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昔の新聞点検隊

毎日毎日待ってます 茶々(淀君)より

広瀬 集

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【当時の記事】

家庭講話資料 今日の書面 二百九十七年前の九月二十六日
淀君の片桐且元に遣した消息
▽毎日々々待ち候

心よく候はばいで(出)られ候はむと、まい日々々まち候へども、御いで候はず候 わろ(悪)きじぶん(時分)のわづらひ、何より笑止にて候。何とやらむ雑説ども申候よしに候 ゆめゆめおやこ(秀頼母子)。ながら、そもじへじよさい(如才)いささか候はず候。年月のをんしやう(恩賞)何としてわすれ候はむや。何れもそもじをひとへにたのみ申候。しぜんじよさいにも御思ひ候はむとさしあたりいらざる事にて候へども、じよさいなきとほり、せいし(誓紙)にて申候。かやうの事もあひ候はば、申候はむと思ひまゐらせ候へども、いでず候まま、ふみにて申候。よくよく御やうじやう御ゆだん候まじく候。あすもあかり候事なりとも申候はむや。御返事まち入候。廿六日

 いちどのまゐる  ちやちや

◎英雄秀吉を繊弱い手掌に丸め込み、秀吉の薨後矢鱈に活動して、遂に豊臣の覇業を傾けたと云はれ、淫婦だ妖婦だと悪名を以て咀はれてゐる秀頼の生母淀君の後半生は散々人生の運命に弄ばれてゐる。其の母お市の方は織田信長の妹で、猿面冠者秀吉の献策に従って、江北の驍将として聞えたる小谷の城主浅井長政と政治的結婚をなしたが、而も長政は天正元年信長の軍に滅ぼされ、お市の方は挙し三人の女子を伴れて親里に帰り、天正十年信長の変死後、越前北荘(福井)に居城を構へて武勇隣国に轟ける柴田勝家に件の女子を連子として再婚せしに、物騒がしき戦国の波風は伉儷の情を語り尽す遑もなく、天正十一年鬼と呼ばれし勝家は秀吉の軍に打滅され、『夏の世の 夢路はかなき 跡の名を 雲井にあげよ 山子規』と辞世を詠んで斃れた。時に姉女たる茶々(淀君)は十六歳の妙齢であったが秀吉は一目見て悦に入り、此方おぢやと伴行れ一世の寵愛を独り一身に占むる様になった。此書面は豊臣氏滅亡の前年慶長十九年に片桐市正且元が深く豊臣家の前途を思うて謀りし苦心も却て淀君の為に疑はれ、其采邑茨木に退隠せし折に、淀君が異心なき旨の誓紙まで添へて登城を勧めたものである。が、且元は之に応ぜなかった。

(1910〈明治43〉年9月26日付東京朝日朝刊7面)

【解説】

 今年のNHK大河ドラマが面白いかどうか。1月は、歴史好きにとってワクワクする時期です。史実に忠実であってほしいと思う半面、1年間続くドラマですから、そこにこだわりすぎると面白みに欠ける。史実とフィクションのバランスに、作り手側は苦心するのだと思います。

 今年の主人公は「江」。戦国時代に興味がある方のほかは少しなじみの薄い人物かもしれません。父は北近江(現在の滋賀県長浜市周辺)を拠点に活躍した、浅井長政。母は織田信長の妹とされる市。この2人の間に生まれた3姉妹は、過酷な戦国時代の荒波に翻弄(ほんろう)され、数奇な運命をたどった姫君たちでした。

 江はその3姉妹の末っ子。生涯に3度結婚し、そのうち2度目は豊臣家(秀勝、秀吉のおい)、3度目は徳川家(秀忠、2代将軍)と、波瀾(はらん)万丈です(1度目は婚約のみとする説もあり)。ドラマで演じるのは上野樹里さん。「のだめ」をはじめ、明るい役の印象が強い上野さんが、この戦国時代の姫の人生をどう表現していくか、楽しみです。

 昨年は坂本龍馬に関する記事を何本か紹介できたので、今年も江に関する記事を紹介できれば、と探してみたのですが、残念ながら見あたりませんでした。その代わりと言ってはなんですが、江の姉・茶々に関する記事がありました。茶々は間違いなく江より有名人。別称の「淀君」あるいは「淀殿」を、一度は耳にしたことがあると思います。天下人・豊臣秀吉の寵愛(ちょうあい)を受け、跡継ぎの秀頼を産み、秀吉死後は幼少の秀頼をたすけ、豊臣家を切り盛りしたとされる、あの淀君です。

