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昔の新聞点検隊

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【当時の記事】

浴槽の声楽家がレコード界の寵児に
小野巡査が「鉾を収めて」転身 その名も『めぐり』 

淀橋署のお巡りさんが、非番の午下り、付近の銭湯でふと口誦んだ民謡「鉾ををさめて」のバスが同じ湯槽につかって聞いてゐたビクターの作曲家細田義勝氏に認められ一躍民謡界の寵児としてレコードの檜舞台へ乗り出すことになった、この街の歌手は淀橋署管内柏木一丁目交番勤務小野章高君(二五)で去る廿四日正式に辞職、芸名もなつかしいお巡りさん生活に因み「巡」字をとって「小野めぐり」の名をかかげ小唄勝太郎と共に満洲をうたったレコードで初お目見得することになった

この街の歌手が世に出るまでにはビクターの作曲家である細田義勝氏が一年間にわたるこの天才発見の隠れたる労苦が秘められてゐる

昨年十二月初旬昼の事である、細田氏が淀橋区百人町二ノ二六○の銭湯鏡湯に行くと湯槽につかった一人の青年が低調で口誦んでゐる「鉾ををさめて」のメロディをふと耳にとめた、浴槽の中に流れる音質の好さに細田氏がうっとりとしてゐる中、己の運命の糸が早くもたぐられてゐるとも知らぬこの青年はこの一節を歌ひ終るとそそくさと出て行ったが

その後姿を見送って首をかしげた細田氏、玄人ではないと直感して、それからは毎日の様に午下りを選んでは湯に行った、しかし話しかける機会もなく遂に相談したのが番台の女中二人、「自宅に遊びに来て下さい」と書いた名刺を取次いでもらふ事にして待つ事半月、やっとこの青年が細田氏の自宅を訪れたのは去る七月下旬だった、早速二階に招じてピアノに合はせ歌ったのが「江戸子守唄」「国境警備の唄」「桜音頭」の三曲

このテストで愈々乗り気になった細田氏は同会社の中山晋平氏、音楽部長村越国保氏、長田幹彦氏等の尽力を得て去る九月十七日テスト盤吹込みは行はれた、その日の中に正式入社の契約が取り交され、警視庁へは同社文芸部から懇談して、ここに街の歌手は一躍レコード界に乗り出すことになった訳である

(1934〈昭和9〉年11月27日付 東京朝日 朝刊13面)

 

【解説】

 校閲記者を職業にしていると、よく尋ねられます。

 「国語は、昔から得意だったんですか?」

 残念ながら、今も昔も「優秀な成績です」とは言えません。ただ、科目としては好きでした。学校の科目の国語というより、語学としての日本語が好きだったのかもしれません。

 昔から語学は好きでした。中でも一番勉強した時間が長いのは、やはり英語です。

 「gift」という単語を英和辞典で引くと、最初に書いてある意味はもちろん「贈り物」です。そして、神様からの贈り物として「天賦の才能」という意味もあります。

拡大10月31日付東京本社版夕刊3面
 10月31日付の朝日新聞(東京本社版の夕刊)に、「全米8位達成のシャリースが新作」という記事が掲載されました。シャリースはフィリピン出身の女性歌手で、現在19歳。家計を助けようと数多くの歌のコンテストに出場し、その映像が動画投稿サイトで話題になりました。その後、米国に渡って出したアルバムでアジア人初となる全米8位を達成したのです。

 シャリースの「gift」は動画投稿サイトによって広まり、有名プロデューサーのデビッド・フォスターに見いだされました。インタビューで、シャリースは「おとぎ話みたい。何年か前まで普通の女の子だったんだから」と語っています。

 「本物の才能を持つ人が、その才能を生かせる人に巡り合う」という「おとぎ話」が日本の昭和初期にもありました。1934(昭和9)年11月27日付の記事を見ていきましょう。

 33年12月初旬の昼、淀橋署の非番のお巡りさんが銭湯に出かけます。淀橋署というのは、現在の新宿署です。新宿署は東京都新宿区西新宿6丁目にあり、管内に新宿駅や歓楽街・歌舞伎町を抱え、同署のホームページによると「日本一のマンモス警察署」だそうです。

