小さな飛行機だなあ」とこぼしたといいます。当時の紙面では、飛行機に乗った天竜が紹介されています=右の画像

 記事によると、この興行の前に、力士たちはまげを落としていました。記事では力士たちの頭髪をざん切り頭と表現していますね。

 ざん切りは、日本国語大辞典(小学館)によると「男子の髪形の一つ。月代をそらないでうしろへなでつけ、髪をえり元で切ったもの」。散髪脱刀令が出された1871(明治4)年以降に流行した髪形で、「ざんぎり頭をたたいてみれば 文明開化の音がする」という言葉でみなさんご存知かもしれません。

 力士たちがそろってまげを落としたのは、立てこもる場所を春秋園から駒込の旧木戸孝允邸宅に移した後、1月16日。協会に復帰させようとする切り崩し工作にあっていた彼らが、これをはねのけ、復帰しないという強い意志を表明するために行ったものでした。ずいぶん過激な行動に出たものです。

 ただ、この記事で「九インチ特製のソフトをはにかんでかむった」と紹介されている出羽ケ岳だけは、まげを切らなかったようです。当時の記事ではその理由を「肉体その他の条件からまげを切らすに忍びない、力士道からもまげを存続して力士のシムボルとしたい」(17日付夕刊記事)としていますが、なんだかピンときません。私が当日の校閲記者だったら、もっとわかりやすくして欲しいと出稿部に指摘を出すでしょう。

 出羽ケ岳は身長2メートル・体重180キロを超える、当時としては群を抜いて大きい力士。その他の「特大」の帽子と区別して、出羽ケ岳の帽子だけ「9インチ」と数字が明示されているのは、彼が超大型であることが読者にも知れわたっていたからでしょう。

 ちなみに出番を待つ力士たちがかぶっていたという「ソフト」「中折」は、柔らかい布で作られた帽子のことです。帽子の上の部分をくぼませた形が「中折れ」と呼ばれる由来でしょう。今なら「中折れ(帽)」と送りがなを入れて表記します。

拡大2月5日付記事の初日の勝負の部分の拡大
 この紙面では、この日に行われた取組の結果も「初日の勝負」として速報しています=右の画像。締め切り間際に起こった出来事でも、可能な限り記事にするのが今も昔も変わらぬ新聞の役割。ただ、短い時間の中での紙面づくりでは、細かい不具合が起こりがちです。ここでも、そんな事情をうかがわせるような表記の不統一が起こっています。

 まずBクラスの4取組目から、決まり手の表記の体裁が変わっているのにお気づきでしょうか。それまでは丸カッコ(パーレン)付きの表記なのに、肥州山-玉碇の取組の次からはカッコなしになっています。

 また、Bクラスで不戦敗となっている「高ノ花」と「高野花」は、おそらく同じ力士のことでしょう。前後の紙面では、「高ノ花」と表記しているので、こちらにそろえましょう。

 紙面では、記事の右側に入場式での力士たちの姿を写した写真が掲載されていて、記事の文末に写真の説明文があります(この文章を「写真説明」といいます)。これによると、左から大ノ里、天竜、出羽ケ岳となっています。

 ただ、写真をよく見てみると、他の力士より目立って大きく、頭にまげが残っているように見える力士がいて、これが出羽ケ岳のように思えます。写真説明では左から3番目にいることになっていますが、見方によっては左から4番目にいるようにも見えますね。

 写真を撮った記者にも確認してもらい、もしこの大きな力士が出羽ケ岳なら、写真説明に「後列左から」などと説明を加えた方がまぎらわしくなくて親切でしょう。

 また、写真説明が文末にあり、写真がある位置とかなり離れているため、紙面をパッと見たときに何の写真かわかりにくい印象を受けました。当時の紙面では、こんな風に文末に写真説明を入れることが多かったようで、今ではあまり見られない編集の仕方ですね。大きな紙幅を割いている重要な記事につく写真ですし、わかりやすさを重視して写真説明を写真の下などに入れることを提案してみましょう。

