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昔の新聞点検隊

拡大記事1=1906(明治39)年10月27日付東京朝日1面
 21日の更新で今年は最後、としていましたが、4月から愛読して下さったみなさんに感謝の気持ちを込めて、ちょっと遅いクリスマスプレゼント? 一足早いお年玉? といったところでしょうか、「番外編」をお送りします。

 今年、たくさんの方が読んでくださった坂本龍馬に関する過去2回の記事(9月28日公開「明治のご意見番? 勝海舟」、11月16日公開「龍馬の妻が『富子』さん?」)で載せきれなかった龍馬関連の紙面を少し紹介したいと思います。普段のこのコーナーでは現代の校閲から見た誤りなどを指摘していますが、今回はそれを休んで、昔の記事を純粋に楽しんでいきたいと思います。

 まずはこちら=記事1。11月公開の際に、1906(明治39)年に龍馬と中岡慎太郎の没後40年記念祭が開かれたことを紹介しましたが、その開催を呼びかける広告を公開後に見つけました。現代仮名遣いにすると、以下のようになります。

贈正四位坂本龍馬君、同中岡慎太郎君、四十年忌に付き、来る十一月十五日、京都霊山に於いて祭典挙行仕(つかまつ)り候。紀年物品、墨跡、御出品又は、詩歌、金員等御供え下され候御方は、京都上京区御所八幡町五番、男爵小畑美稲宛、御送り下されたく候也。
 明治三十九年十月二十七日 伯爵土方久元 伯爵佐々木高行 男爵南部甕男

 

 40年忌の時の記事では、出席者に南部男爵の名前しかありませんでしたが、呼びかけ人には土方久元、佐々木高行、小畑美稲もいたのですね。いずれも土佐藩出身。土方は幕末、一時太宰府に落ちた公卿の三条実美を護衛していたことなどが、司馬遼太郎の「竜馬がゆく」などでも描かれていて、ご存じの方も少なくないでしょう。維新後は農商務大臣、宮内大臣などを歴任、1918(大正7)年まで長生きしました。佐々木は大政奉還時に龍馬や後藤象二郎とともに働いたといいます。維新後は参議などを歴任、岩倉使節団の一員として欧米視察にも行っています。1910(明治43)年没。小畑は土佐で長くとらわれの身にあり、幕末に目立った活躍はなかったようですが、維新後は裁判関係で働きます。1912(大正元)年没。

 龍馬と慎太郎が死後40年を経ても、土佐藩出身者の心にしっかりと存在していたことがうかがえます。一方で、こういう話もあります。この何年か前に、明治天皇の皇后の夢に龍馬が出てきたというのです。時期は日露戦争の開戦直前、1904(明治37)年2月。龍馬らしき人物が日本の海軍を守ると皇后に語ったという内容だったそうです。実際この戦争中、東郷平八郎率いる日本海軍はロシアのバルチック艦隊を破るなど、大活躍。龍馬のお告げは本当だったと、ブームが起きたそうです。

 残念ながら朝日新聞の中で当時これを報じている記事は見つけられませんでした。11月更新の記事で「(中略)」とした中に、実はこの「夢」がちらっと出てきています。「国母陛下の御瑞夢」という小冊子が参加者に配られた、とありました。これを書いたのが「御歌所」の「加藤」さん。国文学研究資料館のデータベース(http://base1.nijl.ac.jp/~kindai/index.html)で「国母陛下」を検索すると、この冊子ではないかと思われるものを見ることができます。明治37年発行とあるので、没後40年祭の時にはすでにあったと思います。曲もついて、唱歌になっていました。戦前の小学校でも歌われていたようなので、もしかすると、ご年配の方ならなじみがあるかもしれません。龍馬が皇后の夢に出たことが歌われています。

拡大記事2=1891(明治24)年5月10日付東京朝日2面
 皇后が夢で見たという武士が龍馬だったというのは、本当かどうか分かりません。日露戦争に向けて戦意高揚という面も大いにあったでしょう。この龍馬ブームの流れで、思い出したように40年祭も執り行われたのかもしれません。

 ただ、こういう記事も朝日新聞にありました。この40年忌の15年前、1891(明治24)年5月。龍馬と慎太郎、それに武市半平太と吉村寅太郎がこの年4月に位階を贈られたお祝いが行われたというもの=記事2。もちろん4人とも維新前に他界しています。記事1で「贈正四位」とあるのは、死後に贈られたからなんですね。現代語風にするとこんな内容です。

