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昔の新聞点検隊

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【当時の記事】

震災記念 隠れた功労者を広く読者から募る

『復興一年』は夢の如く過ぎて、早くも恐ろしかった大震災の記念日が近づきました、その当時を追想すると十一時五十八分のその瞬間に、或は炎々として燃えさかる焔の下で、我と我が身を投げ棄てて、他人の危急を救はうるする、幾多の美しい犠牲的精神が働いたことでせう、それらの行為の或るものは既に世間に顕れて、霊的刺激とも教訓ともなったでせうが、その大部分は恐らく煙と共に消え去って語る者がなければ永久に葬られ終るかも知れません、本紙は痛ましき思出を新たにするこの機会に於て、当時の隠れたる無名的功労を発見して、広く紙上に紹介したいと思ひます、謂はば復興の東京に焼け残された瓦石の中から、目に見えぬ珠玉を拾ひ出すやうなもので、一般読者諸君から知らせていただけば立派な震災の精神的記録が編み出される事とおもひます、左記事項お含みの上奮って御寄稿を願ひます

一、既に当局から表彰されたものでなく、全く人に知られない功労を募集す
一、行為の美しいものは決して大小を問ひません、尊い人間性の現れたものなら結構です
一、我身の危険を冒して鮮人を我家に匿まうた一婦人の話、迷子を拾うて永く養育した人自家用の船を艤して幾回となく避難者を運んだ人、その他いろいろの美談
一、事実は本人の住所氏名は元よりなるべく詳細に認めて下さい、寄稿者の住所姓名も明記の事
一、用紙制限なし、宛名は東京朝日新聞社会部

『幼き心のあと』 児童の感想を募る

幼い心に焼きつけられた恐ろしい事実は決して消え去りません、傷ついた東京横浜の児童の心は、この一年間にどんな風に育てられ、如何に生長したか、その無邪気な心のあとを辿るために震災当時のおもひ出と、復興に対する小学児童の感想を募集します、先生や父兄の方はどうぞこの趣旨を子供さん達にお話し下さって、綴方の投書をおすすめ下さい

一、文の長さは本紙の行数で三十行以内
一、形式は文章でも童謡でも自由です
一、学校名、学年級、姓名を記して下さい
一、〆切八月二十日、東京朝日新聞学芸部宛

(1924〈大正13〉年8月1日付 東京朝日朝刊7面)

【解説】

 忘れようのない3月11日からもう2カ月半が過ぎました。亡くなった多くの方々のご冥福を改めてお祈りいたします。

 私たち新聞社の人間も、未曽有の大災害に恐怖を感じ、どうして良いか分からない手探り状態のまま、報道の役割を果たさねばならないという思いで最初の何日間かを乗りきったような気がします。十分な報道であるか、使命を果たせているか。今も自問自答と試行錯誤を重ねながら、震災に向き合っています。

 被災者の皆さんに少しでも役に立つ情報を、というのはもちろんですが、一方でこの大災害の様々なものを記録し、風化させず後世に伝えるという役割もあると考えています。今はまだ生々しい記憶が、時が経つにつれてあいまいになるかもしれません。

 おそらく大正の新聞人たちも、同じ思いだったのではないでしょうか。関東大震災の時です。

 1923(大正12)年の9月1日。マグニチュードは7.9と、今回の大震災に比べれば規模は小さいものの、首都に近い場所(神奈川・相模湾)での発生でした。また、ちょうど昼時だったため炊事をしていた家庭が多く、火災が各所で発生。まだ木造家屋が多い時代、瞬く間に燃え広がり、地震で混乱して密集していた人々が猛火に襲われたのでした。東京・横浜は焦土と化します。津波も起きたのですが、この震災では圧倒的に火災による犠牲者が多く、その数は約9万人とも言われています(震災全体の死者・行方不明者は10万5千人以上)。

 今回とりあげたのは、その関東大震災の発生から丸1年を間近にひかえたある日の社告です。「社告」とは、弊社からのお知らせのこと。高校野球選手権大会などの各種イベントの開催お知らせや、シンポジウムの参加者募集、体験談や写真の投稿呼びかけなど、様々な社告を出しています。