 旗揚げ興行は好評だった新興力士団ですが、この興行の翌年には団体から抜けて協会に復帰する力士が多数出るなどし、徐々に勢力を失っていきます。拠点を東京から大阪に移したり、満州に渡って興行をしたりしましたが盛り返せず、1937年末に活動を終えました。

 一方、力士団の解散後、多くの力士が協会に復帰する中、天竜は解散とともに引退しました。戦後は相撲解説者として活躍し、1989年に亡くなった際の死亡記事では、「『春秋園』事件 反骨の元関脇」と紹介されています。

(画像には主な直しだけ朱を書き入れています。現在の朝日新聞の表記基準で認めていない漢字の音訓や、当時は入れていなかった句点を入れる等については、原則として記入を省いています)

【現代風の記事にすると…】

華々しく旗揚げ興行 新興力士団、角界に新風 ざん切り頭で大熱戦

 4日、雨で延期となっていた大日本新興力士団の旗揚げ興行が、華々しく初日を迎えた。東京・下谷区中根岸町の電車通りには「相撲場入口」という停留所が新設され、警備のための警官隊が出て、東京市電気局員も人込みの整理に当たっている。

 会場入り口のアーチに「選手権争奪戦」と大書してあるのが目新しい。早朝から観客が押しかけ、なかなかの人気ぶり。大きなテントの真ん中につくられた土俵には、新しい砂が盛られている。紅白の幕を巻いた4本柱の下には新しい手おけやひしゃくが用意され、勝敗を告げるスピーカーの前にはアナウンサーが陣取っている。

 むしろが敷きつめられた約5千人を収容するさじき席は、午前11時ごろには半分以上が埋まった。

 晴れ姿の天竜、大ノ里、山錦をはじめ力士らは緊張した面持ちで、裏手のテント内に控えている。力士らの頭にはみな特大サイズの中折れ帽が乗っていて、出羽ケ嶽も約20センチの特製のソフト帽をはにかみながらかぶっている。ざんぎり頭に油をつけて、茶色がかった粋な洋服姿を披露したのは和歌島。テントの隅にかけられた大鏡の前では、床屋が一生懸命に立ち働いている。テントの外では写真業者が記念撮影で大忙しだ。

 午前11時10分にいよいよ入場式が始まった。赤いズボンの音楽隊を先頭にABCと3クラスの31力士が東西に分かれて土俵の両側に登場する。

 観客からは「よくやった」「えらいぞー」「天竜ー」と歓声があがり、楽隊は一層演奏に力を入れる。お目見えも終わり、えぼしにひたたれ姿の木村伊三郎、正三郎が審判席に着くと、弥三郎が軍配を持って土俵に現れ、「選手権争奪戦を開始いたします」と宣言した。

 初めての取組は、Cクラスの倭岩(東)と大高山(西)。あっさり大高山が勝ち、その後の対戦が進む。午後0時40分にCクラスの取組が終わるとまた音楽隊が入り、天竜、大ノ里ほか6人の理事が紋服姿で現れ、革新運動の動機や、協会脱退以来の経過などに触れながらあいさつをした。観客席から「ようし、しっかりやれー」と声がかかった。

 場内は力士のハイカラに分けた頭髪からして珍しく、新鮮味たっぷりでまずまず盛り上がっている。さじき席はさらに埋まっていく。90銭の入場券売り場から場内の布団係まで、従業員は全員若い女性。会場をよしず張りの売店が取りまいて、根岸で初めての賑やかな光景となった。

 【写真説明】旗揚げ興行の入場式で、土俵に立つ力士たち。後列左から大ノ里、天竜、出羽ケ岳

(市原俊介)

当時の記事について

原文どおりに表記することを原則としますが、読みやすさの観点から

  • 漢字の旧字体は新字体に
  • 句点(。)を補った方がよいと思われる部分には1字分のスペース
  • 当時大文字の「ゃ」「ゅ」「っ」等の拗音(ようおん)、促音は小文字に

等の手を加えています。ご了承ください