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昔の新聞点検隊

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【当時の記事】

●阪本龍馬四十年祭(京都)

阪本龍馬及中岡慎太郎両志士の殉難四十年祭は今十五日洛東霊山に挙行せらる。高台寺霊山道路には多くの紅白旗を立て斎場入口には国旗を交叉し、赤十字社救護所、来賓休憩所、奏楽所等の設けもあり。何れも幔幕旗等を以て美々しく装飾せり。折悪しく雨雲濛々たりしも参列者絡繹として絶えず。午前十一時阪本未亡人富子を始め大山元帥、谷、野村両子、南部北垣両男、三富中将、阿武少将等無慮三百余名参集し、一同着席するや金村梨木神社宮司祭主として十数名の祭官を率ゐ斎場に参じて厳かに祭典を行ひ、続いて野村子の祭文あり。夫より未亡人富子の礼拝あり。終りて夫人は島村佐兵衛氏の介添にて来賓一同に会釈し、挨拶は島村氏之を述べたり。夫人は齢六十余にて紋服を着せり。斯くて旧薩藩有志総代として大山元帥盤石の如き身を起し音吐朗かに、当年亡兄彦八外伏見の藩邸に在りし。阪本中岡両氏の上洛を迎へて保護したること及、後幾許もなく両氏入京せしことより奇禍に罹り大志を齎して逝ける事歴を述べ、其次に野村子旧長藩有志総代として両雄遭難当時を回想すれば感慨禁ずる能はず。我帝国が今日の文明を致せる所以、一に 陛下御稜威に因ると雖も両君の功績に与る所多しと演説し、続いて土藩総代中西楯男氏の祭文朗読あり。

(中略)

午後一時前、来賓退散し山下の翠紅館に陳列せる遺品を見たるが、井口新助氏出品にて龍馬遭難当時の着服黒羽二重、御贈位の宣示並に辞令書、古鏡、血痕附着の黒紋附羽織、遭難当時に帯せる刀の鞘、神戸旧海軍兵学校校舎の撮影三葉及、嵐山にて詠ぜし「嵐山ゆふべ淋しく鳴る鐘に散りそめにけり木々の紅葉ば」の短冊及、慎太郎氏の書簡数通と其揮毫に係る富岳の図など最も懐旧の感を惹けり。来賓の全く散ぜしは午後三時過ぎなりき。

(後略) 

(1906〈明治39〉年11月16日付 東京朝日 朝刊4面)

※今回は読みにくいため特別に句読点を補っています。一部を除き、これらは原文には入っていません。

【解説】

拡大現在の龍馬と慎太郎の墓。今も多くの参拝者が訪れます
 9月28日更新の「明治のご意見番? 勝海舟」は、ご好評をたまわりました。感謝しながら、明治維新もので、坂本龍馬関連の記事を紹介します。ちょうど104年前の今日、11月16日付の新聞。旧暦ですが、前日の11月15日は龍馬の誕生日とされ、また志半ばにして凶刃に倒れた日でもあります。

 今回は龍馬と、共に暗殺された中岡慎太郎の2人の没後40年を記念して、祭典が開かれたという内容の記事です。祭典は京都の霊山で催されました。龍馬と慎太郎の墓は、現在もこの地にあり、多くのファンが訪れています。記事によるとこの日は両雄をしのぶために300人以上の人が集まったとのこと。2人のふるさと土佐の出身者のみならず、関係の深い薩長両藩出身者らも参列しています。

 「大山元帥」は大山巌(薩摩出身)。「谷、野村両子」は谷干城(土佐出身)、野村靖(長州出身)の両子爵でしょう。いずれも大臣経験者、維新から明治にかけて活躍したビッグネームです。せっかくですから他の人たちも併せてフルネーム表記にしてもらいましょう。このコーナーではおなじみになりましたが、現在ではフルネームの人名表記が原則です。「三富中将」が誰のことか迷いましたが、同じ記事が大阪朝日新聞にも掲載されていて、そこでは「三好中将」とありました。おそらく三好成行中将のことでしょう。東京朝日では誤植してしまったようです。

