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昔の新聞点検隊

伝説たちの甲子園2 プロ入り前に藤村vs川上

広瀬 集

 今年の第93回全国高校野球選手権大会は日大三が4014校の頂点に立ち、幕を閉じました。こちらのコーナーでは、前回に続いて20回大会の話を続けたいと思います。

 沢村栄治投手の京都商が去った甲子園で、勝ち進んだのが広島県の呉港中(現・呉港高校)でした。大正中という校名だった1932(昭和7)年の18回大会から3年連続の選手権出場、春も含めると5季連続です(この後、夏は37年の23回大会まで6年連続で出ることになります)。呉港の中心選手はなんと言っても藤村富美男選手。そう、後にプロ野球草創期の阪神で大活躍する、初代ミスタータイガースです。物干しざおと呼ばれた長いバットで豪打を連発、シーズン191安打(50年、140試合)はイチロー選手の210安打(94年、130試合)に破られるまで、長くプロ野球記録として輝いていました。首位打者1回、本塁打王3回、打点王5回。背番号10は阪神の永久欠番になっています。

 そのためスラッガーのイメージが強いですが、呉港時代は速球、変化球、制球力いずれも優れたエースでもありました。プロでもたまに投げていて、通算34勝を挙げています(通算防御率2.34)。きっと野球の才能の塊のような選手だったのでしょう。

 その藤村選手擁する呉港は大会前のチーム紹介でも「強味は一つに投手藤村の老練なところにある」とありました。

拡大呉港のチーム紹介=1934年8月10日付東京朝日朝刊3面

 地方大会決勝の終盤で1点差に追い上げられてなお走者を背負いながら、後続を打ちとったことを挙げ、「このチームが今日までに優秀なる力を有しながら、さて試合となると力相応の戦績を納めてゐなかったのは力にたより試合運用に対しての巧味がなかったためであるが今回の試合振りを見ればその欠陥も漸く一掃されたやうである」とありました=上の画像。藤村選手の成長がチームをより強くしたとの高評価といえるでしょう。

拡大呉港の1回戦。藤村選手の写真も載っている=1934年8月14日付大阪朝日夕刊1面

 その期待どおり、呉港は開幕1試合目を5-1で勝利すると(藤村選手は9回17奪三振、4打数1安打、上の画像)、その後も快進撃。2回戦8-0(9回完封9奪三振、3打数2安打)、準々決勝4-2(9回4奪三振、2打数1安打)、準決勝9-0(8回13奪三振、2打数1安打)で決勝に進出します。準々決勝の相手はこの年の選抜4強の強豪・海南中(現・和歌山県立海南高校)でした。大会40年史に載っていた藤村選手の回顧談話によると「一番苦しい試合は、三回戦の海南中学との試合だった。(中略)六回まで2-0で負けていたのを七回ようやくの思いで逆転して、結局4-2で勝ったがそれだけに思い出される試合だった」。たしかに他の試合に比べ、奪三振数が少ないですね。しかし7回の逆転劇では、藤村選手が1点目の適時打を放ち、逆転となる3点目の本塁を踏んでいました。投打に力強く呉港を引っ張っていることがうかがえます。

拡大2回戦、鳥取一-熊本工の記事。見出しも殺伐としているが、その下には誤植も=1934年8月17日付大阪朝日朝刊4面

 一方で、藤村選手ほどのスターはいないものの、堅実で闘志あふれるプレーで決勝に勝ち上がってきたのが、熊本工(現・県立熊本工業高校)。京都商を破った鳥取一中にも2回戦で勝っています。

 その時の記事で少し面白い誤りを見つけました=右の画像。見出しの「屠(ほふ)る」も非常におどろおどろしい言葉で現代ではまず使うことはありませんが、最後の段落の「◇……その上」で始まる一文をご覧下さい。次の行に文字がひっくり返っている箇所がありました。活字を組み間違えたのでしょうか。コンピューターで紙面を作る現代ではあり得ない間違いです。

 ちなみにこの戦評を書いている飛田穂洲(すいしゅう)は、早大野球部の初代監督(専任コーチ)を務めた人物。朝日入社後は学生野球の記事一筋で、その発展に貢献したとして1960(昭和35)年には野球殿堂入りしています。

拡大吉原捕手のガッツを伝える記事=1934年8月15日付大阪朝日朝刊4面

 話を熊本工に戻しましょう。今でこそ「熊工」の愛称で広く知られる九州の雄ですが、この大会でまだ2度目の出場です。1回戦、小倉工(現・福岡県立小倉工業高校)との九州勢対決では、本塁クロスプレーで熊本工の吉原捕手が負傷して鼻血を出しますが、「なあーにこれ位よかよか」と医務室から飛び出してプレーを続けたことが「これぞ肥後魂!」と絶賛されていました=右の画像