 贈位の祝祭  先月8日に位階を贈られた武市半平太、坂本龍馬、中岡慎太郎、吉村寅太郎の4氏(いずれも故人)のために、高知出身の人々は8日、麹町区富士見町富士見軒で祝祭を行った。楼上に祭壇を設け、別室に4氏の遺品を並べた。その中で、最も参加者を慄然(りつぜん)とさせたのは、坂本氏が帯刀していた肥前忠義銘の刀と、中岡氏の日記「海南雑記」だ。刀は暗殺の際に、鞘(さや)のままで格闘したものだという。そのほかに遺墨がいくつかあり、いずれも当時4氏が国事に奔走していた様子がよく分かる。
 当日の参加者は、佐々木伯、土方、田中、清岡各子、岩村氏、石田氏、山内候、後藤伯、板垣伯、山地子、中島議長ら120人余り。板垣伯、島本北洲氏らが祭文を朗読したあと、立食パーティーが行われた。

 

 「肥前忠義」はおそらく「肥前忠広」ではないかと思います。しかも暗殺時に帯びていたのは「陸奥守吉行」銘の刀だったようなので、いずれにしろ誤りですね。また中岡の「海南雑記」も「海西雑記」が正解。結局指摘をしてしまいました……。

拡大記事3=1883(明治16)年5月30日付朝日新聞2面
 さて、注目したいのはこの参加者。佐々木、土方は先述の2人でしょう。田中子爵は田中光顕。後で詳しく触れます。清岡子爵は清岡公張、岩村氏は岩村通俊、石田氏は石田英吉、山地子爵は山地元治(この時はまだ男爵のはずですが……。書き誤りかもしれません)、中島議長は初代衆院議長の中島信行でしょうか。このコーナーでも毎回触れますが、当時の記事はフルネームで書いていないので苦労します。

 さらには山内候。これは土佐の殿様だった山内家ですね。大河ドラマで「大殿様」として出てきた容堂は他界しているので、この時は山内豊景と思われます。そして後藤、板垣両伯。これは言うまでもなく、後藤象二郎、板垣退助。この2人は説明不要ですね。幕末を生き残って明治の世を支えた土佐藩出身のそうそうたるメンバーが龍馬たちのために集まったのです。少なくとも土佐藩出身者の心の中では、龍馬たちが生き続けていた。と、信じたいものです。

 ※もちろんこれも「汗血千里駒(かんけつせんりのこま)」という龍馬の伝記小説が世に出て再び注目を浴びるようになってからのことではありますが……。この小説を発行するというお知らせが1883(明治16)年5月30日付の朝日新聞にも載っていました=記事3。国立国会図書館の近代デジタルライブラリー(http://kindai.ndl.go.jp/)で、この時の冊子を見ることができます。

 この祝祭の参加者の中で、とんでもなく長生きをした人がいます。田中光顕子爵(のち伯爵)です。亡くなったのは明治でも大正でもなく、なんと1939年3月28日、昭和14年でした。読者の中にはすでにお生まれになっている方もいるでしょう。筆者から見ても、親の生まれる数年前、当然祖父母はすでに生まれています。そんな「つい最近」まで、龍馬を知る人物が存命していたなんて、なにか不思議な感覚です。

拡大記事4=1939(昭和14)年3月29日付東京朝日11面
 亡くなったときの記事=記事4=を見ると1843(天保14)年9月生まれとあるので、満95歳(数え97歳)。この記事で龍馬との関係には触れられていないのが残念ですが、「青年時代は勤王倒幕に尽瘁(じんすい)、薩長の連合、土佐藩論を一変せしめ維新革命の先駆たらしめた」とありました。この頃の訃報(ふほう)記事としても、幕末の活躍が経歴に載っているのは珍しいです。

 

 土佐時代は武市の作った土佐勤王党に入り、後に脱藩。当時は「顕助」と名乗っていて、長州側で行動することが多かったようで、光顕本人は高杉晋作の弟子だと言っています。薩長同盟の際には桂小五郎(木戸孝允)を護衛しながら上京。龍馬というよりは中岡慎太郎に近く、慎太郎が率いた陸援隊に参加しています。龍馬・慎太郎の暗殺直後に現場に駆けつけた一人でもあります。光顕が残した「維新風雲回顧録」に当時の様子を載せていて、生死をさまよう慎太郎を励ましたといった臨場感ある証言を残しています。この回顧録は1928(昭和3)年に出版されたもので、歴史資料としても貴重ですが、現在は河出文庫から現代人にも読みやすい形になって出ています。龍馬とお龍が連れ立って往来を歩いていて驚いた(当時の武士としては男女が並んで歩くのが珍しかった)、といったエピソードも語っています。

 維新後は、岩倉使節団に参加したり、陸軍の会計分野に携わったりした後、警視総監や学習院の院長などを歴任。そして1898(明治31)年に宮内大臣に就任。以後11年余の長きにわたってこの職を務めました。お気づきの方もいるでしょう。先ほどの「皇后の夢」の時、光顕が宮内大臣でした。「回顧録」にもこの話があり、光顕が龍馬の写真を献上したところ、初めて見るはずの龍馬の写真を目にして「おお、坂本である」と皇后が感動したことから、夢に出たのは龍馬に違いない、「死してなお死せずというのは、思うに竜馬のごとき人物であろう」と語っています。

