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昔の新聞点検隊

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【当時の記事】

日本のゴッホいまいずこ? かつての特異児童山下清君 消息絶って二年余 油絵の大作二つを残し

いまから十六年前、昭和十三年暮のことだ。東京銀座のある画廊の床が満員の観客の足でふみ破られたことがあった。十四歳の少年洋画家の個展だが、梅原竜三郎氏、安井曽太郎氏ら画壇の絶賛を浴びたことがこの人気となった。少年は特異児童(精神薄弱)で、山下清といった。特異児童収容所の一室をアトリエに制作したことが一層人気をあおったのだった。

その作品はやがて出版され、ベストセラーズになった。指でむしりとった小さな色紙をノリではりつけて行く特異な手法を創造した彼の仕事、彼の名も、間もなく戦争の大波にのまれ、忘れ去られた。しかし山下君はその後十数年間に百二十点の大量作品を仕上げ、三十歳になった今日では、油絵に彼独自の画風を創造している。批評家のなかには「その強烈な表現力はまさにゴッホの後継者だ」という人さえいるのだが、当の山下君は油絵の大作を二枚ものした二十六年夏、市川市八幡学園(特異児童収容所)からコツゼンと姿を消したまま丸二年余り、まったく消息がないのだ。山下君よどこにいる――君にはアトリエを贈る話まであるのに……

山下君のその後の十六年間――彼を育てた八幡学園長渡辺実氏、心理学者の戸川行男氏らの話を総合するとこうだ……

太平洋戦に入る少し前、八幡学園からも数人の応召者が出た。それから間もなく、悲惨な戦争の場面をハリ絵の題材に描いて彼は消えた。十八年十月、学園にもどって来たとき、彼の日記には戦争の恐怖でいたたまらなかった心境がこまごまと書かれてあった。一カ月後、二枚の作品を残して、彼はまた消えた。やがて終戦、空襲の犠牲になったとばかり思われていた山下君は、別人のようにふとって帰ってきた。

 (中略)

作品の成長ぶりについて、梅原竜三郎画伯と式場隆三郎氏はこういう。「社会人としての面を問題にせず、作品だけからいうとその美の表現の烈しさ、純粋さはゴッホやアンリー・ルッソーの水準に達していると思う」(梅原氏)「彼の絵の特色は健康性、工芸的であることだ。彼はゴッホの作品の模写もしたが、彼自身のハリ絵が点描的なので実に近似感がある。彼はスケッチをしなくてもフィルムのように頭にその風景を焼きつける才能に恵まれ、日本画的な表現法のほかヨーロッパ的な表現法にも通じて来ている」(式場氏)

 (後略)

(1954〈昭和29〉年1月6日付 東京本社版 朝刊7面)

拡大山下清さん発見の記事=54年1月11日付東京本社版朝刊7面
【解説】

 今回取りあげるのは、56年前に新年早々の紙面を大きく飾った「尋ね人」のような記事。家族や恩人を捜す記事が新聞紙面に掲載されることは今でもありますが、この記事が他と違うのは、取りあげられた人物に注目が集まり、社会に広く知られるきっかけになったこと。

 ここで行方がわからなかったのは、当時はまだそれほど知名度がなかった画家の山下清さんです。今では、映画やテレビドラマの「裸の大将」シリーズのモデルになった山下さんということで、おなじみですね。

 山下さんは1922(大正11)年3月、東京・浅草に生まれました。3歳の頃に病気で知的障害になったといわれています。1934年に千葉県市川市の八幡学園に入園し、そこで学んだ知識を生かして創作活動をはじめます。

 記事でも書かれているように、その後は放浪しながら各地の風景を題材にたくさんの作品を残しました。「長岡の花火」など、色紙を細かくちぎって貼った、一見すると絵筆で細かく描かれたように見えるほど、細密で立体感のある貼り絵が有名です。

 行方不明だった山下さんは、この紙面が世に出た4日後の54年1月10日、現在の鹿児島市にいるところを地元の高校生に見つけられます=上の画像。ドラマでは白いランニングに半ズボン姿で描かれることが多い山下さんですが、この時は着物にゲタという姿だったようです。

 一連の朝日新聞の報道で注目が集まり、この年から山下さんの大ブームが起こります。放浪の様子をつづった日記が出版されてその独特の文体が人気を集め、作品展には大勢の客がつめかけました。71年7月に49歳で亡くなった後も、その作品は多くの人々に愛されています。