 新宿署の前の青梅街道を渡ると西新宿7丁目になり、その地域は1970年代に現在の住居表示になるまで「柏木一丁目」と呼ばれていました。

 その柏木一丁目交番に勤めていた小野章高(あきたか)巡査は、湯船につかりながら歌を口ずさみます。おそらく、温かい湯で仕事の疲れが癒やされ、何げなく歌ったものでしょう。

 小野巡査が歌っていたのは「鉾(ほこ)をおさめて」という曲。1928(昭和3)年に、日本を代表する歌手であった藤原義江が歌ってヒットしました。唱歌のような節回しのさわやかな曲でした。

 この曲名ですが、本文では「をさめて」、見出しでは「収めて」と漢字になっています。見出しをつける人には、「本文に合わせて平仮名にしてはどうでしょうか」と提案します。

 ここで、小野巡査の幸運と奇縁を感じずにはいられません。「鉾をおさめて」を作曲したのは、「シャボン玉」などで知られる中山晋平です。中山が当時所属していたのが日本ビクター蓄音器株式会社(後の日本ビクター)で、同じ会社の作曲家が、たまたま銭湯で小野巡査の歌を聞いていたのでした。

 その作曲家の細田義勝氏が「うっとりしてゐる」うちに小野巡査は歌うのをやめて、出ていってしまいました。細田氏は、「これはプロの歌手ではない」と直感し、毎日のように昼間を選んでは同じ銭湯に通いました。

 何回通って小野巡査の歌を聞いたのかは記事に書かれていません。ただ、細田氏は「話しかける機会もなく」困り果てたようです。そこで相談したのが、銭湯の番台にいる「女中二人」。現在の朝日新聞は「職業名や職務一般について書く場合は性別のない資格名称を使う」ことにしています。この場合、性別を書く必要もありませんから、「『従業員』でよいのではないか」と筆者に提案します。

 銭湯の番台に座っていた従業員に連絡先を書いた名刺を渡し、小野巡査へ取り次いでもらうように頼んだ時には、34年の夏になっていました。細田氏は、ひたすら待ちます。半月がたち、小野巡査がやっと自宅にやってきたのは34年7月下旬でした。

 小野巡査は細田氏の前で堂々と3曲を歌い上げました。細田氏は「鉾をおさめて」の中山晋平らビクター上層部に報告し、9月17日にテストが行われました。その日のうちにビクターへの入社が決まったのですが、小野巡査の場合、公務員の警察官であったことで騒ぎが大きくなりました。

 公務員は今も兼業が禁止されていますが、当時の警察には「5年の奉職」という規定がありました。警察官になったら5年は辞めることができなかったのです。そこで、「警視庁へは同社文芸部から懇談して」、小野巡査は34年11月24日に正式に警察を辞職することが決まりました。9月17日に入社が決まってから、2カ月はビクターと警察のやり取りがあったことになります。

 記事には書かれていませんが、小野巡査が最初に辞職を申し出た際、本当の理由は言わなかったそうです。ところが淀橋署長に呼ばれることになり、「実は歌手になります」と打ち明けました。

 警察側は、「どういうことだ!」と怒ったでしょうか。そんなことはありません。盛大に送別会を開き、内部の情報誌に応援の記事を掲載して送り出したそうです。

 ここで、記事の見出しをもう一度見てみましょう。

 「小野巡査が『鉾を収めて』転身 その名も『めぐり』」

 「鉾」は刃のついた武器です。当時の警察官はサーベルという刀を持っていましたから、歌手になることでそれを収めたことになります。加えて、「矛を収める」は争いをやめること。この見出しには、歌手になるきっかけとなった歌のタイトルの他に、「ビクターと警察の争いにも決着がつき、サーベルを置いて歌手に転身した」という意味も込められているのでしょう。

そして、小野章高氏は前職から1文字を取り、「小野巡」という歌手になりました。デビューしたのは1935(昭和10)年のことです。

拡大1935年5月27日東京朝日朝刊12面。海軍記念日のラジオ放送のプログラム「海軍を讃へる歌謡曲」の歌い手として「小野巡」の名がある

 歌手・小野巡は、その後も朝日新聞にたびたび登場します。デビューした年に「海軍を讃(たた)へる歌謡曲」を歌い、その3年後には出征しました。1938(昭和13)年3月8日付には、「凱旋(がいせん)勇士に流行歌手」との見出しの記事が掲載されています。この中で、「小野章高上等兵」として中国戦線に加わっていたとあります。当時は日中戦争の最中でした。

