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昔の新聞点検隊

クリスティー失踪事件

拡大1927(昭和2)年1月9日付東京朝日朝刊7面。クリックすると大きくなります。画像には主な直しだけ朱を書き入れています。現在の朝日新聞の表記基準で認めていない漢字の音訓や、当時は入れていなかった句点を入れる等については、原則として記入を省いています
【当時の記事】

ロンドンを騒がす奇怪な事件
 美人の探偵小説家
 突如行方不明となる
 誘かいか、自殺か発狂か
 我国にも知られたクリスチー夫人

 英国女流探偵小説家アガサ・クリスチー夫人といへば日本の探偵小説ファンの間にも「とび色の服を着た男」「スタイルズの不思議事件」「アックロイドをたれが殺した?」等多数の探偵小説で知られてゐる傑出した今年卅五歳の女盛りの美人作家であるが、最近着の同国の新聞によると夫人は去る十二月四日夜独りでバークシーヤ州スタイルズの自邸から自動車を駆って家を出たが翌朝有名な景勝地ギルフォードのがけの上にその自動車が置き捨てられてあったのが発見されたが、夫人の行方は皆目分らず四百人の警官、探偵、捜索隊、数台の飛行機、数十頭の警察犬等地方の警察機関を総動員して捜査に熱中してゐる事件発生以来今もって何等の手懸りなく全英国から大陸の毎日毎夜の興味の中心となってゐる

×  ×  ×

クリスチー夫人の夫は現役の飛行中佐で大戦中にも数度殊勲を現し、二人の間に一男一女あり 夫人が家を出たのは夜の十時過ぎで極めて円満な家庭で居住地スタイルズの人々からも敬愛されてゐたといふ、自分の秘書あてに「これから自動車で出かけるが今夜は帰宅はしない予定です」と紙片に書き残し、カバンに夜会服、靴、化粧道具などをいれて出かけた、然るに翌日前記の場所で村の少年が霜で白くなってゐるこの空自動車とその中に前記の品々を発見したのが騒動のはじまりである、警官隊の活動の結果その朝六時頃、薄い下着一枚で夫人が自動車から降りてガタガタ震へてるのを見て 自動車をスタートさせてやったといふ村の男の証言や、その他近親の人々の話で夫人が最近著るしく神経過敏になってゐて「小説の構想が少しもまとまらない、ただの一行も書けない」と嘆声をたびたびもらしたといふ事や、時々興奮して愛犬をなぐりつけたりしたといふ事などから判断して過度の創作疲労のため夢遊病者の如くなって付近の森の中をさまよってゐるものか、あるひは付近の川か池の中へ落死したものと推定してその方針で捜索を進めたが皆失敗に終った

(1927〈昭和2〉年1月9日付 東京朝日 朝刊7面)

【解説】

 今年6月23日、世界に知られた一人の俳優が死去しました。よれよれのレインコートを着て犯人を追いつめるコロンボ警部の姿を、懐かしく思い出す方も多いでしょう。

 朝日新聞の声欄にも、ピーター・フォークさんをしのぶ投稿がいくつかありました。その中で語られていたのが、「テレビドラマ『刑事コロンボ』が日本でも人気だったのは、声優、吹き替えの力も大きい」ということでした。

 日本では故小池朝雄さんがコロンボ警部の吹き替えを担当し、「ウチのカミさんがね……」というせりふで人気を集めました。

 外国のドラマの日本語吹き替え版といえば、ちょっとした思い出があります。私が中学生だったころ、生物の授業でのことです。

 先生が、「人間の脳には、神経細胞が集まっている部分があります。これは灰白質(かいはくしつ)というのですが、灰色っぽく見えるからこの名前です。皆さん、知っているでしょ? ポワロさんが『私の灰色の脳細胞が……』とかよく言うじゃない」と問いかけたら、クラスでどっと笑いが起きたのです。

