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昔の新聞点検隊

拡大1921(大正10)年5月8日付東京朝日朝刊5面。クリックすると大きくなります。画像には主な直しだけ朱を書き入れています。現在の朝日新聞の表記基準で認めていない漢字の音訓や、当時は入れていなかった句点を入れる等については、原則として記入を省いています
【当時の記事】

◇婦人蹴球の魁に
 起たんとする二女学生
 ――昨日豪雨中予選の蹴球見物――

つい此程東京蹴球団へ二女学生が入団を申込んだ、意外の事に一驚した幹部は種々研究もし相談もした揚句彼女等の希望は頗る真面目に競技を研究し婦人チームを組織したい目的だと判って入団を許した、両女は共に桜井女塾の生徒で本科一年生小笹浅子(一八)と阿部かね(一八)と云ふ 性来の女ファンで極東大会の蹴球予選開始以来一日も欠かさず軽快な揃ひの洋装で豊島師範のグラウンドに詰めかけ昨日の如き土砂降を物ともせず熱心見物して居た、蹴球団の佐々木氏は『驚いたもので十四、五人婦人のメムバーも拵へ上げ先づランニングから初めてキックに進む抔と頗る科学的にやってゐる』と語った

(1921〈大正10〉年5月8日付 東京朝日朝刊5面)

【解説】

 なでしこジャパン。6~7月に行われたサッカー女子ワールドカップで優勝し、そのメダルの色と同じくらいまばゆく輝いた女子日本代表の選手たちは、震災や原発事故の暗い影が覆う日本を、明るく照らしてくれました。はるかドイツの地で強豪国との連戦に苦しみながらも勝ち抜いたチームに、私たちはどれほど元気や勇気をもらったか分かりません。

 

 先日のロンドン五輪アジア最終予選も1位通過で出場権を得た「なでしこ」の人気は、今や飛ぶ鳥を落とす勢い。これまでスポーツでは野球に関する記事を主に取り上げてきましたが、ここはひとつサッカーで、と思って今回探し出したのがこの記事です。

拡大別記事1 女子チーム同士のサッカーの試合の記事=1967年3月20日付大阪本社版朝刊12面
 なんと大正時代にすでに「なでしこ」がいたというのです。写真を見ると記事の通り「軽快な」洋装。朝日新聞のデータベースでも、検索して探した限りでは女子サッカーの記事が見え始めるのは1960年代後半~70年代。日本の女子サッカーの歴史についての記述がある「がんばれ!女子サッカー」(大住良之・大原智子著、岩波アクティブ新書、2004年)によると、記録に残る中で最も古い女子チームは神戸市立福住小学校で1966(昭和41)年に結成された「福住女子サッカースポーツ少年団」。その翌年には早速試合が行われており、この試合は朝日新聞でも取り上げられていました(別記事1)。しかし今回の記事はそれよりも約45年も前。貴重な記録と言えそうです。

 それでは、いつもの点検をしましょう。まず「女ファン」という表現が少し気になります。すでに記事の中で女性ということは十分ふれられているので、この「女」は不要でしょう。この表現には「女性のファンは珍しい」という好奇の目があるようにも感じられ、しっくりきません。

 ランニングから「初めて」、はスタートの意味でしょうから「始」の方が良いでしょうか。「とる」「かたい」などほぼ同じ意味で複数の漢字がある場合の使い分けは校閲記者にとっても悩ましい存在。使い分けの基準は「朝日新聞の用語の手引」に載せていますが、新聞は時代に合った言葉遣いも必要なため、何年かに一度改訂しています。

 それから記事では2人の女性が紹介されています。小笹さんと阿部さん。敬称がないのは現代ではいただけませんね。また、せっかく大きな写真を付けているのに、どちらがどちらか分からないのが悔やまれます。補足説明がほしいので、あわせて指摘しておきましょう。

 

 この2人が通っていた「桜井女塾」は、東京・本郷の向ケ岡弥生町(現・文京区弥生あたり)にあった、英語を主に教える学校だったようです。もしかしたら、英語文化に触れる環境の中で英国発祥であるサッカーを知り、興味を持ったのかもしれませんね。

 

 そして2人は「東京蹴球団」(東蹴)に入団を申し込みます。「蹴球」は、当時の記事を見るとサッカーにもラグビーにも使われていました。前後をよく読まないと分からない場合もありますが、大抵の場合、ラグビーは「ラ式蹴球」、サッカーは「ア式蹴球」としているようでした。