 この参列者の羅列の先頭に、この記事最大のナゾの記述が登場します。「阪本未亡人富子」。「未亡人」は現在では使わないようにしている、ということは以前の記事(5月4日更新「入れ替わる人気」)で紹介しているので割愛するとして……、え? 富子?? 龍馬好きなら、この部分に違和感をもつと思います。大河ドラマ「龍馬伝」では真木よう子さんが好演している、凜(りん)として物おじしないあの女性。そう、龍馬の妻は「おりょう」さんのはず……。

拡大別記事2。1907年1月の記事
拡大別記事1。1905年7月の記事では龍馬の妻は「良子」
 ところがこの記事では「富子」。昔の女性の漢字表記はまちまちで、「子」を付けたり付けなかったり、定まっていないことも多いようですが、龍馬が姉に出した手紙の中では自分と同じ「龍」の字をあてておりょうを紹介しています。でもさすがに「富」では「りょう」とは読めません。朝日新聞ではこの記事の前年(1905年)の7月に「坂本龍馬未亡人」として「良子」が横須賀(神奈川県)で病気にかかっている、という記事を載せています(別記事1)。字は違いますが「りょう」ですよね。

 とりあえず、校閲としては以前の記事と表記が違います、と指摘しておきます。

 よく調べてみると、朝日新聞には載らなかったようですが、おりょうはこの年の1月に亡くなっているようでした。翌年(1907年)の1月に「●法会」の見出しで「阪本龍馬未亡人龍子」の一周忌を行う、という短行の記事が載っています(別記事2、こちらではしれっと「龍」の字を使っていますね……)。

 さてではこの富子はいったい誰なんでしょうか。

 最初に思いついたのが、「もしや武市さんの妻のとみさんでは?」ということでした。「武市さん」とは、武市半平太のこと。龍馬の遠戚(えんせき)であり、友として描かれることが多い人物です。大変なキレ者で、土佐藩の尊皇攘夷(じょうい)派をまとめて「土佐勤王党」をつくり、高くない身分ながら一時は藩を代表するような活躍をした、あの武市さん。大河では大森南朋さんの熱演が話題を呼びました。

 武市は、尊皇攘夷論が一時下火になった時に切腹を命じられ、明治の世を見ることなく果てました。その武市の妻は「とみ」さんでした(大河では奥貫薫さんが演じています)。武市は愛妻家で、とみをとても大切にしたといいます。

 武市のあの世からの加護があったからなのか、とみは貧しいながらも長生きをします。武市との間には子がいなかったため、養子を迎え、この頃は東京に住んでいたようです。この記事の5年後、なんととみはサイン入り、写真付きで朝日新聞に載っていました(別記事3、この記事では「登美子」と表記)。この記事には82歳とあります。当時の皇后が、天皇家のために一生懸命に働いた武市の遺族を気遣っていろいろ金品を下賜していたようで、その感謝の念を語っています(わりと印刷もはっきりしているので、興味のある方はこの画像を読んでみてください)。

拡大別記事3。1911年に載った武市半平太の妻・とみの記事。画像はクリックすると大きくなります

 また、とみの旧姓は「島村」。この記事にも「島村佐兵衛」という人物が登場し、「富子」の介添えをしています。この佐兵衛がどんな人物かは分からなかったのですが、これもあって「もしや!武市の妻を龍馬の妻と取り違えたのか?!」と筆者は色めき立ったのでした。

拡大別記事4。前日の記事
 しかし、この推測はハズレだったようです。この記事の前日の紙面で、40年祭が行われる旨の記事が載っていました(別記事4)。そこには天皇皇后両陛下から祭粢料(さいしりょう)が下賜された、ということの他に、「坂本氏の遺族トメ子氏(北海道石狩国樺戸郡浦臼村に移住し居る人)は十三日入洛したり」との一文。どうもこの「トメ子」氏が「富子」のことと思われます。はるばる北海道から来たとあっては、東京在住の武市とみとは別人と考えなければなりません。

 しかしなぜ遠い北海道に龍馬の遺族がいるのでしょう。ファンなら、龍馬が北海道開拓に興味を持っていたことをご存じかもしれません。実は遺族がその遺志を継ぐかのように、龍馬死後、北海道に移住していたのでした。

