昔の新聞点検隊
(2011/05/24)
【当時の記事】
『口を開けて』「今度はツボんで」とどもり学校のやうな無電弁士の養成
誰の姿が見えるでもなく、一言の応答があるのでもない、眼の前に立ちふさがって見えるのは小さい黒いラッパ
口一つである、その謂はば頼りないラッパ口一つを通して新帝都文化建設の大原動力を発さうとする所謂無電アンナウンサーの実力は、その美しい声による正しき発声の一つである 一日に百数十口からの聴取申込に目を廻して居る東京放送局の受付口のあのゴタゴタの中に立ってる時、一隅のドアーの中から「ウー、アーオー、ジュー」なんて取り止めもない声のやうなのが切れたり続いたり、どうかするとうす
気味悪くさへ聞えて来る、そこらに出入する人達には「ハハア、アンナウンサーの練習だな」とはすぐに判ってゐるやうだが
そのアンナウンサーの桐野音治郎氏は小ぢんまりと小柄の人、熊崎真吉氏は雲をつくとまでは云へまいが、桐野氏とは似もつかぬ大きい身体の持ち主だ
発音矯正の任に当る小林光義氏の親切な教示に従って二人の
弁士は口を開いたり閉めたり、声を出したり含んだり、吃音矯正そっくりの珍芸を演じて居る、十六日から始めて廿三日でやっと子音発声が出来上り、昨日から母音に取りかかったが、三月一日の放送開始日までには一通りの発声を出来上らす予定であると
「イロハから始めなければならぬので何かと可笑しいことばかり先生の御苦心も非常なものですが、然し斯うして組織的に習って見ればなんだか少しづつは判ってくるやうで、最初のうちの苦しさも何んでもないことになりました、此上は大いに勉強して此大任を完うするやう努めるばかしですが、今の妙な格好なぞどうぞ人様に知らさないやうにして下さい」と
桐野氏は語った、ケーの発音で先生も弁士も
妙な口つきをそろへた所で写真を撮った 「どうぞここらで失敬させて下さい」とドアーをピシャリ、変なうなり声は前より一層高い調子で聞えて来た
(1925〈大正14〉年2月25日付 東京朝日 朝刊7面)
【解説】
皆さま、地上デジタル放送完全移行が、いよいよ2カ月後に迫りました。東日本大震災で岩手、宮城、福島の3県は延期になりましたが、被災地では地域FM局が開局するなど、ラジオも活躍しています。今日は、今の地デジのようにラジオ放送が始まろうとしていた当時の記事を見てみましょう。
ラジオの開始は「放送」そのものの始まり。日本はまさしく新しい放送の時代を迎えました。開始を半月後に控えた1925(大正14)年2月、東京放送局の一室からは何やらおかしな声がもれ聞こえてきます――。
小さな黒いラッパに見えるマイクに向かって発声練習に励むのは、公募で選ばれた2人の「無電弁士」です。戦士のようないかつい名前ですが、本文中にも「アンナウンサー」とあります。
最初の頃はアナウンサーをどう表記していたのかな、と同じころの記事を探してみます。これより5年前、初めて出てきた1920年の記事は「アナオンサー」。次は1925年、放送開始に関する記事(1月16日付)でいったん「アナウンサー」となり、今回の一つ前の記事から「アンナウンサー」に変わっています。
新しい言葉だったでしょうし、この時点では定まっていないのも無理はありません。こんなとき今の朝日新聞では表記を統一するために、「用語取り決め」を出して記者全員に周知します。
さて、1月16日の記事は、東京放送局が放送開始に向けてアナウンサー候補を探していることが報じられています。読者になじみがないアナウンサーの仕事をどう紹介したかというと、「無線電話放送の活弁とでもいふやうなもので『只今から何々を放送いたします……』と受話器を耳へ当てて待ってゐる聴取者へプログラムの進行を報じたり、ニュースや相場を伝へたりする役目」とあります。「無線電話」はラジオのことです。「活弁」は、無声(サイレント)映画を上映するときに、画面の人物の会話を話したり、話の筋などを説明したりする活動写真弁士のことです。
このとき志望者は2人。放送局技師長は「三十歳前後位で電話通話に馴(なれ)た、相当声の透る格別いい声でなくても品のよい声の持ち主なら……」と求める条件を話しています。
志望して、アナウンサーという新しい仕事に向けて練習に取り組むのは桐野音治郎さんと熊崎真吉さん。この2人と教師役の小林光義さんに向かって、記者は「どもり学校のやうな」「うす気味悪くさへ聞え」と、失礼な書き方をしています。今は華やかで人気のあるアナウンサーの仕事ですが、その練習は初めて見る人には何をやっているのか奇異に見えたのでしょう。
しかし、「吃音(きつおん)矯正そっくりの珍芸を演じて」はいただけません。「どもり」はそれ自体が悪い言葉ではありませんが、悩んだり、「治したい」と思ったりする人がいます。あげつらったり、からかったりするような使い方は見逃せません。「珍芸」はもってのほかです。即刻、直してもらいましょう。
記者から遠慮のない目で見られているのを感じて、桐野さんは「今の妙な格好なぞどうぞ人様に知らさないやうに」と遠慮がちにお願いしたようです。「先生も弁士も妙な口つきをそろへた所で写真を撮った」。そこで取材は打ち切りになり、部屋を出されてピシャリとドアを閉められたようです。桐野さんのお願いを無視して、取材した様子をそのまま記事にしています。どういう意図があったのでしょうか。
