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昔の新聞点検隊

大正版 花咲か物語

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【当時の記事】

荒川新堤を背景に……大正の花さか婆さん
桜五千本の寄付を申出でたが
植ゑる植ゑさせぬで一問題 奔走する本多博士

花の東京のさきがけをする上野博物館の桜はもう十日も前に開いてゐるし、植物園の吉野桜などすっかりつぼみがふくらんで、この分では例年より一週間も早く月末頃には一時にパッとさきさうである、この陽気な幕あきを前にして名にし負ふ五色桜で有名な荒川堤の下流にずっと完成した延長五里の大放水路の、あの広大な両岸の堤に桜の花をさかせる、イヤさかさせないで最近問題が起ってゐる

その中心人物は千葉県●●●の豪家斎藤まん(六七)といふ大の花好きのお婆さんである、おまんさんは

上京の途上、ふと荒川の鉄橋を通ってはげ頭然として連らなる両岸を見て、ここに桜を植ゑたらば……と思ひ付いた

そこで知人の林学博士本多静六さんにとりあへず「桜の木五千本と植ゑ付け一切の費用を寄付したいからよしなに取りはからって欲しい」と依頼したものだ ところが内務省土木局側では、河川法の適用されてゐる河川の堤には

「暴風時樹木が堤をゆるがして崩壊を容易くさせる」

といふ理由から

今後は樹木を植ないことにしやうといふ申し合はせがあるので、当然荒川放水路の堤へも桜を植ゑる等は真平だといふ返事

サアお婆さんのショゲ方は見るも気の毒、本多博士も大いに同情して庭園協会や有志の学者たちと相談の上篤志的の調査員を設け一応学理的調査を行った後当局に向って「荒川堤だけは例外にして、お婆さんに花を持たせてほしい」と了解を求めることになった、荒川放水路の堤は赤羽から河口までは約五里 千住から下流でも二里近くあり幅二百間のうち河の部が百間、両方の堤が五十間づつといふ広大なものであるので ここにお婆さんの桜の五千本並木が出来ればいまの荒川や向島、小金井の名所より数等雄大な花のトンネルが出現する訳なのだ

なほ当のおまんさんは前にいふ通り千葉の山奥に住む多額納税者であるが、大日本山林会員として活躍し女ながら日本全国の有名な山林は大抵歩きまはってゐる男優りの婦人で、かつて政府からそのことで表彰されたことがある

植ゑられぬとは限らない 要は調査の問題と岡田河川課長語る

右につき内務省の岡田河川課長は「その事はまだ聞いてゐないが内務省管下の堤防には崩壊を防ぐために樹木を植ゑさせないことに申合はせが出来てゐるやうだ、しかしこれまでとて本省管下の堤防に樹木を植ゑられたのもあるし、要はよく調査した上で決定する問題である」と語った

(1926〈大正15〉年3月25日付 東京朝日 夕刊1面)

【解説】

 東京で桜が散り始めた4月中旬、テレビを見ていたら、森山直太朗の「さくら(独唱)」が流れてきました。この時期によく耳にする歌ですが、今回は、NHKの「歌でつなごう~被災者のみなさんへ~」という番組で聞きました。

 このほかにも、桜の花を歌った歌は数多くあります。なぜこんなにも桜は人々を引きつけるのでしょうか。毎年、桜を見るたびにそう思うのですが、いまだに答えは出ていません。

 大正時代にも、桜に魅せられて「一花咲かせよう」と思った女性がいました。名前は斎藤まんさん、67歳。舞台となったのは、荒川の土手です。

 荒川は、埼玉県と東京都を流れて東京湾に注いでいる河川です。斎藤さんは千葉県に住んでいたのですが、上京する途中にその土手を見ました。1926(大正15)年当時、荒川では大がかりな工事をしていました。

 国土交通省荒川下流河川事務所によると、古来、荒川ははんらんを繰り返していたそうです。1910(明治43)年に大洪水が起こり、東京の下町のほとんどが浸水し、369人の死者を出しました。そこで計画されたのが、荒川放水路です。全長22キロ、幅500メートルに及ぶものでした。1911年に測量が始まり、水門を次々に設置して工事は進んでいましたが、1923年の関東大震災で堤防が何カ所も崩れました。その補修をし、大正時代末期に荒川放水路全体に水を流すことに成功しました。

 記事では、放水路を「荒川堤の下流にずっと完成した延長五里の大放水路」と表現しています。「五里」というのは尺貫法の書き方で、当時はこの書き方が一般的だったかもしれませんが、一里=3927メートルなので、メートル法に換算すると19.6キロになります。