 震災1年を機に、これまで新聞や公的な表彰などで紹介しきれなかった助け合いのエピソードを掘り起こして記録したいので、どんどん応募してほしい、というのが、この社告の内容です。新聞記者なら自分でネタを探してこい!というお叱りも受けそうですが、甚大な被害でしたから、「記憶を記録する」という観点から勘案すると、こういう試みも必要だったと思います。

拡大別記事1。1924年8月2日付
 この募集を「瓦石の中から、目に見えぬ珠玉を拾ひ出すやうなもの」、つまり、がれきの中から宝物を見つけ出すような試みであると表現しています。この点検隊を始めて1年以上が経ちましたが、昔の新聞はどこか詩的だと、毎回感じます。現代でもほぼそのまま使えそうな社告ですが、細かいところでいくつかチェックすべき点がありました。

 まずは単純な誤植。「救はうるする」は「救はうとする」でしょうね。この社告は翌日の紙面にも掲載されましたが、このときはこっそり修正されていました(別記事1)。

 人間性の「あらわれたもの」は「現」の字を使っていますが……。毎度おなじみ「朝日新聞の用語の手引」では「現」を「出現」する場合、「表」を「表面に出る」場合に使うと例示しています。校閲記者でも使い分けに悩むことがありますが、今回は「表」のほうが良さそうです。

 この社告は震災時のエピソードとあわせて、復興をテーマにした児童の感想文も募集しています。その募集文も点検してみましょう。まず気になるのは、子どもたちの心がいかに「生長」したか、という部分。辞書をひくと「生長」は主に「生まれ育つこと」という意味のようです。子どもの心はすでにそこに存在するわけですし、この場合は素直に「成長」としたいところ。このように使い分けが難しい語のため、「用語の手引」では「成長」で統一するように取り決めています。

 次に「父兄」。これはつい最近まで使われていましたが、子どもの養育に携わるのは何も男性だけではありません。このように一方の性だけに偏っている表現は、現代では避けるようにしています。ここは「保護者」が適当ですね。

 最後にひとつ、「鮮人」。これは「朝鮮人」としましょう。「鮮」の字自体には悪い意味はありません。ただ、朝鮮の植民地時代(まさにこの記事の時代です)、多くの日本人が略称としてごく当たり前に「鮮人」と言っていましたが、侮蔑(ぶべつ)的に使われることも多かったため、朝鮮半島の人々にとってはひどく差別的な印象を受ける言葉になってしまいました。

 指摘はこの辺りにしましょう。ところでこの「鮮人」のくだりですが、我が身の危険を冒して朝鮮人をかくまったエピソードが、美談とされています。どういうことでしょうか。

 関東大震災では、揺れと猛火で大パニックの中、あるうわさが広がりました。「朝鮮人が混乱に乗じて放火したり、井戸水に毒を投入したりしているらしい」「暴徒化しているらしい」。テレビもラジオもない時代。頼みの綱の新聞も各社被災。東京朝日も地震当日には少数の号外を出したようですが、その後社屋が焼け落ちてしばらく情報を提供できなくなりました。うわさはふくれあがり、不安になった人々から無実の朝鮮人があらぬ疑いをかけられ襲われた、あるいは朝鮮人に間違われた人も襲われた、という出来事がありました。

 いっぽう今回の東日本大震災では、自らの危険を顧みず中国からの労働者を高台に先に避難させ、津波に巻き込まれてしまった水産会社の役員の方をはじめ、日本人も外国人も関係なく助け合ったという報道が多く見られました。この90年近くの間に、国際的、人道的な感覚がより日本人に備わったということでしょうか。しかし当時も、流言に惑わされず人道的な行動をとった日本人はもちろん存在したのです。

 そういった方々の話がこの社告によって集められ、「震災記念 一年前を偲(しの)ぶ 隠れた功労者」と題して8月13日から31日まで計19回、連載されていました。1回につき1~2人、震災時のエピソードを紹介する体裁です。

