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昔の新聞点検隊

泥だらけの記者たち 関東大震災(2)

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【当時の記事】

帝都の写真を齎して
大阪への第一急使
東京朝日新聞記者福馬謙造着す
徒歩にて震災の東海道を縦走

 

大災害の第一日なる一日夜折柄猛火の中に包まれつつある東京朝日新聞社を後に勇敢にも火の海の帝都脱出を企て大阪朝日本社に惨澹たる首都の写真と通信記事を齎らす重大なる使命を帯び一日午後十時自動車にて出発したる東朝記者福馬謙造氏は爾来三昼夜大胆にも不眠、不食、不休の努力を続けて汽車不通の東海道を突破し裾野駅より乗車、四日午前九時遂に本社に到着 その大胆なる企画を完うした、氏の自動車は最初府中、八王寺を経て万難を排しつつ幾度かの大迂回ののち調布に達し座間より相模川の鉄橋に到着したが、同鉄橋破壊のため遂に自動車を乗り捨てるべく余儀なくされ健脚に任せて敢然厚木、平塚より東海道を馳せ、震害最も甚しかった箱根の峻嶮を踏破し漸く御殿場より裾野駅に辿り着いた、氏の嘗めた辛酸は到底筆紙の尽す限りでない、而も当初氏と共に使命を同じくして東京を発した僚友中川、野田の両氏の行方さへ見失ふに至り、今に到るも尚ほ両氏の消息は判明しない、この不撓不屈の第一使者によって齎らされた東都の実況写真は実に日本全国民の知る最初の大惨害の真景である

(1923〈大正12〉年9月4日付 大阪朝日第3号外2面)

【解説】

 9月20日公開の記事で、関東大震災発生時の記事を紹介しました。今回はその続編です。

 関東大震災では、通信・交通網が大混乱しました。東日本大震災でも同様に混乱しましたが、当時は現代とは比べものにならないような状況でした。まず東京から大阪への電話はつながらず、被災地の状況は大阪へなかなか伝わりませんでした。

 群馬県の高崎から東京に車で来た記者が2日、電話の通じていた高崎に戻り、名古屋経由で大阪にルポの第一報を送りました。3日付の大阪朝日の朝刊に掲載されましたが、原稿量はまだまだ少なく、惨状をひと目で伝える写真は大阪に届いていませんでした。東京からの原稿と写真の到着を、今か今かと待っていました。

 そんな中、入社半年の若手・福馬謙造記者(社会部)が震災発生から3日後、何とか大阪にたどり着きました。冒頭で紹介したのは、福馬記者の到着を知らせる号外の前文です。続く本文で、道中の苦労や被災地の様子がつづられています。テレビのない時代、福馬記者がもたらした写真は衝撃的でした。

 号外は、現在の朝日新聞では使わない表記や難しい漢字が、いくつか登場します。見出しにある「齎して」は「もたらして」と読みます。前文の「爾来」は、今なら「以来」「その後」と書くところです。「不撓不屈」(ふとうふくつ)は、元横綱の貴乃花が昇進のときに使って知られていますが、「どんな困難にあっても心がくじけないこと」を意味します。

   ◇   ◇   ◇

 福馬記者はどのように大阪へ向かったのでしょうか。「朝日新聞社史」「歴史の瞬間とジャーナリストたち」(いずれも朝日新聞社)などをもとに、動きを追ってみます。

 震災が発生した1日の午後6時、東京朝日新聞の社屋に炎が延びてきた頃です。福馬記者は上司に申し出ます。「大阪と連絡をとりたいと思います。私をやって下さい」

 既に午後1時ごろに「第1班」、午後2時半ごろ「第2班」が出発。福馬記者は夜9時~10時ごろ、同僚2人とともに「第3班」として自動車に乗り込みました。

 倒壊した建物や道路の亀裂に行く手を阻まれながら、東京都の八王子を経て神奈川県の座間に抜けます。しかし、相模川の鉄橋が崩れていて車で通れません。仕方なく車は会社に戻り、相模川を泳いで渡りました。

 ライバル紙との競争に負けまいと、一睡もせずに歩き続けます。2日正午ごろに神奈川県の平塚、夜6時ごろに同県の国府津駅に着きました。それまでに、福馬記者は、自宅の様子を見に行くなどした同僚2人と別れ、一人きりになっていました。駅で行われていた炊き出しで夕食にありついた後、しばらく眠ります。

 目を覚ましたのは、3日午前3時。懐中電灯で照らしながら、アメのように曲がった線路伝いに歩きます。つぶれたトンネルを抜けるため、山の登り下りを繰り返し、ようやく静岡県の駿河駅に着きました。