 斎藤さんが通りかかった時は、工事がまだ続いていて、完成するのは1930(昭和5)年のことです。

 記事にもある通り、荒川には「名にし負ふ五色桜」が植えられていました。五色桜というのは、桜の品種の名前ではありません。最も一般的なソメイヨシノの他にヤエザクラなども交ぜて植えられ、花びらが五色にも見えたことから、その名前がついたと言われています。しかし、この桜は堤防の工事で切られたり、移植されたりしました。斎藤さんは、桜の花がない下流の土手を見たのでしょう。

 「ここに桜を植えたいのだけれど、こういうことに詳しい人はいないかしら」と考えた斎藤さんは、知り合いのある人物に相談します。この「ある人物」というのが、おそらく当時の日本で最も植樹に詳しそうな学者でした。

 斎藤さんから相談を受け、荒川に桜を植えることに奔走したのは、本多静六(せいろく)という東京帝国大学の教授です。この本多先生は「日本初の林学博士」で、明治神宮の森を造営したり、日比谷公園の設計を手がけたりといった数々の業績で知られています。全国の都市公園の設計を担った人ですから、斎藤さんの相談にも快く応じたことでしょう。

 斎藤さんは本多博士に、「桜の木5千本の費用を全部寄付したい」と申し出たのですが、立ちはだかったのは役所でした。当時の内務省土木局が、「荒川の土手には河川法が適用され、ここに樹木を植えると崩壊しやすくなる」という理由で待ったをかけたのです。

 がっくりきた斎藤さんに本多博士も同情し、他の学者たちと独自の調査を行い、土木局に向かって、ちょっとしたしゃれを口にします。

 「荒川の土手だけは例外にして、斎藤さんに『花を持たせてほしい』」

 斎藤さんが桜の木を植えようと思った荒川放水路の幅は、200間(けん)ありました。1間=1.8メートルで、「両方の堤が五十間づつ」とありますから、90メートルの幅がある広大な土手でした。そこに5千本の桜を植えたならば、五色桜で有名な荒川以上の「雄大な花のトンネルが出現する」というわけです。

 この斎藤さんですが、千葉県に住む高額納税者でした。日本全国の有名な山林を歩き回っていたそうで、政府から表彰されたこともあります。活発なおばあさんではありますが、「女ながら」「男優りの」は今では使わない表現です。「女は家の中にいるもの」といった男女の役割を前提とした表現は、男女の役割を固定化し、女性の社会進出を阻んだりすることにつながりかねません。当時、女性がこのように社会的に活動するのは珍しかったのかもしれませんが、ここは削るように筆者に依頼しましょう。

 この斎藤さんの願いについて、内務省の役人は「これまでに内務省管轄の堤防に樹木を植えた例はある。よく調査した上で決定する問題だ」と語っていました。

拡大1927年4月13日付東京朝日夕刊2面
 ここで終わってしまっては、「斎藤さんと桜はどうなったのか」が気になります。その後、朝日新聞は2回にわたって斎藤さんの話題を報じています。

 10日後の4月4日付の新聞には、「しびれを切らす大正の花さか婆さん 大骨折する風流の人々」とあります。本多博士も大いに骨が折れたようですが、まだ内務省には認められておらず、斎藤さんは「千葉の自分の土地に5千本の桜の一部を植えて成功を待つ」と語っています。

 それからまた1年の時が流れ、1927(昭和2)年4月13日付の記事では、記者が千葉の斎藤さんのもとを訪れています=右の画像。時代は昭和に入り、見出しからは「大正の」がなくなりました。

 現在の千葉県勝浦市から約30キロの山奥で、谷川のせせらぎを聞きながら、「何だかおとぎの国に来たやうな気持になって」記者は呼びかけます。

 「斎藤まんさあーん」

 斎藤さんはその日も山歩きをしていたようで、山奥までやって来た記者を喜んで迎えてくれました。語ったところによると、「桜の苗木5千本は、苗木問屋に預けてあります。荒川の放水路がだめなら、横浜市にも希望があるし、隅田川にも植える場所があると思います。本多博士にもそう言ったら、また交渉してみるとのことでした」。

 めげない斎藤さんに、記者は感心したのでしょう。こう結論づけます。「さすが昭和の花さか婆さん 話はテキパキしてゐる」

拡大1990年7月9日付東京本社版朝刊31面
 残念ながら、斎藤さんの記事はこれで終わっています。「5千本の桜が荒川に植えられた」なら、当然続報は書かれたでしょうから、おそらく内務省の許可は下りなかったのでしょう。桜の苗木は、斎藤さんが持つ千葉の土地のどこかに植えられたのかもしれません。

