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昔の新聞点検隊

校長先生は名将軍! 秋山好古の晩年

広瀬 集

拡大1929(昭和4)年10月29日付東京朝日朝刊11面。画像をクリックすると大きくなります。画像には主な直しだけ朱を書き入れています。現在の朝日新聞の表記基準で認めていない漢字の音訓や、当時は入れていなかった句点を入れる等については、原則として記入を省いています

【当時の記事】

飛入りの浜口さんと 校長の秋山老将軍
全国中学校長総会に出席して 幸運だった大雄弁

全国中学校長協会総会は去る廿六日から麹町の東京府立一中で催されたが、最終日の廿八日には午後二時頃浜口首相も飛び入で演壇に現れ国策問題をひっさげて雄弁をふるった、首相の登壇は一同予期しなかった所で、何でも一中の川田校長が浜口さんがその昔京都三高の学生時代の先生で師弟の間柄にあり、浜口さんも川田校長の請を容れて快く急に壇上に立ったのだといふ、浜口さんはまづ財政困難から説き起して思想問題に言及し

『教育の目的が人格の完成にありとするならば現代の教育は知育技能に走り徳育が軽んぜられてゐる傾がある、最近大学専門学校等の学生の間には邪悪なる思想を抱くものが現はれ、彼等は今や年少気鋭れいろう玉の如き中学生の上にその誘惑の魔の手を潜行的に延ばさんとしてゐるかに見る、これは諸君自家頭上の問題である……』

と声をはげまして年少子弟をして邪悪なる思想に感染せしむるなかれとかなり思ひきった大訓戒を下した、かくて凡三十分の後首相は帰ったが、程経て首相を襲はんとした怪漢があった事を知り、一同口々に首相の幸運を祝福し合った、なほ今度の総会に出席した五百名の校長の中で伊予松山の北予中学の秋山校長はヒンデンブルグ将軍とあだ名され衆人注目の的となってゐたが、秋山校長とはたれあらう往年の勇将秋山好古大将その人であった

秋山将軍が郷里松山に隠退してその余生を郷党青年の教養に捧ぐべく決心し、私立北予中学の校長となったのは今から六年前 それ以来将軍は鳴かず飛ばず一身をなげだして訓育に当り非常な信望を博してゐるとの事

将軍は今度の会議に出ても非常に元気で若い中学校長等と議論も闘はし、また昼食の前後などには一中の校庭に出て学生等の群れに交って遊び、ミスしたボールなどをポンと投げてやってゆきすぎるといった調子、僅か三日間の会議の間に将軍は一中学生の崇敬の的と化してしまった、将軍は「若い学生のあの純真さが尊い、あれはそのまま生長させねばならぬ、私の学校にも千人ほどの学生がゐますよ……」とさも心地よげに高笑した

(1929〈昭和4〉年10月29日付 東京朝日朝刊11面)

【解説】

 「まことに小さな国が、開化期をむかえようとしている」。冬のこの時期になると、この有名なくだりのナレーションで始まるドラマを楽しみにしていらっしゃる方も少なくないのではないでしょうか。司馬遼太郎原作の「坂の上の雲」がNHKでドラマ化され、一昨年から年末に放送されています。壮大な世界を豪華キャストが演じる作品は、今年が3部作の最後。原作通りではない部分もありますが、そこはドラマ。原作や史実と比べて見るのもまた一興かもしれません。

 「坂の上の雲」の舞台は、明治初期から日清・日露戦争の頃の日本。主人公は愛媛・松山出身の3人、秋山好古(よしふる)、その弟真之(さねゆき)、真之の友人の正岡子規。子規は俳人として有名ですが、秋山兄弟はあまりご存知でない方もいらっしゃるでしょう。好古は陸軍、真之は海軍に所属し、ともに日露戦争で活躍します。ロシアのバルチック艦隊を破った日本海海戦(1905〈明治38〉年)で、連合艦隊の司令長官・東郷平八郎の片腕として作戦を立案したのが真之。「智謀(ちぼう)湧くが如(ごと)し」と評される軍略家だったといい、ドラマでも真之のほうにスポットがあたっています。中将にまで昇進しますが、そのすぐ後の1918(大正7)年、数え51歳で亡くなります。