拡大1938年3月8日付東京朝日朝刊11面
 戦後、小野上等兵は復員し、炭坑の慰問などをしていたのですが、連合国軍総司令部の指導で、戦時の自身のヒット曲が歌えなくなりました。美声と才能に恵まれた歌手でしたが、歌うことを時代が許さなくなったのです。

 「小野巡」は1949(昭和24)年ごろまで歌手活動を続けた後に引退し、妻の実家があった茨城県常陸大宮市で文房具屋を経営したそうです。

 そして時は流れて、2004(平成16)年12月3日付の茨城版の記事から。

 「常陸大宮市の老健施設大宮フロイデハイムで、毎月1回開かれる入所者らのコーラスの会が2日、100回目を迎えた。『みんなで歌うのが生きがい』とお年寄りに人気だ。(中略)毎回欠かさず参加する小野章高さん(94)は『今日が人生で一番楽しかった』と、笑いながら帰っていった」

 歌手業から引退した小野さんでしたが、その名は知られていたので文房具屋の経営もうまくいき、地元の名士でした。カラオケ大会の審査委員長を引き受けたり、人前で気さくに歌を披露したりするなど人気者だったそうで、茨城版の記事からも楽しんで歌っている様子がうかがえます。

 小野さんは、09年6月に99歳で亡くなりました。歌という「gift」とともに、明治、大正、昭和、平成という四つの時代を生きた大往生だったと言えるでしょう。小野さんのようにうまくはないのですが、湯船につかりながら、調子が外れた鼻歌を歌って考えます。あなたのgiftは何でしょうか。

(画像には主な直しだけ朱を書き入れています。現在の朝日新聞の表記基準で認めていない漢字の音訓や、当時は入れていなかった句点を入れる等については、原則として記入を省いています)

【現代風の記事にすると…】

浴槽の声楽家がレコード界のスターに

小野巡査が「鉾をおさめて」歌手に転身 芸名は「小野巡」

 警視庁淀橋署の巡査が非番の昼下がりに近くの銭湯で「鉾をおさめて」を歌っていた。その歌声を聞いた、ビクター所属の作曲家・細田義勝氏がその才能を認め、巡査は歌手として華麗な転身をすることになった。

 歌手は、淀橋署管内の柏木一丁目交番に勤務する小野章高さん(25)。24日に正式に警視庁を辞めたが、芸名は巡査の生活を懐かしんで「巡」の1文字をとって「小野巡」。小唄勝太郎とともに満州を歌ったレコードでデビューを飾る。

 小野巡の才能を見いだしてからデビューまで、細田氏は1年にもわたって苦労した。昨年12月の初旬、細田氏が東京市淀橋区百人町の銭湯に行くと、浴槽につかっていた青年が「鉾をおさめて」を口ずさんでいるのが聞こえた。その歌声の素晴らしさに細田氏はうっとりしていたが、当の青年は、一節を歌い終わるとそそくさと出ていってしまった。自分の運命の糸が早くもたぐり寄せられようとしていることには気づいていないようだ。

 その後ろ姿を見送った細田氏は「プロの歌手ではないな」と直感した。それからは、昼下がりに毎日のように、その銭湯に通ったという。しかし、小野巡査に話しかける機会がなく、番台の従業員2人に「自宅に遊びに来てください」と書いた名刺を託した。

 そして半月ほど待ち、小野巡査がやっと自宅にやってきたのは7月下旬。すぐに2階に通された小野巡査は、「江戸子守唄」「国境警備の唄」「桜音頭」の3曲を歌い上げた。

 このテストで細田氏はますます乗り気になり、ビクターの中山晋平氏、音楽部長の村越国保氏、長田幹彦氏らに協力してもらい、9月17日にテスト盤のレコーディングをした。その日のうちに小野巡査と正式に入社の契約を交わしたが、警視庁とビクター文芸部の間で、退職についての話し合いの場がもたれたという。そして、歌手・小野巡は歌謡界にデビューすることになった。

(永島葵)

当時の記事について

原文どおりに表記することを原則としますが、読みやすさの観点から

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  • 句点(。)を補った方がよいと思われる部分には1字分のスペース
  • 当時大文字の「ゃ」「ゅ」「っ」等の拗音(ようおん)、促音は小文字に

等の手を加えています。ご了承ください