昔の新聞点検隊
(2011/07/26)
【当時の記事】
品川沖の台場守物語 酒を相手に三十年を送る青木老人
恐しい荒しの夜と忘られぬ愉快な時
吹きつのるかと思はれた夕方の南風も何時か凪いで、品川沖の六つのお台場は静かに美しい姿を列(なら)べるのであった、あのカタンカタンと厭な音を立てて走る房州通ひの船も白波高く
◇涼しい景色となる、見るとまん中のお台場の青草の上には浴衣掛の人が二三夕闇の中に隠見する、お台場を守る番人の恵まれた夕涼みに相違ない 昼の間は台場守に五千坪から一万坪に余る広いお台場の四隅を見張って『三十間以内に近寄るべからず』の立札を振廻す真黒の裸男も夕凪ぎに涼風が立つ頃には一家揃うて斯うした涼みに十町と離れない品川町の
◇火に憧れるのだといふ、お台場といへば今日では第二と第五が重要な地位にあるので海軍省の用地として守られ第二には灯台がある、第三と第五が市有地とされて居るが第一は全くの空地、第四は崩れ台場の名の如く周囲の石垣は半分も崩れ曽てあった緒明造船所の面影を残して居るのみで今は邪魔物扱ひにされて居る、番人の附いて居るのは海軍と市有の分だけで一番左端の陸からは遠い第三の青木番人は
◇前後三十年の余を此処で生活した老人で好きな酒に夫婦暮しの寂しい余生を送って居る、第五の堀田番人は海軍兵器係りとして四年程前から沖に勤めて居るが此程妻女が三番目の赤ちゃんを生んだばかりの芽出度い最中、若手のハキハキ者で聞えて居るが『長男が早や四歳になるし、子供の学校のことを考へると涼しい世界も何もない』とあの仁王様のやうな大きい眼が、陸をにらめて久しいものがあるとのこと 『朝のお陽様が
◇船橋の辺りから地平線上に上りきりと顔を出した時、番小屋の中でさへ九十二度もある暑い盛りを過ぎてそれが高輪台の上に徐(しづ)かに落ちて冷たい小波を誘ふ時、いやもう町中ではどうあっても味はへぬいい気持です、だから汚ない番小屋も一寸知れないといふことになるのです、その代りに思ひ出しても慄とするのは荒しの夜の怖ろしさです
◇小屋など一吹きにもう倒れるか、倒れたら女や子供等をどうしやうと一吹き毎に寿命の縮む思ひに悩まされ通すのです、漸(やっ)と総てが無事で済んだ翌日あたり四つの台場守が互に見舞合ってお祝酒となる時は又他所では知られぬ深刻な生活味があって何の事もなく私達を此島に結びつけて了ふのです』と一番小屋の主人は姿然と呻びをした
(1922〈大正11〉年8月2日東京朝日朝刊5面)
【解説】
暑い日が続きます。街では、夕暮れどきになっても吹く風は熱風……ということも多そうですが、みなさんはお気に入りの夕涼みの場所がありますか?