 見出しだけ紹介すると
1. 売り込んだ救助博士 不自由な身で六百人を助けた 峰村金五郎氏
2. 鮮人学生の命の親 白刃の下にも平然自若とした 徳原鼎氏
3. 他人を背負ひ火の中を 我子六人の安否をば打すてて 飯島由助氏
4. 倒れた青年を引摺って 初菊のやうに上野へ逃延びた 井波利子さん
5. 死の覚悟で救け船 火の海を潜って霊岸海岸の働き 大貫作平さん
拡大別記事2。1924年8月24日付
6. 看護婦さんの尊い犠牲 大揺れの病室に看護し通した 小川きん子
7. 信州の山奥から人助けに バラック村の文庫の名に残された 宮沢軍三郎氏
8. 煉瓦の下から起上って 数万人に託された通信使命を果した 山口範吾君
9. 血に染みた手術衣に 神の様な其姿 坂上博士夫妻が命も家も顧みず 
10. 奏上を齎らして 上野駅へ疾走 表彰される唯一の米人 バートン氏
11. 纏と共に生不動 愛宕町の猛火中に二百名を救った 鳥海久蔵老人
12. 涙を絞る隣人愛 貴い生命を救った六十歳の 富田りつ女
13. 火の海に姿を現した二汽艇 片ッ端から救助 健気な二英人
14. 千六百人救けた 日本通船会社の 加瀬道之助氏
15. 一人で月島を救ひ上げた 加藤重六君
16. 鮮人六人の命の親 自宅の二階に匿ひ通した 田中定次郎氏夫妻
17. 救ひの主の仁王様 水火を冒して越中島に人助け 小川貞助氏
18. 決死的に鮮人団を救って 近く表彰される 吉田錦之助君
19. 数千人を無料で 治療した仁侠のお医者 新島新平氏 / バケツ一つで数十名の命を救った丑松君

拡大別記事3。1924年8月14日付
 毎回の主人公の名前を見出しで紹介する際の敬称にばらつきが見られるのが唯一残念ですが……。小川きん子さんだけ敬称がなく、申し訳なく思います。このような連載ものの場合、前後で体裁の食い違いがないかをチェックするのも校閲の仕事です。

 また、富田りつさんは、記事を読んだところ56歳でした(別記事2)。60歳なのはりつさんが助けたおばあさんの方。こういう取り違えは昔からあるのですね。今なら確実に訂正です。

 19回のうち朝鮮人を擁護したエピソードは2、16、18の3本。

 2の徳原鼎さん(別記事3)は、地震当日の夜には朝鮮人襲撃のうわさが流れ、翌日には「手に手に鉄砲を持ち」「二三千人もゐる」などと話がふくれあがった、と証言します。徳原家には朝鮮人の学生が下宿していたため、身柄の引き渡しを求める人々がたびたび押し寄せました。朝鮮人学生たちはおびえます。徳原さんはたじろがず、「朝鮮人をおどかしたり危害を加へる様な事はどんな場合でも慎むべき事」と諭し、それでも「一息にやって終(しま)ふ」と迫る人たちには「若し其の必要があるなら先づ俺をやって後にして呉れ」と意気込み、追い返します。

 文部省に保護を頼んでも受け入れてもらえず、周囲におどされ非難され続けながら3週間、学生たちをかくまい通したのでした。体重が2貫目(約7.5キログラム)も減ったとありますから、大変な精神的疲労があったことでしょう。

拡大別記事4。1924年8月28日付
 16(別記事4)の田中定次郎夫妻の家にも、朝鮮人学生の李さんが下宿。徳原さんと同じように、田中さんも周囲から脅されますが、「李君は…入学してから…ズット田中方の二階借をして居ったので田中の主人や妻女竹子さんはよくその人物を理解して居った」ので、「決して悪いことをする人ではありません」と説いたそうです。

 こんな人柄の夫妻だからでしょうか、李さんの知人の朝鮮人学生も田中家に逃げ込みます。都合6人を10日間、途中で居場所を変えるなどして役人が保護に来るまで守り通しました。無事に生き延びることができた6人は、この震災記念日に田中夫妻への「報恩会」を開こうと計画中、という締めくくりに、心が温まりますね。

 

 おそらく現代よりも民族間の対立が激しかったこの時代の、これらのエピソードは、お互いが冷静に接して理解に努めれば助け合っていくことが可能だ、ということを示しているように見えます。もちろん、東日本大震災の数々の助け合いも同様でしょう。このような個々の歩み寄りが、全体の理解への第一歩なのかもしれません。

 