拡大別記事2 関東蹴球大会の開催を知らせるおしらせ=1918年1月27日付東京朝日5面 
 「ラ式」は分かるとして、なぜ「ア式」? これは、当時サッカーが主に「アソシエーション・フットボール」と呼ばれていたからでした。ラグビーとサッカーの源流は同じで、手を使わないルールを尊重する人たちが「フットボール・アソシエーション(FA)」という協会を結成し(1863年)、普及に努めたため、「アソシエーションのフットボール」となったのでした。今でもFAはイングランドのサッカー協会として存在していますし、東大や早大などの古くからあるサッカー部は今も「ア式蹴球部」の名称を残しているようです。

 2人の入団を許可した東蹴は、1917(大正6)年に結成。日本人クラブチームとしては最古とも言われています。この年開かれた極東選手権競技大会(日本、中国、フィリピンが各競技で競う国際大会)で日本はサッカーで惨敗。大会後、主に師範学校の卒業生が集まって結成されたチームでした。翌年には「関東蹴球大会」という中等学校向けの大会を主催。この大会の後援を東京朝日新聞が担ったため、当時の紙面ではサッカー記事が増えています(別記事2は開催を呼びかけるおしらせ。「アッソシエション式」と表記されているのが分かります)。日本サッカー協会結成(1921年)の数年前のことです。

拡大別記事3 第1回全国優勝競技会(後の天皇杯)、東京蹴球団の優勝を伝える紙面=1921年11月28日付東京朝日朝刊8面

 このチーム名を見て、ピンと来た方はなかなかのサッカー通でしょう。そう、東蹴は第1回の天皇杯優勝チームでもあります(当時は「ア式蹴球全国優勝競技会」)。当時の記事が残っていました(別記事3)。この記事中のポジション表記が興味深いですね。GKはゴールキーパーですが、LF、RFは左右フルバックで現在のディフェンダー、LH、CH、RHは左中右のハーフで現在のミッドフィールダー(Cはセンター)、LWF、RWFが左右ウイングフォワード、LIF、RIFが左右インナーフォワード、CFがセンターフォワードでしょう。なんとフォワード5人の2-3―5フォーメーション。そんなに攻撃的で大丈夫?と思いますが、当時はまだオフサイドの規定が今よりも厳しかったのです。簡単に言うと、パスを出す際に受け手の前にGKを含め相手選手が3人いなければならない(現在は2人)ため、守備の負担が少なくて済んだようです。現在のオフサイドルールになったのは1925(大正14)年のことです。

拡大PHOENIX戦の前半、東京蹴球団が先制=10月2日

 話がそれました。この東京蹴球団は、現在も存続しているのです。戦時中に一時活動停止になったものの、終戦後の1948(昭和23)年には再開。今は東京都社会人サッカーリーグの2部2ブロックに所属しています。

 10月2日に都内で行われた試合(対PHOENIX戦)を観戦しました。灰色のユニホームが東蹴です。フォーメーションはワンボランチの4-4-2。サイドまで広く使ったサッカーで押し気味に試合を進め、前半は着実に2点のリードを奪います。しかし後半に一瞬のスキをつかれ、試合終了間際に惜しくも同点、2-2の引き分けに終わりました。この試合前まで開幕から負け知らずの9連勝だっただけに悔やまれる試合でしたが、それでもまだ首位の座はガッチリとキープ(10月11日現在)。1部昇格を目指し、残り2試合の全勝を狙います。

拡大ハーフタイムに選手同士で戦術を確認する東京蹴球団のメンバー=10月2日
 終了後、鈴木基之監督(51)と、佐藤真吾さん(43)、観戦に来ていたOBの井上征生さん(66)に話をうかがうことができました。選手はみな働きながらプレーしているので、全体練習もめったにできず、ぶっつけ本番で試合に臨むことが多いそうです。そのぶん、選手間で大きな声を出して連携をはかっているのが印象的でした。「東蹴は昔から(良い意味で)『うるさい』と言われているようだ」と佐藤さん。井上さんによると、練習がなかなかできないのは今も昔も変わらないそう。そういったところから自然と大きな声かけが伝統のようになっていったのかもしれません。鈴木監督いわく、目指すプレースタイルは「きっちり守って勝つ」で、これもずっとチームカラーのようになっているそうです。

 

 選手には団史を配り、チームの歴史を伝えているとのこと。古豪だけあって、セレクション(入団試験)を受けに来る選手も少なくないようです。これからの目標は「(2017年の)100周年までに、JFLに昇格すること」と、生き生きとした表情で鈴木監督が語ってくださいました。都社会人1部、関東リーグ2部、1部といくつもの段階があり、険しい道のりですが、名門チームの躍進をぜひ期待しています。

 