 そこで自動車屋を見つけます。「西へ行けるところまでやってもらいたい。私は朝日新聞の記者で、大阪との連絡のために行くのだ」

 30分ほど車に揺られて眠っていると、裾野駅(静岡県)に着きました。運転手が声をかけます。「汽車が出そうですよ」。待つこと2時間、3日午後8時に汽車は出発しました。大阪に着いたのは翌朝の8時半。円タクを飛ばし、大阪朝日新聞に急ぎました。

   ◇   ◇   ◇

 福馬記者は、震災取材に関する手記を残しています。大阪朝日新聞での執筆の様子や心の震えがよく描かれていて、思わず引き込まれます。長めですが、一部を抜粋して掲載します。

   ◇   ◇   ◇

 玄関から入ろうとすると、たちまち守衛にとめられた。全身泥まみれ、風来坊のような侵入者を、守衛がとめたのはもっともである。

 広い編集室は人でいっぱいであるのに驚かされた。

 とまどっていると、下井君が出て来て、「おい、東京からか」と聞く。

 「そうだ。大阪との連絡のためやって来た」というや否や、下井君は私を押すようにして大江社会部長のところへ連れて行った。

 「東京を一日夜立って、やっとやって来ました」というと、「やぁ、御苦労、すぐ号外を出すから、東京を立ってから大阪に着くまでのことを書いてくれ給え」

 「は、書きます。その前にお茶を一杯戴けませんか」

 「おい、牛乳とコーヒーとサイダーとお茶を持って来い」と、大江さんは(編集局の原稿係に)命じるとともに、原稿用紙と鉛筆を私につき出した。

 私は鉛筆をとり上げた。すぐそばには大江さんが立っている。社会部も整理部も原稿の出来るのを待って、一枚一枚書くそばから持って行く。私は張り切って一気呵成(かせい)に、新聞一頁(ページ)の原稿を書きなぐった。その間、お茶を一杯のむひまもなかった。書き終えて飲んだサイダーがうまかった。

 私はさっきから聞きたくて、うずうずしていたことを、大江社会部長に訊ねた。「私は何番目の大阪入りでしょうか」

 すると、編集局長の高原氏が言下に答えた。「一番乗りだよ。まだ誰も来ていない」

 私はここ三日間の苦労が一度に抜け去るのを感じた。「そうですか」といったまま、私は後がつづかなかった。訥弁(とつべん)の私がボツボツと東京の模様を語り始めている所へ、大江さんが一頁大の号外を持って編集局長室へ入って来た。

 「帝都の写真を齎して 大阪への第一急使」と特号の大きな見出しが先ず眼に飛び込んだ。私は思わずまぶたが熱くなるのを感じた。

   ◇   ◇   ◇

 福馬記者がまぶたを熱くしたのが、今回ご紹介したこの号外=下の画像=です。確かに、見出しの大きさには、目を見張りますね。

拡大1923年9月4日付 大阪朝日第3号外1面 
拡大1923年9月4日付 大阪朝日第3号外2面

 福馬氏以外の記者も、4日の夜以降、次々と大阪に到着しました。5日午後、大阪・中之島公会堂で、震災報告大講演会(大阪朝日新聞主催)が開かれます。多くの市民が福馬記者らの話に聴き入りました。場内から多くの義援金が寄せられたそうです。

(画像には主な直しだけ朱を書き入れています。現在の朝日新聞の表記基準で認めていない漢字の音訓や、当時は入れていなかった句点を入れる等については、原則として記入を省いています)

【現代風の記事にすると…】

東京朝日記者 大阪へ到着 大震災写真もたらす

 関東大震災の惨状を伝える記事と写真を届けるため、大阪朝日新聞を目指していた東京朝日新聞の福馬謙造記者が4日午前9時、大阪朝日に到着した。福馬記者は震災発生当日の1日午後10時、東京朝日を自動車で出発。まずは西へ向かい、府中、八王子を経由し、神奈川県座間市へ。相模川を渡ろうとしたが、鉄橋が崩れており、車を乗り捨てた。汽車も不通だったため東海道を徒歩などで進み、箱根の山を乗り越えて、裾野駅(静岡県)から汽車に乗って大阪に向かっていた。そうやって届けられた写真がこれである。

(高島靖賢)

当時の記事について

原文どおりに表記することを原則としますが、読みやすさの観点から

  • 漢字の旧字体は新字体に
  • 句点(。)を補った方がよいと思われる部分には1字分のスペース
  • 当時大文字の「ゃ」「ゅ」「っ」等の拗音(ようおん)、促音は小文字に

等の手を加えています。ご了承ください