 龍馬暗殺後しばらくして、おいの高松太郎(大河では川岡大次郎さん)が跡目を継ぐことになり、坂本直(なお)と名乗ります。その直の弟・直寛が、明治になって北海道に移住。北の大地の発展に尽力しました。そして直の妻子も直の死後、直寛を頼って北海道に移住していました。この直の妻の名は留(とめ)。そう、おそらく今回の「富子」=「トメ子」は、この留さんだったと思われます。ちょうど、朝日新聞北海道版で今年初めに連載された「北の龍馬たち 坂本家の人びと」で、北海道の坂本家について詳しく書いています。留の写真も載っていますので、興味のある方はぜひご覧ください。子孫の中には現在も北海道で暮らしている方がいらっしゃるそうです。

 今回の記事の時点で直は亡くなっているので、留は「未亡人」ですし、坂本家の人間ですから、「阪本未亡人富子」は、大間違いとは言えない表現でした(「とめ」に「富」の字をあてているのは間違いですが……)。ただ、あまりにも説明不足ですよね、誰でも龍馬の妻と誤読してしまいます。当時の記者はもしかしたらそれを狙ってわざと書いたのかもしれませんが、そこは校閲としてただしておきたいところです。表記が定まっていないとはいえ、前日の紙面で「トメ子」としていますから、それにそろえて、龍馬との続き柄も補ってもらいましょう。

 ようやく謎が解けたところで、後は細かい直しをひとつ。後半で、龍馬は呼び捨てで、中岡慎太郎には「氏」がついている所があります。どちらかにそろえてもらいましょう。現在の紙面では、氏名に敬称をつけるのが原則ですが、すでに亡くなっていて歴史的な人物としてその名前が浸透している場合は、敬称を略しています。坂本龍馬、中岡慎太郎。現在では呼び捨てでも違和感はないですが、当時は没後40年なので微妙ですね。記者の判断に任せましょう。ちなみにここで登場する「井口新助氏」は、暗殺現場である近江屋の主人。難を逃れ、1910(明治43)年まで長生きします。事件当時の遺品を所有していたようで、今回この集まりのために、遺品を公開したことが書かれています。この年、朝日新聞はすでに創刊27年ですが、井口氏にしろ、後述の谷干城にしろ、龍馬や慎太郎の暗殺に直面した人が、まだ生きていたのです。

 勝海舟の回でもふれましたが、龍馬の姓は当時の紙面では「阪本」と「坂本」が半々くらいで定まっていない様子。「坂本」に直したいところですが当時の校閲者からすれば指摘は難しいでしょうか。

 最後に、「6面に関係記事」の案内を入れてもらおうと思います。というのも、同じ日の紙面の6面に「●阪本龍馬四十年祭(谷子爵の談話)」という記事も載っているからです(別記事5)。本来なら今回の記事と同じ面に載せるのがベストなのでしょうが、記事が遅れて届いたか、スペースが足りなかったか、やむを得ず別の面に載せたのだと思います。現在でも、重要な部分だけを1面に載せて、解説や詳報を別の面でじゅうぶんにスペースをとって展開する、という手法をよく用います。この場合、どの面に関連の記事があるかを知らせるために「○面に関係記事」という案内を入れるようにしています(逆に関係記事の末尾には、「○面参照」と入れてメーン記事の場所を紹介します)。今回も、重要人物のせっかくの談話ですから、ぜひ案内をいれてもらいましょう。

拡大別記事5。同じ日の6面にも40年祭の記事が……

 この談話の主、谷干城。土佐藩の出身で、西南戦争では西郷隆盛軍から熊本城を守り抜き、日本最初の内閣(第1次伊藤博文内閣)では農商務大臣に就いた人物。龍馬・慎太郎が襲われた直後に駆けつけ、まだ息のあった慎太郎から襲撃の様子を聞いたと言われています。その暗殺の様子などを語っているのが今回の談話。貴重な証言ですね。これも比較的印刷状態が良いので、画像でご覧ください。

 談話の後半、暗殺者が誰だったかに話が及びます。今なお日本史上有数のミステリー。新選組説、見廻組(みまわりぐみ。新選組と同じく京都の治安維持にあたった幕府の組織)説、薩摩藩説、紀州藩説。千葉さな説なんてものまであるそうです。干城は「判然せざれど」としながら、「松山藩の伊藤佐太郎」という人物の名を挙げています。高知県立坂本龍馬記念館や愛媛県立図書館にもご協力をいただいて調べましたが、どんな人物か分かりませんでした。