涼しい風を求めて、足が向くのは海辺です。記者が浜に出ると、品川沖に浮かぶお台場に夕涼みする人たちがいました。当時の記事の写真にあるように、ウサギが跳びはねる青草の上に座って風に当たっていたのでしょうか。
この青草の島、今では毎年、夏休みイベントでにぎわう東京の観光名所。テレビ局やショッピングモールが立ち、レインボーブリッジがかかるあの「お台場」です。
広大な埋め立て地になった「お台場」は、江戸時代にペリーが来航したとき、幕府が江戸の防衛を目的に急きょ造った砲台の島でした。第一台場から第六台場までが造られました(当初の計画にあった第七台場は海面を埋め立てただけで完成しませんでした)が、実際に黒船に向けて大砲が使われることはないまま放置されました。戦争施設の台場は軍管轄でしたが、維新後に順次払い下げられ、第四台場は東京府から緒明(おあき)菊三郎という造船家に払い下げられ、造船所になりました。1909(明治42)年に65歳で亡くなった緒明は、幕末にロシアや米国の黒船を見て、日本も将来は黒船を使うことになると感じて事業に乗り出し、日清戦争前後に造船業で成功しました。
が、それも今は昔。造船所があった第四台場は朽ち果ててしまった1922(大正11)年。東京市の保有になっていた第三と第六のお台場には、周囲を航行する船が近づくのを警告する「番人」がいたようです。
見出しから読んでいくと、「恐しい荒しの夜」。「荒し」って強盗や道場荒らしじゃあるまいし。「嵐」ですね。ひょっとして当時は嵐のことを「荒し」と表記していたのでしょうか? 同じころの記事を見てみると「嵐」を使う記事もありますので、直してもらいましょう。このように何通りか表記がありうる言葉が、紙面に出てくるたびに異なる表記にならないよう、現在の朝日新聞では用法を統一するための取り決めがあります。たとえば、最近よく紙面に出てくる「しゅうそく」。事態がおさまることは「収束」、感染症などの広がりが終わるのが「終息」、などと使い分けの例が列記されています。ちなみに、この「取り決め」は、「朝日新聞の用語の手引」というタイトルで本になり、市販しています。興味のある方は書店で探してみてください。
次に気になったのは、一家で涼みながら眺める品川町の「火」。取り決めでは「火〈燃える火〉」、「灯〈ともしび〉」と使い分けることにしています。この場合は街の明かりのことなので「灯」ですね。
さて、当時のお台場はどんな様子だったのでしょうか。記事によると、六つの台場のうち第二と第五が海軍省、第三と第五が東京市のもの、とあります。第五がどちらにも入っていますが、いま調べると、第五は海軍のものだったようです。市有地は「第三と第六」の誤りですね。残りの第一は空き地、第四は「崩れ台場」だったようです。
上陸して、いよいよ「番人」に話を聞きます。第三台場の青木さんはもう30年余り、第五の番人堀田さんは4年ほど前からここで生活しているようです。夫婦で暮らす青木さん、長男の学校を考えると「陸」に戻るかどうかを迷っている堀田さんの話から推察すると、番人の人たちは、毎日台場へ出勤するのではなく家族と一緒に担当の島に住んでいるようです。
どんな生活をしているのか気になるところです。この記事から13年後、1935(昭和10)年に青木さんに「島の生活三十年」を聞くインタビュー記事=右上の画像=を見つけました。「砲台跡に来たのは明治三十九年の春…」。あら? 1922年の記事でも「三十年の余」とありましたが。明治39年は1906年ですから、1936年で30年になるわけですね。ということは、最初の記事の「三十年の余」は「十五、六年」が正しいのでは? 後の記事と見比べて今なら分かる「未来からの指摘」とも言えますが、「だいたい何十年ぐらいかなぁ」と答える相手に「ここへ来たのは明治何年でしたか?」とか「どんな出来事があった頃ですか?」とか、いろんな角度から話を聞いておけば、矛盾はなかったでしょう。こうした個人的なことは校閲記者には調べられないことも多いので、取材記者を信じるしかないのです。
さて、インタビュー記事に戻ると、写真の青木さんの後ろに家屋が見えます。1922年の記事では嵐の夜には倒れそうになる「小屋」だったようですが、この写真で見る限り想像したより立派な建物です。13年の間に新しくなったのかもしれません。この間に、一緒に暮らしていた奥さんは亡くなり、今は20歳のめいと暮らしているとのこと。さらに13年で大きく変わったのは、青木さんの第三台場が公園として市民でにぎわう島になったということです。