 一方の兄・好古は、陸軍の騎兵育成に尽力します。世界最強とも言われたロシアのコサック騎兵を機関銃によって苦しめたことがよく注目されますが、そこは今年のドラマに譲ることにします。好古はまた、少し変わった経歴の持ち主でもありました。ドラマでは阿部寛さんが質実剛健、豪放磊落(らいらく)な人物像を好演していますが、今回はドラマとは少し違った好古です。

 記事を見てみましょう。東京の一中(現・都立日比谷高)で行われた全国の校長会議に、ビッグネームの2人が登場したという内容です。一人は当時の浜口雄幸首相。そしてもう一人は、今回の主人公・秋山好古。好古は陸軍大将まで昇進して退きましたが、その後、家族を東京に残して単身で故郷・松山に戻り、北予中(現・県立松山北高、当時は私立)の校長先生を務めていたのでした。

 まずはいつもの校閲チェックから。

 好古にあだ名がついている、というくだり。「ヒンデンブルグ」とは、当時のドイツの大統領のことと思われます。第1次世界大戦(1914~18年)でドイツは敗戦国となりますが、相手をさんざんに苦しめました。その時一躍英雄となったのがこのヒンデンブルク(Hindenburg)。実際は優秀な部下あっての活躍などとも言われていますが、ついには大統領の座に就くことになりました。第1次大戦でドイツと敵対関係にあった日本でもあだ名に使われるくらいですから、よほど英雄視されていたのでしょうか。

拡大(1)1929年10月29日付 東京朝日朝刊11面
拡大(2)1929年10月29日付 東京朝日夕刊2面 こちらが初報

 ここでヒンデンブル「ク」と表記しました。これは「朝日新聞の用語の手引」に沿っています。外国語の表記は微妙な音で表記に迷うことも多々あり、その都度ぶれては困るので、ある程度の基準を設けています。ドイツ語の語末の「burg」は「ブルク」と定めているので、そのように指摘しましょう。

 手引にそって「延ばす」→「伸ばす」、「生長」→「成長」と指摘します。浜口首相が「首相」と「さん」、好古が「校長」「将軍」「さん」と、敬称にバラツキがあるのも校閲としては気になりますが、軟らかめの記事ですのでここは目くじらを立てずそのままにしておきましょう。

 また、指摘ではないですが、言葉として現在と使い方が少し違って興味深いものがありました。好古が松山で「鳴かず飛ばず」で校長をしているとありますが、「将来の活躍にそなえて何もしないでじっと機会を待っているさま」(広辞苑)に近い意味でしょう。今では「飛躍できない」といったマイナスイメージで使われることがほとんどですよね。また最後の一文に「心地よげ」とあります。現在は「心地よさげ」が若者を中心に定着して辞書にも載っていますが、「よげ」の方が昔からの言い方です。

 浜口首相を襲おうとした男がいたという記述が3段目に出てきます。この記事のすぐ横にその事件の記事が載っていました。夕刊に初報も出たようです(別記事1、2)。襲う車を間違えたため無事でしたが、この1年後、浜口首相は実際に東京駅で銃撃され、その数カ月後に亡くなってしまいます。