 これはおそらく言い間違いではないかと思います。従来、干城は新選組説を主張しています(朝日新聞にも1904〈明治34〉年4月25日付で干城の主張が紹介されています。中岡が山岡になっていますが……・別記事6)。暗殺現場に落ちていた刀の鞘(さや)が、新選組の原田左之助(伊予松山藩出身)のものだったというのです。元新選組の伊東甲子太郎一派が、暗殺現場に残っていた刀の鞘を原田のものと証言したとの話もあります。干城ももうこの時70歳近いですから、伊東甲子太郎と原田左之助の名を混同して言ってしまったのかもしれません。もちろん記者の聞き間違いの可能性もあります。

拡大別記事6。1904年4月25日付記事で谷干城は新選組説を主張

 そして谷は、近年今井信郎が暗殺者だと名乗り出てきたが、これは怪しい、とも述べています(前述の別記事6でも同様の主張)。今井信郎は見廻組の隊士。現在では有力な説のひとつで、「龍馬伝」ではこの今井信郎説を採用するようですが、果たしてあの世の干城は、また龍馬と慎太郎は、どのようにこのドラマの最終回を見るのでしょう。できるものならぜひまた談話をもらいたい、などと空想にひたりながら、今回はこの辺で筆を置きたいと思います。

拡大龍馬と慎太郎の墓は京都の街が一望できる高台にあります。どんな思いで今の日本を見つめているのでしょう

(画像には主な直しだけ朱を書き入れています。現在の朝日新聞の表記基準で認めていない漢字の音訓や、当時は入れていなかった句点を入れる等については、原則として記入を省いています)

【現代風の記事にすると…】

坂本龍馬没後40年祭 開かれる 京都

 坂本龍馬と中岡慎太郎の没後40年祭は、15日、京都・霊山で行われた。高台寺の霊山道路には多くの紅白旗が並び、斎場入り口には国旗が立てられている。赤十字の救護所、来賓休憩所、奏楽所なども設けられており、いずれも幔幕(まんまく)などできれいに装飾されていた。

 雨雲がたちこめる、あいにくの天気だったが、参列者の列は途切れることが無かった。午前11時、坂本家の遺族・トメ子さん(坂本龍馬家を継いだ坂本直氏の妻)をはじめ、大山巌元帥、谷干城、野村靖両子爵、南部甕男、北垣国道両男爵、三好成行中将、阿武素行少将ら約300人が集まり、一同着席すると、金村梨木神社宮司を祭主として十数人の祭官が斎場に入り祭事を行った。

 続いて野村子爵が祭文を読み上げ、トメ子さんが礼拝した。60代で、紋服姿のトメ子さんは島村佐兵衛氏の介添えで来賓に会釈し、島村氏があいさつをした。

 旧薩摩の有志総代として大山元帥が大きな体を起こして朗々とした声で、当年暗殺の年は亡兄彦八が伏見の藩邸にいた▽坂本、中岡両氏の上洛(じょうらく)を迎えて保護した▽その後まもなく両氏は京に入って受難し、大志を残して亡くなった、ことなどを述べた。

 次に、野村子爵が旧長州有志総代として「両雄の遭難当時を回想すると感慨無量だ。我が国が今日のような文明を持てるようになったのは、第一には天皇陛下のご威光によるものとはいえ、両君の功績によるところも多い」と訴えた。旧土佐総代の中西楯男氏の祭文朗読と続いた。

(中略)

 午後1時前、来賓は下山し、翠紅館に陳列していた遺品を見学。井口新助氏出品の、龍馬遭難当時に着ていた黒い羽二重、贈位の際の宣旨と辞令書、古鏡、血痕の付いた黒い紋付き羽織、遭難時の刀の鞘(さや)、神戸海軍操練所の写真、嵐山で詠んだ「嵐山 ゆうべ淋しく 鳴る鐘に 散りそめにけり 木々の紅葉ば」の短冊、慎太郎の書簡数通、富岳図などが最も懐旧の念をよんでいた。

来賓が解散したのは午後3時過ぎだった。

(後略)

(広瀬集)

当時の記事について

原文どおりに表記することを原則としますが、読みやすさの観点から

  • 漢字の旧字体は新字体に
  • 句点(。)を補った方がよいと思われる部分には1字分のスペース
  • 当時大文字の「ゃ」「ゅ」「っ」等の拗音(ようおん)、促音は小文字に

等の手を加えています。ご了承ください