第三台場は1923年の関東大震災で大きな被害を受けましたが、復旧工事が行われ、計画が進んでいなかった公園化が実現しました。1926(大正15)年、第三と第六の台場は国の史跡に指定され、1928(昭和3)年には東京初の海上公園になりました。その前年の1927(昭和2)年6月19日には「この夏からお台場開放 海の公園を持たない帝都市民のために」という記事があり、公園利用の注意事項として、(1)お台場には小さな井戸が一つしかなく大勢の人が詰めかけると、水枯れのおそれがあるので飲料水と食料品をかならず持っていってもらいたい(2)お台場にはウサギを野放しにしているので追い立てないように、の2点が挙げられています。
その後、他の台場は航路の邪魔になるとして取り壊されたり、埋め立て地の一部に入れられたりしてなくなりましたが、第三、第六の二つは現在も残っています。第三はお台場の大きな埋め立て地とつながり、レインボーブリッジを下から見上げることができる撮影スポットです。その少し沖に浮かぶ第六台場は、レインボーブリッジから見下ろせる位置にそのままの姿で残っています。こちらは今では立ち入り禁止の無人島。90年代半ばに朝日新聞東京本社の近くにある浜離宮庭園で数が増えすぎて引っ越し(させられ)たカワウの繁殖地になっています。
(画像には主な直しだけ朱を書き入れています。現在の朝日新聞の表記基準で認めていない漢字の音訓や、当時は入れていなかった句点を入れる等については、一部を除いて記入を省いています)
【現代風の記事にすると…】
品川沖 台場に家族で暮らす番人たちの夕涼み
激しくなるかと思われた夕方の南風もぴたりと止まり、六つのお台場は静かに美しく並んでいる。「カタンカタン」と音をたてて東京湾を房総方面へ向かう船の波は白く、涼しげな景色だ。
真ん中のお台場にある青い芝の上に、浴衣を着た人が2、3人いるのが夕闇の中に見えた。お台場を守る番人ならではの恵まれた夕涼みをしているに違いない。昼間は台場守として1.65~3.3ヘクタールもの広いお台場の四隅を見張り、「30間以内に近寄るべからず」(30間は約55メートル)の立て札を振って周辺を航行する船に注意を促し裸で働いている男性たち。夕なぎに涼しい風が吹き渡る時間になると、男性たちは家族とともに涼みながら1キロほどしか離れていない品川の街の灯を眺めるのだという。
お台場は今では第二と第五に重要な役割があり海軍省の用地となっている。第二は灯台がある。第三と第五は市有地とされている。だが、第一は何もない空き地、第四は崩れ台場の名の通り周囲の石垣は半分も崩れ、かつてあった緒明造船所の面影を残しているだけで、今は邪魔もの扱いだ。番人がいるお台場は海軍と市有だけだ。
陸からは一番遠い第三台場の番人、青木さんは30年余りをここで生活しており、好きなお酒を楽しみながら夫婦で余生を送っている。
第五の番人堀田さんは、海軍の兵器係として4年ほど前から沖に勤めているが、最近3番目の赤ちゃんが生まれたばかりで、うれしい時期。若手の元気者で知られるが、「長男がもう4歳になるし、子供の学校のことを考えると、『涼しい世界』と喜んでいる場合ではない」といいながら、長い間、大きな目で陸地を見つめる。
「朝日が船橋のあたりの地平線に顔を出すとき、また番小屋の中でも33.3度もある暑い時間を過ぎて高輪台の上に静かに冷たい小波が打ち寄せるとき、これはもう街の中ではどうやっても味わえない気持ちになる。だから汚い番小屋も悪くはありません。一方で、思い出してもぞっとするのは嵐の夜のおそろしさです」
「小屋などは、もうひと吹きで倒れるか、倒れたら妻や子をどうしようと、風が吹くたびに寿命が縮む思いに、一晩中悩まされるのです。ようやく無事に過ぎた翌日、四つのお台場の台場守が互いに見舞い合ってお祝いの酒を飲むようなときには、ここにしかない深みのある生活があって、何ともなく私たちをこの島に結びつけてしまうのです」。そう話すと、一番小屋の主人は伸びをした。
(薬師知美)
原文どおりに表記することを原則としますが、読みやすさの観点から
等の手を加えています。ご了承ください