 今回は戦後の紙面ということもあり、表現の上ではあまり直すところが見当たりません。ただ、記事の基礎となるデータに致命的な誤りが含まれている可能性が……。急いで確認してもらいましょう。

拡大八幡学園の子供らの作品展を紹介する記事=39年12月6日付東京朝日朝刊8面
 書き出しで1938年の暮れ、14歳の時に個展が行われたとありますが、過去の記事を調べていくと、39年12月6日付の朝刊で、「画壇人さへ驚く 芸術味豊かな作品 八日から開く 特殊児童の絵画展」という記事がありました=右の画像

 この記事では、12月8日から銀座の青樹社という画廊で、八幡学園で暮らす子どもたちの作品展が開かれることが紹介され、その作品の大部分を占める絵を描いたのは「××清少年」だとしています。これは山下さんのことをさしている可能性が高そうです。

 過去の紙面では38年の暮れに画廊で展覧会が行われた、とする記事は見当たりませんでした。ただ、38年11月10日付朝刊では、早稲田大学の講堂で、やはり八幡学園の子どもの作品展が開かれていることが取りあげられていました。

 山下さんのおいの、山下浩さんによる著書「家族が語る山下清」(並木書房)の年表などを見ても、38年に画廊で個展が開かれた、という事実は確認できませんでした。これらのことをあわせると、記者がこの二つの作品展を取り違えたのでは?という疑問が浮かんできます。また、山下さんの作品だけではなく、他の人の作品も一緒に展示していたのなら、個展ではなく展覧会や作品展とした方がよいでしょう。

 さらに、記事では山下さんの年齢にも誤りがありそうです。22年3月生まれの山下さんは、38年暮れには満年齢で16歳のはず。展覧会の件と合わせて、記者に確認してもらいましょう。今回の現代風の記事では、39年末に展覧会が開かれたものとして、山下さんの年齢を17歳としておきます。

 一方、記事では掲載された時点での年齢を「三十歳になった今日」としていますが、54年1月時点ならば31歳なので、やや不正確に思えます。「三十歳になった」という表現を「三十歳を超えた」と解釈するなら誤りとまではいえないかもしれませんが、前の部分と食い違ってまぎらわしいので「30代を迎えた今日」などと表現をかえるよう提案してみましょう。

 見出しで「日本のゴッホ」とゴッホとの関係が強調されているのは、山下さんの絵画の特徴がゴッホと似ていた上、前年が生誕100周年にあたり、ゴッホに注目が集まっていたことも影響したのかもしれません。

 そのゴッホに言及しながら山下さんの作品についてコメントを寄せている人のうち、式場隆三郎さんがどのような人物なのかを記事で説明していないため、山下さんとの関係がよくわかりませんね。

 式場さんは当時著名な精神科医で、八幡学園のある市川市で病院を開業していました。美術にも詳しく、戦前から山下さんと親交があったため、この時コメントしてもらったのでしょう。

 渡辺実さんが八幡学園の「園長」とありますが、どうやらこれは「職員」の誤りのようです。

 八幡学園のサイトなどによると、当時の園長は久保寺光久さんで、渡辺さんとは別人。渡辺さんは山下さんの入園前から同学園で働いていて、その創作活動を後押ししました。渡辺さんは、後に多年にわたる知的障害者福祉への貢献が評価され、83年度の朝日社会福祉賞を受賞しています。

 現代の校閲記者の目から見ると気になるのが、「特異児童(精神薄弱)」という言葉です。

 「特異児童」は見慣れない言葉ですね。紙面でも過去に使われた例がほとんどなく、一般に知られた言葉とはいえません。日本国語大辞典(小学館)によれば、「何らかの事情で特別な扱いをしなければならない児童」との意味。この言葉が使われたのは、記事でも触れられている、山下さんが少年の時に出版された作品集の書名や展覧会の名前として使われた言葉だからだと思われます。

 ただ、本文中にその説明がないのでいきなりこの特殊な用語を使うと、いかにも唐突な感じがします。現在ならば本文中にその由来がわかるよう説明を入れるか、他の言葉を使うでしょう。

 また、当時の紙面では精神薄弱という言葉を使うのが一般的でしたが、障害に対する偏見を招いているとの批判があり、使われなくなりました。現在なら知的障害という言葉を使います。法律の用語も知的障害に改められています。