拡大(3)1908年1月12日付 東京朝日朝刊3面 左が好古。少将時代
拡大(4)1913年1月15日付 東京朝日朝刊2面 真ん中が好古。中将時代

 それにしても、校庭でポーズを決める好古は鯨のような大きな目が穏やかで優しそうなおじいちゃんに見えます。

 陸軍大将にまでなった人が、校庭で一緒に遊んでくれたら、それは生徒たちも喜んで慕ったに違いありません。ドラマの豪快な好古とはだいぶ違った印象です。

 軍人時代の写真をいくつか探しましたが、やはり厳しい表情(別記事3、4)。

拡大(5)1915年7月18日付 東京朝日朝刊4面 連載「将軍の面影」で好古が登場
 中将時代のインタビュー記事もありましたので紹介しましょう(別記事5)。

 いきなり軍人に休暇などいらぬと厳しい意見。新聞記者も同じだろう?と、「三角型の巨眼」でにらみながら、耳の痛くなるような一言も。そして記者に杯をすすめます。酒好きで有名な好古らしいですね。将校に休暇の規則があることについて問うと、「規則は規則」と、これまたにらみ据えます。刺身にハエがとまっていてもお構いなし。記者もびくつきながらの取材だったに違いないと想像しました。

 ところが記者は、都合4度にらまれたにも関わらず、最後に「獰猛(どうもう)な然し心の優しい羅漢と話をしてきたやうな」気になったと締めています。インタビュー中でも、自分の苦労話がいつの間にか馬の苦労話に変わっていたり、お酌してもらうのを制したり。おっかないけど、人を引きつける人物だったように思えます。

拡大(6)1897年4月27日付 東京朝日朝刊3面 まだ中佐だった頃の好古の名が見える(後ろから3行目)
 もう一つ、好古の優しさをうかがい知ることができる記事がありました(別記事6)。東京・信濃町の駅で女性が列車にひかれて亡くなったことを報じていますが、この列車に「陸軍騎兵中佐秋山好古」ら3人の軍人が乗り合わせていました。3人は残された女性の子どもたちの貧しさを不憫(ふびん)に思い、お金を出し合ったとあります。

 このような人物だったからか、現役を退いた後、郷里松山から校長就任の打診が来たときも快く引き受けています。好古の死後しばらくして刊行された伝記「秋山好古」(秋山好古大将伝記刊行会、1936年、以下伝記)に、当時の北予中の関係者の記録にあった好古の返答が載っていました。

 「俺は中学の事は何にも知らんが、外に人がなければ校長の名前は出してもよい。日本人は少しく地位を得て退職すれば遊んで恩給で食ふことを考へる。それはいかん。俺でも役に立てば何でも奉公するよ」

 ここにも自分に厳しく他人を気遣う好古像が見てとれます。当初の要請は、当分のあいだ校長として名を貸し、たまに学校に遊びにくればよい、というものだったようですが、就任後、好古は約6年も、校長を勤めあげました。伝記によると、無遅刻無欠勤だったそうです。

 

 松山には校長時代の好古の逸話が多く残っているそうで、2006~08年に朝日新聞の愛媛版で歌人の片上雅仁さんが「晩年の秋山好古」として紹介しています(加筆修正されて「秋より高き 晩年の秋山好古と周辺のひとびと」〈アトラス出版、2008年〉という本になっています)。端然とした服装、時間厳守。不祥事があればすべて校長が責任をとり、教員が欠勤したときは自ら代講をしたそうです。 

 逆に生徒には優しく、「始終ニコニコ」で校内外を回り、怒った顔を見た者はなかったと伝記にあります。休日に生徒が家を訪れると喜んで家に上げ、日露戦争の話などを聞かせたそうですが、一方で学生の本分は勉学と主張し、軍事教練には消極的だったという話が残っています。