 治療はきちんとしてほしいですが、ガッツあふれるエピソードです。名字しか書かれていないので断言はできませんが、この吉原捕手は、おそらく吉原正喜捕手のことではないかと思います。後に巨人に入り、沢村投手とバッテリーを組んだ選手です。吉原捕手も、戦争で亡くなりました。

 決勝直前の予想は「攻守全く伯仲」(1934年8月20日付大阪朝日朝刊5面)。その通り、試合は両者がっぷり四つで4回まで進みます。5回の裏に熊本工の守備の乱れをつき、呉港が2点を先制。反撃を試みる熊本工打線に立ちふさがったのは、もちろんエース藤村選手。翌日の紙面に「藤村 鬼神の投球」と見出しが躍ったように、三振14を奪う完封でこの2点を守りきり、呉港は優勝旗を手にしたのでした=下の画像

拡大決勝戦の詳報。「鬼神の投球」の見出しがおどる=1934年8月21日付大阪朝日朝刊6面

 先述の藤村選手の回顧にはこうありました。「決勝の対熊工戦は楽だった。中等野球の優勝は、プロ野球の優勝とはまた違ったものがある。とにかく郷土からがんばってこいと声がかかるし、母校のためにも勝たねばならないし、責任は重い。それだけに優勝したときのよろこびも大きいわけだ。(中略)これは一生忘れようとしても忘れることのできないことだ」

拡大23回大会決勝を前に、熊本工と中京商の投手を紹介。左が川上選手、右は野口二郎投手。野口投手も後に阪急などで237勝を挙げた大投手=1937年8月20日付東京朝日朝刊8面
 この14個の三振のうちの3個を、ある有名な選手が献上しています。川上哲治選手です。赤バットを手に、後に巨人の4番を長く務めて日本プロ野球史上初の2千安打を達成、監督としてはV9の黄金時代を築き上げた、あの「打撃の神様」。首位打者5回、本塁打王2回、打点王3回。川上選手の背番号16もまた、巨人の永久欠番ですね。

 しかしそんな「神様」も、この時はまだ下級生。この試合では9番・右翼手として先発出場していましたが、年長の藤村選手には歯が立たなかったようです。

 「あんな凄味(すごみ)のある投手はそれまで見たことがなく、熊本工は手も足も出なかった。私などは、三打席とも三振した」と、巨人の大選手となった川上選手が当時を振り返る手記が、大会40年史に載っています。また「何ともならんかった。ヒゲがはえとるんですよ、藤村さんは」と、当時を懐かしむコメントも2007年の朝日の連載「ニッポン人脈記」に載っていました。

 その3年後、熊本工は再び夏の甲子園に戻ってきます。藤村選手にひねられた川上選手が、今度はエースに成長して、チームを率いていました。この年も残念ながら準優勝に終わるのですが、準々決勝で呉港に5-1で勝利しています(藤村選手は卒業)。川上選手の手記によると「三年前の決勝でなすところなく敗れた相手だけに、とてもうれしかった」。

拡大2回戦、関東(現・千葉敬愛高校)-高松(現・香川県立高松高校)の8回表、大塚(善)選手の放った打球は左翼手を越える大きな当たりでランニングホームランに。この大会初の本塁打にして、大会史上5本目の満塁本塁打=1934年8月16日付大阪朝日朝刊4面
 実は藤村選手、呉港も、33年の選抜大会で京都商に2-3で敗れています(前回の解説の三つ目の記事画像参照)。沢村投手に15もの三振を奪われていました。

 このように敗れたチームや選手が、「次こそは勝ちたい! 偉大な先輩を超えたい!」という思いでまた練習することで、より切磋琢磨(せっさたくま)し、技術が向上していく。そういった連綿とした歴史の積み重ねの上に、今年の大会もあるのではないかと思います。

 今やエース級の投手は簡単に140キロを超える直球を投げ込み、金属バットの普及もあって中軸打者でなくとも豪快な打球をスタンドに打ち込むことがあります。この20回大会の通算本塁打数はたったの2本で、いずれもランニングホームラン。大会第1号は連続写真まで載っていました=右の画像。それくらい珍しかったのでしょう。

 

 こういったハイレベルな野球で競ったり、楽しんだりできるようになったのも、先人たちのおかげ。沢村投手や藤村選手、川上選手、その他数々の名勝負、好プレーを繰り広げてきたこれまでの幾多の選手に思いをはせながら、また来年、たくさんの歓声が甲子園球場からあがることを期待したいと思います。

(広瀬集)

 「伝説たちの甲子園」はこれで終わります。記事画像は、一部レイアウトを修整しているものがあります。

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