 今回はその茶々の手紙を紹介する記事です。「毎日毎日待ち候」なんて見出しがあると「もしやラブレター?」などと思ってしまいますが、どのような中身でしょうか。

 この記事は1910(明治43)年に1年間連載された「家庭講話資料 今日の書面」という企画のうちの1本。新聞ではよく「今日は何の日?」系のコーナーがあり、朝日新聞でも現在夕刊(一部地域除く)で「あすは何の日」を社会面の下欄に掲載していますが、この「今日の書面」は一風変わっています。その日の日付が入った、過去の手紙を紹介するもの。幾つか例を挙げると、「武田信玄→徳川家康」「後藤象二郎→坂本龍馬」「カーライル→ゲーテ」など、有名無名、国内外を問わず様々な時代の手紙が登場します。

 連載の翌年、書籍として出版されており、現在は国立国会図書館の近代デジタルライブラリー(http://kindai.ndl.go.jp/index.html)でその内容を見ることができます。興味のある方は左記サイトで「今日の書面」と入力して検索してみてください。

 では今回の記事を見ましょう。茶々が出した手紙の宛先は、片桐且元。豊臣秀吉の配下で、特に秀吉が柴田勝家を破った賤ケ岳(しずがたけ)の戦いで活躍したとされる「七本槍」として有名です。秀吉死後も豊臣家によく仕え、茶々や秀頼の補佐役をつとめました。

 しかし手紙の内容を見ると、どうもその且元が、茶々と秀頼を不審がって城に出勤してこないようです(現代風参照)。茶々は且元に「会って話したい。出てきてほしい」と訴えていますが、一体なにがあったのでしょう。

 この記事では残念なことに、この手紙の背景が最後の方にちょこっと出てくるだけで、茶々の生い立ちばかりに行数が割かれています。もしかしたら、元の原稿は続きがあったのに、紙面スペースの都合で削られてしまったのかもしれません。これを業界用語で「あずかる」と言っています。ただ、重要な部分をあずかっては、記事の価値も半減します。明治の終わりには、この手紙の前後の出来事を描いた坪内逍遥作の歌舞伎「桐一葉」が流行していたので、この記事の筆者または編集者は「長い説明は不要!」と判断したのかもしれませんが、その話を知らない読者も少なくないでしょう。やっぱり説明がほしいですよね。

 そこで、もし続きがあるようなら別の部分をあずかって、手紙の背景を載せた方が良いのでは?と提案してみましょう。当時は活字を組んでいるのでこういう提案が通るか分かりませんが、現代ではわりと融通のきくコンピューターで紙面を製作しているので、編集記者にこのような提案をするのも、校閲記者の重要な役割の一つです。

 他の指摘も一気に出しましょう。当時の解説によると、この手紙は1614(慶長19)年に出されたとあります。この紙面は1910年。引き算すると296年前ということになりますが、見出しでは297年前としていました。これは明らかな間違いです。

 茶々の手紙の中では「をんしやう」を、当時の筆者が「恩賞」と補っていますが、漢和辞典を見ると「恩」の字の歴史的な読みは「おん」。一方、九州産業大教授の福田千鶴さんは、著書「淀殿」(ミネルヴァ書房)のなかで「温情」だと読んでいます。「温」は「をん」と読んで差し支えないので、こちらではないかと指摘しましょう。

 この手紙の写しは、江戸幕府が各家に伝わる家譜や貴重な書状などを提出させ、まとめた「譜牒余録」に収録されています。国立公文書館に保管され、撮影したものが書籍の形になっていますので、大きな図書館等で見ることも可能です。筆者も見ましたが、やはり「をんしやう」と書いてあるようでした。

 ただし、東京大学の史料編纂所にも写しが残っていて(「片桐旧記写」)、そこでは「於んしやう」としていましたので、「おんしょう」である可能性も捨てきれません。その場合は少し苦しいですが「恩賞」=「恩返し」という意味にとって、豊臣家の恩に対する且元の奉公は忘れない、といった感じで読むことになるでしょうか。この写しは史料編纂所のデータベース(http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/ships/shipscontroller)で見ることが出来ます。「片桐旧記写」で検索してみて下さい。

 これらの写しと、今回の紙面では多少の違いもありましたが、別の写しを見たか、当時の筆者が分かりやすいように書き換えている可能性もある(連載の最初に、修正を加えることもあると断っています)ので、その点については指摘を見送ります。手紙の追伸部分も使っていませんでしたが、そこには、茶々がこの手紙を25日に書いたものの日柄が悪いので日付を26日にした、とも解釈できる記述がありました。これを説明するには紙幅が少なすぎたため、掲載を見送ったのでしょうか。