 私も笑った記憶がありますが、これには少し説明が必要でしょう。当時、イギリスのテレビ局から輸入したドラマ「名探偵ポワロ」がNHKで放送され、かなりの人気がありました。その理由は、アガサ・クリスティーの原作の面白さもあったのですが、主人公エルキュール・ポワロのしぐさや声が「可愛い」と評判でした。ポワロはベルギー人で、時々フランス語を使う探偵でした。日本では熊倉一雄さんが声を担当し、「ノンッ」「マドモアゼールッ」という少し気取ったしゃべり方が人気でした。クラスメートが、このものまねをしていたのを今でもよく覚えています。

 名探偵ポワロは自信家として描かれていたので、「私の灰色の脳細胞を使えば、解けない謎などありません」というようなことを、毎回、言っていました。しかし、ポワロにも解けそうにない事件が、現実にありました。それが原作者アガサ・クリスティーの失踪事件です。1927(昭和2)年1月の新聞から点検しながら読んでみましょう。

 まず、見出しにある「美人」「誘かいか、自殺か発狂か」を削るように依頼したいものです。「美人」という言葉は事件と関係がなく、女性を揶揄(やゆ)するような見出しだと思われるためです。

 この記事には、「自殺したのではないか」という予測も書かれています。しかし、心配している家族のことを考えると、臆測で書くこと自体が好ましくありません。

 「誘かいか」を削るのはなぜでしょう。記事に書かれていないことからつけた見出しを、「幽霊見出し」と言います。本文には「身代金の要求があった」という記述もなく、「誘拐の可能性」についても一切言及されていません。そのため、「『誘かいか』は幽霊見出しですから、削ってください」と依頼します。

 「女流探偵小説家」「女盛りの美人作家」なども、現在の新聞では、まず使わない表現です。「女流」は、この場合、性別を強調する必要性がありません。「女盛りの」も、「女性はこうあるべきだ」という考え方からくる書き方です。

 ポワロは「スタイルズ荘の怪事件」で初登場し、「アクロイド殺し」はそのトリックの斬新さから賛否両論を巻き起こしました(この記事に出てくるクリスティーの小説名は、早川書房の翻訳表記に合わせています)。

 昭和初期の日本でも、クリスティーは「多数の探偵小説で知られてゐる」人気作家だったようです。1926(大正15)年12月4日に自宅から自動車を運転して出て、そのまま行方不明になりました。年が明けて1月になってから、日本でも報道されたということになります。

 クリスティーが家を出た翌朝、車が乗り捨てられているのが発見され、大捜索が行われました。その結果、様々な証言が得られました。

 「下着一枚で夫人が自動車から降りてガタガタ震へてるのを見て 自動車をスタートさせてやった」という男性の話もありますが、「下着一枚で」の部分は、クリスティー本人や家族へ配慮して、「薄着で」と表現するか、できれば削ってもらいたいものです。

 クリスティーと親しい人の話では、失踪前に「一行だって書けない」と創作に悩んでいた様子がうかがえます。警察は、その疲労から「夢遊病者の如くなって」森の中をさまよっているのではないかと考えました。

 現在の朝日新聞では、「病名や病態を安易に比喩に用いない」ことにしています。「夢遊病者の如くなって」は削るように筆者に依頼します。

 警察の捜索でも、まったく手がかりは得られませんでした。クリスティーはどこへ行ったのでしょう。

 世界のできごとが瞬時に伝わる現代では考えられないことですが、実は、この記事が掲載された1927年1月9日の時点で、クリスティーが発見されてからずいぶん日数がたっていたのです。

拡大クリスティーが発見されたことを報じる記事=1927年1月13日付東京朝日夕刊2面

  1月13日付の朝日新聞は、「クリスチー夫人 行方が判明 全く精神を喪失したあはれな夫人の姿」と題して報道しています。この続報記事を見ていくと、失踪した時の記事と食い違っているのがわかります。

拡大クリスティーがうんだ名探偵ポアロが「殺さる」と報じた記事=1975年5月30日付東京本社版朝刊3面
 失踪時の記事で、クリスティーは「十二月四日夜独りで……自動車を駆って家を出た」とされていますが、続報では「十二月三日……自宅を無断で出たまま」と書かれています。

 初めは混乱して伝わったのでしょう。現在では、クリスティーが家を出たのは1926年12月3日、見つかったのは12月14日と確認されています。クリスティーの生涯において、Agatha Eleven Missing(アガサの11日間の失踪)として有名だそうです。