拡大別記事5。1924年9月1日付
 ところでこの社告で同時募集した、小学生の感想文はどうなったのでしょうか。

 こちらは9月1日の震災記念当日の紙面に載っていましたが(別記事5)、あまり大きな扱いではありません。やはり、「子ども達の心に焼き付いた恐ろしい事実は消えることがない」と言っておきながら、その感想を書け、というのはいささか過酷です。応募が少なかったのかもしれません。

 震災時の恐怖を書いている作品の中で一つだけ、復興の力強さを感じる、印象的な詩がありました。

 横浜市の尋常高等小学校に通う、岡田静枝さんの作です。題名はずばり「復興」。

 あまいお菓子を
 たべすぎて、
 そのためボロボロ
 ぬけた歯が、
 まただんだんと
 生えるよに、
 焼野になった
 東京や、
 あたしの住んでる
 横浜も、
 一年間の
 そのうちに、
 ずゐぶんお家が
 たちました。

 

 今回、津波で何もなくなってしまった光景を目にするたび、途方もない喪失感に襲われます。被害が甚大すぎて1年では難しいかもしれません。しかし近い将来必ず、このような希望のある詩を子どもたちに書いてもらうためにも、私たちにできることを模索しながら復興に貢献したい。そう思いを新たにしました。

(画像には主な直しだけ朱を書き入れています。現在の朝日新聞の表記基準で認めていない漢字の音訓や、当時は入れていなかった句点を入れる等については、原則として記入を省いています)

 

【現代風の記事にすると…】

 

震災1年 隠れたエピソードを広く募集します

 「復興1年」は夢のように過ぎて、早くも恐ろしかった大震災の記念日が近づきました。

 あの日、11時58分。その時、燃えさかる炎の下で、我が身を投げ捨てて他人の危機を救おうとする、いくつもの美しい献身的精神が働きました。それらの行為の一部は、すでに世間に紹介され、人々の精神的な支えや教訓になったことでしょう。しかしその大部分は、おそらく煙とともに消え去って、語り継ぐ人がいなければ永久に世に知られないままになるかもしれません。

 本紙では、痛ましい記憶に思いをはせる震災1年の機会に、当時の隠れた心温まるエピソードを探しだし、紙面で紹介したいと考えています。復興著しい東京にいまだ焼け残っているがれきの中から、目に見えない宝物を見つけ出すように。

 読者の皆さまからも広く募集し、震災の心の記録を残したいと思います。下記の事項をご確認のうえ、ふるってご寄稿ください。

 ◇すでに警察などから表彰されたものではなく、人に知られていないエピソードを募集します

 ◇心の温まる、献身的なエピソードでしたら事の大小は問いません。尊い人間性あふれるお話をお待ちしています。例えば我が身の危険を顧みず朝鮮の人々をかくまった女性の話、迷子を保護して長く養育した方の話、自家用の船を出して幾度も避難する人々を運んだ方の話、など

 ◇事実は本人の住所、氏名をはじめ、なるべく詳細に書いてください。寄稿者の住所、氏名も明記してください

 ◇用紙に制限はありません。宛先は〒○○○・○○○○(所在地不要)「東京朝日新聞社会部」

 

「幼き心のあと」 児童の皆さんの感想文を募ります

 幼い心に焼きつけられた恐ろしい事実は決して消え去りません。傷ついた東京・横浜の子どもの心は、この1年間にどんな風に育てられ、成長したか。そのあとをたどるために、震災当時の思い出と、復興に対する児童の皆さんの感想を募集します。先生や保護者の方はどうぞ、この趣旨をお子さんに伝えて作文の投書をお勧めください。

 ◇本紙の行数で30行以内

 ◇形式は自由

 ◇学校名、学年、姓名を記入してください

 ◇締め切りは8月20日、宛先は〒○○○・○○○○(所在地不要)「東京朝日新聞学芸部」

(広瀬集)

当時の記事について

原文どおりに表記することを原則としますが、読みやすさの観点から

  • 漢字の旧字体は新字体に
  • 句点(。)を補った方がよいと思われる部分には1字分のスペース
  • 当時大文字の「ゃ」「ゅ」「っ」等の拗音(ようおん)、促音は小文字に

等の手を加えています。ご了承ください