ところでこの記事には写真がついていますが、どんな場面の写真かの説明がありません(記事の最後に「写真を撮った」とあるので、この場面の写真と想像はできますが)。今なら「写真説明」という文章を写真の近くに入れるか、写真の状況を書いた部分に「=写真=」を入れて、どんな場面の写真なのかを明記します。
東京放送局は東京・芝浦の学校に仮住まいしていました。そこから3月1日に試験放送、同22日には仮放送を始めました。ここで気づきましたが、記事の冒頭には「東京・芝浦の」と所在地も入れてもらったほうが良いですね。
仮放送の第一声は「JOAK、JOAKこちらは東京放送局であります」。この「JOAK」は「ジェーイ、オーウ、エーイ、ケーイ」と発音されたそうです。JOAKというのは今も東京のNHKラジオ第一放送のコールサインです。大阪は「BK」、名古屋が「CK」です。そして「DK」は、当時「京城」と呼ばれた、日本の植民地時代のソウルの放送局でした。当時、ラジオの電波は都内と首都圏の一部に届きましたが、放送を聴くには申し込みのうえ、受信料を払う必要がありました。
なぜ放送局は、仮住まいだったのでしょう。放送開始に向けて東京放送局局舎の設置場所を検討し、「市内の最高地であり、放送無電に禁物の障害物の比較的少い芝の愛宕山上公園地と決定するに至った」のが前年の1924年11月。それから土地買収や建設工事をしている間に仮放送が始まり、7月に完成した愛宕山の放送局へ移って本放送となりました。
社団法人として設立された東京放送局の初代総裁は後藤新平氏。この名前、最近耳にしたと思ったら、関東大震災後の帝都復興院の総裁として東京の復興計画を立てた人物です。他にも東京市長や内相、外相、初代満鉄総裁を歴任した政治家です。
3月22日の仮放送開始時に、後藤総裁自らマイクの前に立ち演説しました=右上の画像。「ラジオの役割」は四つ、「文化の機会均等」「家庭生活の革新」「教育の社会化」「経済機能の敏活化」であると。中央と地方、男性と女性の間に、今とは比にならないほどの格差がある時代、「ラジオの力で、みんなが共通に文化の恩沢に浴することができる」という抱負でした。
こうして始まったラジオ放送は、その7月に英語講座が始まるなど、その抱負の実現に向けて早くからいろいろな番組を市民の耳に届けました。1927年には甲子園の中等学校野球の中継、28年にはラジオ体操や大相撲中継が始まりました。学者の講演、音楽、落語、講談、ラジオ劇などは、子どもたちや、一日を家の中で過ごしていた女性たちにとっても大きな楽しみとなったことでしょう。
32年には受信契約数が100万件を突破。ラジオの華々しい時代が来るかと思われましたが、それからの二十数年の間に、ラジオの歴史に残った放送は、2・26事件の「兵に告ぐ」、太平洋戦争開戦の臨時ニュース、そして玉音放送などでした。戦争が終わると東京放送局は日本放送協会(NHK)に変わり、民放もできましたが、テレビ放送に取って代わられるまでがラジオの黄金時代となりました。
テレビやインターネットといった新勢力に押されながらもずっと残っているのは、ラジオには別の魅力や役割があるからでしょう。
インターネット経由で遠く離れた地域のラジオ局の放送が聴けるなど新しいこともできるようになってきています。災害時に限らず生活に寄り添ってくれるラジオをこれからも応援したいものです。
(画像には主な直しだけ朱を書き入れています。現在の朝日新聞の表記基準で認めていない漢字の音訓や、当時は入れていなかった句点を入れる等については、原則として記入を省いています)
【現代風の記事にすると…】
「口開けて」「今度は閉じて」ラジオ放送開始を前にアナウンサー発声特訓中
向かいに誰がいるわけでもなく、返事があるわけでもない。目の前にあるのは小さな黒いラッパのようなマイクが一つ。
頼りない感じさえするマイクを通じて、新帝都の文化を建設する大きな原動力となろうとするラジオアナウンサー。その実力の見せどころは、美しい声による正しい発声である。
1日に百数十口もある聴取申し込みに目を回している東京・芝浦の東京放送局の受付口。その人ごみに立っていると、隅にある部屋から「ウー、アーオー、ジュー」などという声が途切れ途切れに聞こえてくる。出入りする人たちは「あぁ、アナウンサーの練習だな」と分かっているようだが、初めて聞くと驚く。
発声練習をしているのは小柄な桐野音治郎さんと長身の熊崎真吉さん。
先生役の小林光義さんの丁寧な指導に従って2人は口を開けたり閉じたり、声を出したり含んだりして発音の練習をしている。16日から始めて23日にやっと子音の発声が出来るようになり、24日から母音に取りかかっている。3月1日の試験放送開始までには一通りの発声を完成させる予定だという。
「イロハから始めなければならないので、何かとおかしいことばかり。先生のご苦心も大変なものですが、それでもこうして体系立てて習っていると、少しは分かってきて、最初の苦しさは何でもないことに思えてきます。大いに勉強してこの大役を全うできるよう頑張ります。でも、今みたいな恥ずかしい場面は記事にしないでくださいね」と桐野さんは話した。
「ケー」の発音で先生もアナウンサーも口を開いた場面を写真に撮ると、「どうぞこのあたりまででご容赦下さい」とドアをピシャリと閉められた。発声は前よりも一層高い調子で外に聞こえてきた。
【写真説明】発声の練習に励む桐野さん(左)と先生役の小林さん。後ろの黒板には発音のしかたを示す口の絵が描かれている
(薬師知美)
原文どおりに表記することを原則としますが、読みやすさの観点から
等の手を加えています。ご了承ください