拡大(7)2010年1月6日付 朝日新聞名古屋版 好古の辞表が公開されることを伝える記事
 こんな魅力的な校長先生のいる学校、ぜひ学んでみたかったですね。陸軍大将から校長先生、突飛すぎる転身のように思えます。ただ好古からすれば昔取った杵柄(きねづか)という思いがあったのかもしれません。ドラマではほとんど端折られていましたが、元々好古は師範学校に入るべく松山から大阪に渡ったのでした。伝記や「坂の上の雲」の原作では大阪・堺県(現在の大阪府南部・東部と奈良県)の四十五番小学校、寝屋川市誌や四條畷市史では五十八番小学校に勤めたとしています。どちらが本当か色々調べてみましたが、分からずじまい。坂の上の雲ミュージアム(松山市)にも問い合わせてみましたが、決定打となる史料がないそうです。ただ大阪で一時期教員をしていたのはほぼ間違いなさそうで、大阪の師範学校卒業後は名古屋の千竈学校(現・名古屋市立白鳥小)で勤務。こちらは退職時の辞表が近年公開され、はっきりとその在職が分かって話題となりました(別記事7)。

拡大(8)1930年11月5日付 東京朝日朝刊7面 好古の訃報
 もともと教員を目指した好古が軍人になった本当の理由は分からないようですが、断ることもできた校長の話を快く受けたこと、熱心に生徒を指導したことを考えると、やはり教育に大きな関心があったのでしょう。自身は大阪に出るまで教育を受けられない期間があったようで、そのことも影響しているのかもしれません。この記事の半年後、高齢から校長を退任。そのわずか7カ月後、1930年の11月4日に数え72歳で亡くなります。朝日新聞も訃報(ふほう)を載せていますが(別記事8)、使っている顔写真は今回のこの優しい表情の写真と思われます。軍人として多大な功績を残した人物ですが、軍人時代の厳しい表情の写真よりも、人間味あふれる校長先生時代の写真を使った当時の編集者。いい判断だと個人的には思いますが、果たして天の好古さんはどう考えているか聞いてみたいところです。「写真などどうでも良い、しっかり働けよ」とにらまれてしまうかもしれませんが。

【現代風の記事にすると…】

浜口首相が飛び入り講演 秋山大将も参加 全国中学校長総会

 東京・麹町の府立一中で26日から開かれていた全国中学校長協会総会は、28日に最終日を迎えた。午後2時ごろには浜口雄幸首相が飛び入りで演壇に登場、国策問題で雄弁をふるった。首相の登壇は予定外だった。実は一中の川田正澂校長が、首相の学生時代(京都・第三高等中、現・三高)の先生で、2人は師弟の間柄にあり、首相は川田校長の要請を快く引き受け、急きょ壇上に立ったという。

 困難な財政の説明から始め、続いて思想問題に言及した。「教育の目的が人格の完成にあるとするならば、現代の教育は知育や技能教育に走り徳育が軽視される傾向がある。最近大学・専門学校などの学生の間には『邪悪な思想』がはやり、彼らは今や純粋な中学生に誘惑の魔の手を伸ばそうとしている。これはひとごとではない、皆さん方の問題である……」。中学生を「邪悪な思想」に触れさせまいと、声を張り上げてのかなり思い切った大訓戒だった。

 約30分で首相は帰ったが、その後に首相襲撃が伝えられ、未遂だったことが分かると、参加者は口々に首相の幸運を祝福した。

 今総会に出席した500人の校長の中で「ヒンデンブルク将軍」とあだ名されて注目の的となっていたのは、北予中(松山市)の秋山校長。往年の勇将・秋山好古大将その人だ。

 秋山さんが松山に戻ってその余生を郷里の青年教育に捧げる決心をし、私立北予中の校長となったのは今から6年前。それ以来、ふるさとにずっととどまり一身を投げ出して教育に尽力し、大きな信望を集めているという。

 秋山さんは今回の会議でも元気いっぱい。若い校長たちと議論も闘わし、また昼食の前後などには一中の校庭に出て、学生たちと一緒に遊んだ。ミスしたボールをポンと投げ返すと行きすぎてしまうといった調子で、わずか3日のうちに一中生の尊敬の的となった。秋山さんは「若い学生のあの純真さが尊い。そのまま成長させなければ。私の学校にも千人ほどの学生がいるんですよ」と爽やかな笑顔で話した。

広瀬集

当時の記事について

原文どおりに表記することを原則としますが、読みやすさの観点から

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