 「ベストセラーズ」はいまなら「ズ」なしで「ベストセラー」と表記します。売れ行きのよい商品をさす英語「best seller」のカタカナ表記で、日本国語大辞典によると、「ベストセーラー」という表記の揺れもあったようです。91年の内閣告示「外来語の表記」にも、用例として「ベストセラー」と出ています。

 最後に考えてみたいのが、山下さんの呼称についてです。

 初めて名前が出てくる箇所で呼び捨てになっているのは、画家としての業績を紹介する部分なのであまり気になりませんが、2度目以降は「山下君」と「君」付けにしています。山下さんは当時すでに30代です。「君」よりは「氏」あるいは「さん」とする方が自然な気がします。「君」とすると、書いた記者にそのつもりがなくても、山下さんを軽く見ているような印象を与えるかもしれません。

 一方で、「氏」や「さん」では、記事の親しみやすさが感じられなくなるという面もあります。出稿部と相談してどう表現するかを考えましょう。

 「裸の大将」は魅力的なキャラクターですが、実際の山下さんとは違う点も多いようです。ドラマの山下清は、旅先でスケッチブックに次々と絵を描いていきますが、山下さんが出先で創作活動を行うことはまれで、多くの作品は学園や家に戻った後、記憶した景色をもとに作られることが多かったとのこと。

 来年は没後40年にあたり、再び注目を集めることになりそうです。

(画像には主な直しだけ朱を書き入れています。現在の朝日新聞の表記基準で認めていない漢字の音訓や、当時は入れていなかった句点を入れる等については、原則として記入を省いています)

【現代風の記事にすると…】

日本のゴッホいまいずこ? 山下清さん 消息絶って2年余 油絵の大作二つを残し

 いまから14年前、1939年暮れ。東京・銀座のある画廊で、満員の観客の重さで床が抜けたことがあった。当時17歳の少年の作品を中心にした展覧会だったが、画家の梅原龍三郎さん、安井曽太郎さんらが絶賛したことが、この人気のきっかけだった。少年には知的障害があり、名前は「山下清」。彼が、入所する施設の一室をアトリエにして制作したことが、人気に拍車をかけたのだった。

 作品はやがて出版され、ベストセラーになった。指でむしりとった小さな色紙を、のりで貼りつけていく独特な手法を創造した彼の仕事、彼の名声も、間もなく戦争の大波にのまれ、忘れ去られた。しかし山下さんはその後、十数年間に120点におよぶ作品を仕上げ、30代を迎えた今日では、油絵に独自の画風を創造している。批評家のなかには「その強烈な表現力はまさにゴッホの後継者だ」という人さえいるのだが、当の山下さんは油絵の大作を2枚ものした51年夏、千葉県市川市の知的障害児入所施設「八幡学園」から突然姿を消したまま2年余り、まったく消息がつかめていないのだ。山下さん、あなたは今どこにいる――。アトリエを贈る話まであるのに……。

 山下さんの展覧会後の14年間について、彼を育てた八幡学園職員の渡辺実さん、心理学者の戸川行男さんらは次のように振り返る。

 太平洋戦争に入る少し前、八幡学園からも数人の応召者が出た。それから間もなく、悲惨な戦争の場面を貼り絵の題材に描いて彼は消えた。43年10月に一度、学園にもどったとき、彼の日記には戦争の恐怖でいたたまれなかった心境がこまごまとつづられていた。1カ月後、2枚の作品を残して、また消えた。やがて終戦、空襲の犠牲になったとばかり思われていた山下さんは、別人のように太って帰ってきた。

 (中略)

 作品の成長ぶりについて、梅原さんは「社会人としての面を問題にせず、作品だけからいうとその美の表現の激しさ、純粋さはゴッホやアンリ・ルソーの水準に達していると思う」と語る。一方、山下さんと親交のある精神科医の式場隆三郎さんは「彼の絵の特色は健康性、工芸的であることだ。彼はゴッホの作品の模写もしたが、彼自身の貼り絵は点描的なので実に近似感がある。彼はスケッチをしなくてもフィルムのように頭にその風景を焼きつける才能に恵まれ、日本画的な表現法のほかヨーロッパ的な表現法にも通じてきている」と話している。

 (後略)

(市原俊介)

当時の記事について

原文どおりに表記することを原則としますが、読みやすさの観点から

  • 漢字の旧字体は新字体に
  • 句点(。)を補った方がよいと思われる部分には1字分のスペース
  • 当時大文字の「ゃ」「ゅ」「っ」等の拗音(ようおん)、促音は小文字に

等の手を加えています。ご了承ください