 次にいきましょう。当時の解説では茶々が秀吉を丸め込み、秀吉死後は豊臣家を傾けた人物として、「淫婦」「妖婦」だとののしられている、とあります。女性をさげすむ表現ですので、現代の紙面では使いたくない言葉です。ただし、茶々が歴史的には一時期そのような批判を受けてきたことは確かですので、ここはあくまで筆者や朝日新聞の見方ではなく、歴史的評判ではこうだった、ということで「」(かぎかっこ)をつけることを提案します。

 それから解説の最初の方で、「咀はれて」と書いて「のろわれて」と読ませています。当時は似た意味の漢字にルビを付けて無理やり読ませる手法がよく見られますが、「咀」は「かむ」といった意味しかなく、さすがに「のろう」と読むのは無理がありそうです。誤字と判断して、「呪」ではないかと指摘しましょう。

拡大大阪城内の豊国神社にある秀吉の像。記事中の「献策」の頃は、まだこんな威厳ある姿では無かったに違いない
 茶々の手紙自体では、なにやら変な記号のような文字「」が登場しますが、これは「候(そうろう)」の崩し字で、誤字ではありません。初期の朝日新聞ではたまに使われています。「候」は、現代で言えば「であります」「でございます」といった丁寧語で、画数が多いのに頻用されるので、昔の書面ではかなり崩されて書かれていました。この活字はその名残と思われます。

 解説の中でもう1点ひっかかる点がありました。茶々の母、市を浅井長政と結婚させたのは「秀吉の献策」とあります。市が浅井家に行った時期は1561(永禄4)年説、1568(同11)年説などがあるのですが、いかにスピード出世の秀吉でも、1561年だとしたらまだ何をしていたかもよく分からない時期。あやしいなと思っていくつか文献を当たってみたのですが、やはり確認できませんでした。福田さんと、浅井家や3姉妹について詳しい長浜城歴史博物館参事の太田浩司さんにも尋ねてみましたが「そのような話は聞いたことがないし、可能性も低い」とのこと。ただ「江戸時代以降に作られた物語などに、そういうくだりがある可能性はある」そうです。当時の筆者も思いつきで書いたわけではないでしょうから、ここは「あまり一般的な説ではないようなので、この点について、もし資料があるなら、出典等を明記しませんか?」と提案してみることにします。

拡大方広寺の鐘は、今も残る。明治時代に鐘楼が建てられるまで長く野ざらしだったという=京都市東山区
 指摘はこの辺りにして、せっかくですからこの手紙の背景に少しふれたいと思います。

 秀吉の死後、関ケ原の戦い(1600年)に勝利し幕府を開いた徳川家康は、あらゆる手を尽くして豊臣家の弱体化を画策し、つぶしにかかりました。そのうちの一つが「方広寺鐘銘事件」です。豊臣家の財力を減らすため、秀頼と茶々に方広寺(秀吉が建てた寺)の再建を勧め、豊臣側もこれを承諾するのですが、この際に新しく作った鐘=左の写真=に、徳川側がまた難題を持ちかけます。鐘の銘文の一部に「国家安康」「君臣豊楽」=右下の写真=とあるのですが、これがけしからんと言うわけです。

拡大鐘銘も読み取ることができ、問題の部分はわかりやすいように白く塗られている
 「家」「康」は分断されていて、「豊」「臣」はくっついている、これは何かの呪いに違いない!という話を、聞いたことがある方も多いと思います。実際には「家康」という名前を勝手に織り込んでいる点を非難したようですが、この問題がきっかけで、豊臣家と徳川家は、いっそう険悪になります。1614年の7月のことです。

 そこで片桐且元は8月、豊臣家を代表して駿府(現・静岡市)の家康の元を訪れ、弁明を試みます。しかし徳川方は会見を容易に認めず、交渉は難航。また和解の条件も厳しいものを提示せざるを得なくなりました。且元がようやく大坂に帰ってきたときには1カ月が経っており、その間に「且元は徳川に寝返ったのではないか」といううわさが流れます。この状態で城に出仕することに身の危険を感じた且元は、病気と称して引きこもったのでしょう。そこで、茶々がこの手紙を出すのです。

 この手紙について、見解は分かれています。裏切り説を信じた茶々が、且元を捕らえたくて出したうその手紙だったという説。かつての豊臣家の家臣の多くが徳川家になびく中、ずっと豊臣家に尽くした且元を、本当に頼っていたという説。実際にどうだったかは、茶々本人にしか分かりませんが、福田さんは、且元の父が浅井長政の忠臣だったことから、長政の子である茶々も同じように且元の忠義に期待していたかもしれない、としています。