 宮内大臣を辞職後は政界を引退し、数え90歳の1932(昭和7)年、隠居を表明。この時、朝日新聞は光顕にインタビューをしています。それが「田中光顕伯……往年の『顕助』に還るの辞 『今の世に笑ひがあるか』と 時局を慨く九十翁」と見出しをつけた、この記事=記事5

拡大記事5=1932(昭和7)年8月5日付東京朝日11面

 記事によれば、「耳が少し遠くなった」と言いながらも「歯一つ義歯のない」「動作も言葉もガッチリした」健康っぷり。当時の世の中を嘆く様子が、現代の日本にも通用しそうで面白いので、紹介しましょう。光顕の言葉を現代風にして抜粋すると……

 

 ・こんな老人の出る幕だとは思わないよ、しかし世の中が行き詰まって何か不安な空気がただよっているが……。まあ、斎藤(実? この時の総理大臣)にしっかりやってもらわにゃならぬ。

 ・動揺している地方に精神論を要求するのは無理じゃ、飢えにおわれている青年にまず与えることは現実を救ってやることである。それが手遅れになると心配じゃが、政府も大変じゃろう。

 ・ワシの健康法は何もない。朝起きたいときに起き、夜寝たいときに寝る。わがままなことがワシの健康法だな。たばこも酒もやらぬことが体に良いのかもしれん。

 ・政党のことをよく聞かれるが、必ずしも悪いものだと思わぬ。伊藤(博文)公も政党の必要を認められたのだから、国家観念に立った政党なら、国民の恨みを買うことはないと思うのだが、党弊がくっついてくるから悪い。どうすればいいか? そりゃワシの仕事じゃないよ。

 ・政府の役人どもは差別解消に、すこぶる不熱心だ。これらの不平、不満が国民の不満と合体したら大問題じゃ。ある時など、ワシはこの問題で警視総監に朝会ったら夕方には総監がクビになっていた。それじゃ仕事はできんよ。

 

 時の総理大臣を呼び捨てに出来るあたりがさすが維新の志士ですが、いかがでしょう。「飢え」を「就職活動」や「非正規雇用」に置き換えたら、そのまま現代にあてはまるように感じます。政党の話などは、今も昔も同じですね。

 光顕は政界引退後、維新志士たちの遺品収集などに力を入れたため文化事業関係の記事によくその名が見えるものの(高知・桂浜の龍馬銅像の除幕式に出席した記事もありました)、汚職を取りざたされての大臣辞職だったからか、政治的な記事にはあまり出てきません。しかしまれに、時の権力者に建言などをしていたようで、1933(昭和8)年11月18日付の記事では、斎藤実首相に、内大臣不要論を直言したことが報じられています。「内大臣は、伊藤内閣を作るときに、それまで太政大臣だった三条実美公のポストに困ったからとりあえず復活させたわけで今は適任者もおらず不要……」(同12日付紙面から)といった趣旨のことを主張しています。明治政府や内閣の現場にいた人から、その成り立ちから説かれては、海軍大将の経歴を持つさしもの斎藤首相も、耳が痛かったことでしょう。

 このインタビューの最後には、カメラマンが笑顔を注文したところ「今の世の中に笑えるようなことがあるか」と、ムッとした顔をレンズに向けた、とあります。写真説明も「写真は笑ひさうもない田中光顕氏」。9月に掲載した勝海舟の時も感じましたが、このように物おじせずズバズバと政界に向けてもの申せる人が、現代には少ないように思います(発言内容の良しあしは置いておくとしても)。今、光顕がこの世に現れたら、なんといって叱るでしょうか。ワシが90の頃とちっとも変わっとらん! ならまだしも、昔の方がまだマシだ! と言われるかもしれませんね。

 たった三つ、紹介しただけで、長文になってしまいました。他にも、岩崎弥太郎、上野彦馬、由利公正らの記事で龍馬の名前が出てきますが、いずれも生前交流があった、と触れる程度だったため見送りました。ただ、朝日新聞が誕生した時、すでにこの世にいなかった龍馬ですら、ちょっとデータベースで検索しただけでこれだけ面白い記事があるのです。伊藤博文や板垣退助、陸奥宗光……、明治でもバリバリ活躍した人なら、もっと多くのネタが眠っているに違いありません。

 良いものが見つかり次第、紹介しますが、興味のある方はぜひ、図書館などで朝日新聞のデータベース検索サービス「聞蔵2ビジュアル」の縮刷版検索をお試しください(お試しになる場合は、サービスを導入しているかどうか、必ず事前に図書館などにお問い合わせ下さい)。

(広瀬集)

※次は1月11日に通常版の記事を更新する予定です。

当時の記事について

原文どおりに表記することを原則としますが、読みやすさの観点から

  • 漢字の旧字体は新字体に
  • 句点(。)を補った方がよいと思われる部分には1字分のスペース
  • 当時大文字の「ゃ」「ゅ」「っ」等の拗音(ようおん)、促音は小文字に

等の手を加えています。ご了承ください