 12月14日、クリスティーの夫は「ヨークなるハロゲイトの警察から、……旅館に泊ってゐる婦人客がどうも当のクリスティー夫人らしい」という連絡を受けました。夫はヨークシャー州のホテルに向かい、確かに本人であると確認したのですが、クリスティーは「自分の何人であるかも」わからない状態でした。夫妻は12月15日には自宅へ戻っており、夫は「アガサ・クリスティーは記憶喪失である」という医師の診断書を公表したそうです。

拡大クリスティー死去は「名探偵ポアロの後追い」と報じられた=1976年1月13日付東京本社版朝刊23面
 失踪の原因については、様々な臆測が流れました。しかし、クリスティーは自身の失踪について固く口を閉ざしたままでした。

 失踪事件から50年近くたった1975(昭和50)年5月、クリスティーはある人物を「殺す」ことを決めます。「自分が死んだあとにも生きているなんてことは認めたくない」と言い、「カーテン」という作品で名探偵ポワロを死なせることにしたのです。そして翌年、「名探偵ポアロの後追い」をして、クリスティーはこの世を去りました。

 英国から遠く離れた昭和初期の日本でもその失踪が大きく報道されたクリスティーですから、人気ぶりがよくわかります。世界的なベストセラー作家としての輝かしい人生で、唯一の謎がこの失踪事件だそうです。ポワロの灰色の脳細胞をもってしても、人の心の中までは見通せないようです。

【現代風の記事にすると…】

 英推理作家 突然行方不明に

 日本でも知られたクリスティーさん

 英国の推理作家アガサ・クリスティーさん(35)は、日本の推理小説ファンの間でも「茶色の服の男」「スタイルズ荘の怪事件」「アクロイド殺し」など多くの作品で知られている傑出した人気を誇っている。しかし、最近の同国の新聞によると、クリスティーさんは昨年12月4日夜、バークシャー州スタイルズの自宅から1人で自動車を運転して家を出たまま行方がわからなくなっている。

 翌5日朝、有名な景勝地であるギルフォードの崖の上で、クリスティーさんが運転していた自動車が乗り捨てられているのが発見された。400人の警官、探偵、捜索隊、数台の飛行機、数十匹の警察犬など地方の警察機関を総動員して大規模な捜索が行われているが、今のところ手がかりはないという。クリスティーさんの失踪には、英国だけでなく、ヨーロッパ全体が、日々、注目している。

×  ×  ×

 クリスティーさんの夫は現役の空軍中佐で、世界大戦中にも何度か勲章を受けた。夫妻には1男1女がいる。家庭は大変円満で、クリスティーさんはスタイルズの住民からも敬愛されていたという。

 家を出たのは12月4日の午後10時過ぎ。自分の秘書に宛てて「これから自動車で出かけるけれども、今夜は帰宅しない予定です」とメモを残し、かばんにイブニングドレス、靴、化粧品などを入れて出かけた。

 しかし、5日朝、ギルフォードの崖の上で村の少年が無人の自動車を発見した。車は霜で白くなっており、中にはクリスティーさんが持って出た物があったという。

 警察の捜査の結果、5日午前6時ごろ、「クリスティーさんが自動車から降りて震えているのを見たので、自動車を動かしてあげた」という村の男性の証言などが得られた。親しい人の話では、クリスティーさんは最近著しく神経過敏になっており、「小説の構想がまったくまとまらない。一行も書けない」とたびたび嘆いていた。時々興奮し、愛犬を殴りつけることもあったという。

 警察は、クリスティーさんが小説を書くことに極度の疲労を感じ、付近の森の中をさまよっているか、川か池に転落した恐れもあると見て捜索を進めた。しかし、発見には至っていない。

(永島葵)

当時の記事について

原文どおりに表記することを原則としますが、読みやすさの観点から

  • 漢字の旧字体は新字体に
  • 句点(。)を補った方がよいと思われる部分には1字分のスペース
  • 当時大文字の「ゃ」「ゅ」「っ」等の拗音(ようおん)、促音は小文字に

等の手を加えています。ご了承ください