拡大茶々と秀頼が自刃したと伝えられる地には、記念碑が立つ。大阪城天守閣のすぐ北の静かな場所。花や水が供えられていた
 且元は結局この後も城に戻らず、豊臣家は且元を大坂から退去させて、片桐家を見限りました。直後、和解交渉は決裂し、大坂冬の陣が勃発。大坂城は徳川勢に攻め立てられ、いったん和平の後、翌年の夏の陣で大坂城は落城、城と共に茶々と秀頼は命を絶ち、豊臣家は滅亡しました。

 当然、江の夫・徳川秀忠も、既に家康に将軍職をゆずられ、この戦に出陣しています。戦国の常とはいえ、実の姉を自分の夫が攻める。お江はどのような気持ちで、この戦を見たのでしょうか。ドラマでは、茶々を宮沢りえさんが演じています。豊臣家とともに滅びゆく茶々と、徳川将軍の正妻として生きていく江。別々の運命をたどる姉妹がどう描かれるのか、今後が楽しみです。

(画像には主な直しだけ朱を書き入れています。現在の朝日新聞の表記基準で認めていない漢字の音訓や、当時は入れていなかった句点を入れる等については、原則として記入を省いています)

【現代風の記事にすると…】

家庭講話資料 今日の書面 296年前の9月26日付
淀君が片桐且元に出した手紙
毎日毎日待ってます

 (現代語に意訳)気分が良くなったら(お城に)出てきてくれるだろうと、毎日毎日待っていますが、まだ来てくれませんね。こんな悪い時期に病気になられて、なんとも気の毒です。なにやらうわさ話が出ているようですが、私たち(=秀頼と淀君)親子は、あなたをおろそかに思っていることなど一切ありません。これまでの(あなたからの)温情を忘れることなんてありません。ただただ、あなたを頼りにしています。でも万が一、おろそかにされている、と思われていたらいけないので、余計なこととは思いながらも、さしあたって誓紙を書きますね。おろそかになどしていません、と。

 こういったことを、会ってお話ししたかったのですが、おいでにならないので、手紙にします。とにかく気を緩めず、しっかり養生してください。明日、城にのぼって来てくれませんか。お返事待っています。

     (1614年9月)26日

 いち殿(=片桐市正且元)へ  茶々より

 英雄・豊臣秀吉を骨抜きにし、彼の死後はやりたい放題で豊臣家を傾けたと言われ、「淫婦」「妖婦」などと悪名をつけられて悪いイメージばかりが目立つ淀君。豊臣秀頼の母でもある彼女の後半生は波瀾(はらん)万丈、運命にもてあそばれている。

 淀君の母・お市の方は織田信長の妹とされる。「サル」と呼ばれた秀吉の献策で、北近江(現・滋賀県)の猛将として名高かった小谷城主・浅井長政と政略結婚をしたが、長政は1573(天正元)年、信長の軍に滅ぼされ、お市の方は3人の娘を連れて織田家へ戻る。

 1582(天正10)年の信長の死後は、信長の重臣として越前北ノ庄(現・福井市)を拠点にその武勇を全国にとどろかせていた柴田勝家と再婚。3人の娘もともに北ノ庄に移ったが、戦国の荒波は夫婦がゆっくりと語り合う時間さえ与えてはくれなかった。信長死後の覇権争いで、1583(天正11)年、鬼とも呼ばれた猛将・勝家も秀吉の軍に敗れた。「夏の世の 夢路はかなき 跡の名を 雲井にあげよ 山子規(ほととぎす)」という辞世が残っている。

 この時、3姉妹の長女・茶々(淀君)は16歳の妙齢。秀吉は一目見ただけで気に入り、「こっちにおいで」とばかりに連れて帰る。茶々は秀吉の寵愛(ちょうあい)を独占するようになった。

 この手紙は豊臣家滅亡の前年、1614(慶長19)年に淀君が片桐市正(いちのかみ)且元に出したもの。深く豊臣家の前途を思ってさんざん苦労して交渉してきたのに、かえって淀君に疑われてしまった且元は、自分の領地である茨木(現・大阪府茨木市)にこもり、大坂城に出勤しなくなったので、淀君が「異心はない」という旨の誓紙まで添えて登城を勧めた。しかし、且元はこれに応じなかった。

(広瀬集)

当時の記事について

原文どおりに表記することを原則としますが、読みやすさの観点から

  • 漢字の旧字体は新字体に
  • 句点(。)を補った方がよいと思われる部分には1字分のスペース
  • 当時大文字の「ゃ」「ゅ」「っ」等の拗音(ようおん)、促音は小文字に

等の手を加えています。ご了承ください