 しかし、荒川の桜は、実は海の向こうのアメリカで咲き続けていました。1912(明治45)年に、当時の東京市から「日米友好のシンボル」として荒川の土手の桜が贈られました。現在でもワシントンDCのポトマック河畔で花を咲かせており、毎年3月末から4月にかけて開かれる「桜祭り」では、多くのアメリカ人の目を楽しませています。

 それに対して、残った荒川の桜は、川のはんらんや改修工事で衰退してしまいました。斎藤さんが通りかかったのは、この頃でしょう。その後、第2次大戦中は薪用に伐採されることになり、ついに全滅するに至ったのです。

 荒川の地元の人たちは、「桜の名所を復活させたい」と考えました。その要望に応えたのが、レーガン米大統領夫人のナンシーさんです。ポトマック川の桜から育てた苗木が、1982(昭和57)年に日本に送り返されてきました。その苗木は、1991(平成3)年に荒川に植えられます。前年7月9日付の朝日新聞は、「五色桜 孫帰る」と題して、この出来事を大きく報じています=上の画像。もともと荒川にあった桜が「親」、ワシントンに贈られて根付いた桜が「子」、そのワシントンの桜から育てられた苗木が「孫」というわけです。

拡大米ワシントン・ポトマックの満開の桜の下で東日本大震災からの復興を誓うあいさつをする藤崎一郎・駐米大使=4月3日
 そして現在の荒川の土手では、「孫」たちが桜並木を少しずつ再現しています。

 冒頭の「さくら」の歌には、「一度は別れた人々と、また会う日を待つ」というメッセージが込められています。東日本大震災で離ればなれになった方々が、またふるさとで会えますように。そんな日が一日も早く来るように願ってやみません。

(画像には主な直しだけ朱を書き入れています。現在の朝日新聞の表記基準で認めていない漢字の音訓や、当時は入れていなかった句点を入れる等については、原則として記入を省いています。また、個人情報に配慮し、詳細な住所は伏せています)

【現代風の記事にすると…】

荒川の新堤防を背景に……大正の「花咲か婆さん」 

桜5千本の寄付が問題に 本多博士も奔走

 10日前、東京・上野博物館の桜が開花した。植物園のソメイヨシノもすっかりつぼみがふくらみ、この陽気なら3月末には一気に満開になりそうだ。荒川の土手は五色桜で有名だが、その下流には約20キロの大放水路が完成している。今回、あの広大な両岸の土手に桜の花を咲かせるかどうかで問題が起こっている。

 千葉県の斎藤まんさん(67)は、大の花好きだ。上京の途中で荒川の鉄橋を通り、はげ山のように寂しい両岸を見て、「ここに桜の花を植えたらよいのでは」と思いついた。

 そこで知人の本多静六・林学博士に、「桜の木5千本と、植樹の一切の費用を寄付したい」と申し出たという。だが、内務省の土木局は「河川法が適用される荒川の土手には、樹木を植えないという申し合わせがある」と回答した。「樹木が植えてあると、暴風の時に崩壊しやすいから」というのが理由だという。

 本多博士は斎藤さんに同情し、有志の学者らと専門的な調査をした上で「荒川の土手だけは例外にして、斎藤さんに桜を植えさせ、花を持たせてあげてほしい」と内務省に頼んだ。

 荒川の放水路の土手は、北区赤羽から河口までは約20キロ、足立区千住から下流でも約8キロの長さがある。幅は360メートル、両方の土手は90メートルという広大なものだ。ここに斎藤さんの桜5千本が植えられたならば、今の荒川や墨田区向島、小金井市の名所よりももっと雄大な花のトンネルが出現するだろう。

 この斎藤さんは、千葉県の山奥に住んでいる高額納税者である。大日本山林会員として活躍し、日本全国の有名な山林はだいたい歩き回っており、政府から表彰されたこともあるという。

「よく調査して決める」

 内務省の岡田河川課長の話 斎藤さんの要望は、まだ聞いていない。しかし、内務省が管理する堤防には、「崩壊を防ぐため、樹木を植えないように」という申し合わせがあるようだ。そうはいっても、これまでに内務省管轄の堤防に樹木を植えた例はある。よく調査してから決定する。

(永島葵)

当時の記事について

原文どおりに表記することを原則としますが、読みやすさの観点から

  • 漢字の旧字体は新字体に
  • 句点(。)を補った方がよいと思われる部分には1字分のスペース
  • 当時大文字の「ゃ」「ゅ」「っ」等の拗音(ようおん)、促音は小文字に

等の手を加えています。ご了承ください