 ところで今回の記事の2人の女性について尋ねたところ、記事の存在は知っていたものの、団に話が残ってはいないようだ、とのことでした。現在も、井上さんや鈴木監督の選手時代も、団員に女性はおらず、近所の女性が体力作りで練習に参加することがあった程度だそうです。長い東蹴の歴史の中でも、この記事の2人は異色の存在のようです。

 そうなるとこの2人が本当に団員だったのか、若干疑わしくなってきましたが、その疑念を払拭(ふっしょく)する記録を、あるサッカーファンが発掘していました。古い文献にあたって日本サッカーの歴史を独自に研究し、ブログ「蹴球本日誌」でその成果を披露している、ハンドルネーム蹴球閑人さん(55)。大正~昭和初期に発行された「運動界」(運動界社刊)という雑誌にこの2人に関する記述があるといいます。

 早速、現物を確認しに国立国会図書館へ。目当ての記事は1929(昭和4)年の4月号掲載でした。当時1部50銭で158ページとなかなかのボリューム。この号は「運動界」の10周年記念号で、「ソッカー十年の思ひ出」として、東蹴の団員・原島好文氏の寄稿が掲載されていました。主にサッカーと東蹴の歴史を振り返る内容でしたが、その中に以下の記述がありました。

 その頃、東京蹴球団には婦人の団員が二人居た。モガの詞の無かった頃のモガで、彼女達はユニホームを着てグラウンドに出た。(中略)一人は丸顔一人は細面の一寸可愛い娘であった。二人は華美なストッキングをつけフットボール専用の靴を履いてゐた。或日の東京日日新聞紙上に、絵日傘をさしてニコニコしながらゲームを見てゐる二人の写真が出たっけ。
 その二人をメンバーに入れて試合した、肉弾戦のまだ大目に見られる頃であったが、まさか突当る訳にも行かず、相手の中学チームはさんざんに悩まされたことがあった。
  だんだんグラウンドに出るのが少くなったと思ふうち姿を消して、(中略)今は誰かのお母様になってゐるだらう。

拡大別記事4 連載「全国男女中等校体育調べ」に「女子校の変り種、野球と蹴球」の見出し=1941年2月12日付東京本社版2面
 傘をさした写真というのが、今回の記事ではないでしょうか。原島氏は東京日日新聞(現・毎日新聞)としていますが……。写真の2人も丸顔と細面に見えます。原島氏は細面の女性のほうをちょっと気にしていたようですね。この証言を見る限り、2人はちゃんと試合にも出ていたようです。大正時代にも「なでしこ」が存在したのでした。

 蹴球閑人さんはこの記述を見つけたとき、「大正時代ののびやかな雰囲気を感じた」そうですが、まさに時代は大正デモクラシー、男女の機会均等を訴える風潮の中で、この2人ものびのびと、サッカーを楽しんだのかもしれません。

 

 残念ながら、この寄稿以外に、この2人のその後が分かる資料は見つかりませんでした。朝日新聞データベースではこの他に、1941(昭和16)年2月12日付の「全国男女中等校体育調べ」という連載で、長野県の蓼科家政女学校に蹴球部があるという記述が見られました(別記事4、ア式かラ式かまでは不明)。このように、かなり昔から各地で女子蹴球の芽が出ていたようではありますが、なかなか大きな波にはならなかったのでしょう。それが現在になり、ようやく花開きました。この小笹さんと阿部さんも、きっとW杯優勝を我が事のように喜んでいるのではないかと思います。

【現代風の記事にすると…】

女子サッカーの先駆け 目指す2人の学生
サッカー極東大会予選の観客席から 

 このほど、サッカーチーム「東京蹴球団」に2人の女子学生が入団を申し込んでいたことが分かった。予想外の出来事に驚いた幹部は協議を重ねた結果、2人の入団を許可した。真剣に競技を研究し、女子チームを作りたいという入団の目的がはっきりしたためだ。

 その2人とは、桜井女塾の1年生、小笹浅子さん(18)と阿部かねさん(18)。根っからのサッカーファンだそうだ。極東選手権競技大会の予選が始まって以来、一度も欠かすことなく観戦。軽快な洋装で豊島師範学校グラウンドに足を運んでいる。7日も、土砂降りを物ともせずに熱い視線を送っていた。

 蹴球団の佐々木さんは、「驚いたもので14~15人の女子チームのメンバーも集めたようです。まずはランニングから始めて次はキック練習に進むなど、とても科学的にやっています」と語った。

(広瀬集)

当時の記事について

原文どおりに表記することを原則としますが、読みやすさの観点から

  • 漢字の旧字体は新字体に
  • 句点(。)を補った方がよいと思われる部分には1字分のスペース
  • 当時大文字の「ゃ」「ゅ」「っ」等の拗音(ようおん)、促音は小文字に

等の手を加えています。ご了承ください