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昔の新聞点検隊

逆襲の清盛! 祭りも雨も呼ぶ男

森 ちさと

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【当時の記事】

回り舞台(5)平清盛 “様づけ”で呼ぶ宮島町 770年祭に空前の人出

○…安芸の厳島神社は日本三景の一、平清盛が信仰したお宮である。このお宮は官幣中社より出世出来なかった。神社側ではなんとかして官幣大社にと、戦前内務省にお百度をふんだが、常にナシのつぶて。理由は明白である。「悪逆無道、天皇をはばからず、おそれ多くも後白河法皇をおしこめ奉った平清盛ごときが信仰した神社の分際で―」清盛も自分の悪名が厳島神社にまでたたるとは思わなかっただろうが、子重盛にくらべて、父は世の憎まれ者、墓さえもどこにあるかわからない始末。

○…ところが時代は一転した。宮島町でこの三月七百七十年の命日を中心に清盛祭をやったところ十万を越す観光客が集り一カ月にわたって町は大にぎわい。「天罰が当って、えたいの知れぬ高熱で狂い死にした」はずの清盛の命日が大祝いされ、以来清盛には「様」がつくという大変なモテ方。「戦後いち早くこの祭をやろうといったら、あいつはアカだといわれましたな」田島権宮司はいう「建物全体が国宝に指定されているこのお社からして当時安芸守であった三十六歳の清盛様が大改修してつくりあげたものです。交通の要路、豊富な産物、瀬戸内海を握ろうとした識見の高さは…」神主さん、時を得顔の弁舌だ。

○…宝物館には平家一門の繁栄を祈った納経三十三巻、中に清盛の自筆もある。「はしなくも清盛その人に会ったような気がする。この筆蹟からは小学校の歴史で観念づけられて来た清盛とはおよそ人違いしそうな優雅な書風…」昨年ここを訪れた吉川英治氏がこういったとかで神社ではオニの首でもとったよう。ここらで一もうけと宮島観光協会では大鳥居に照明をあてて夜の海に浮び上がらせるやら、シカを呼び集めるやら“清盛ブーム”はにわかに活気づいた。なにし負う宮島は清盛の心のふるさと、そのかみ平家の公達がみやびた管弦船に都から幾夜の波まくら。ただしそのナギサはいまは色とりどりの原色調の女たちが、公達ならぬ英連邦兵とごていねいな国際風景をくりひろげている。

○…清盛が厳島参拝の近道を求めて切り開いたという音戸の瀬戸は呉からバスで二十分、いま運輸省の手で改良工事中だが技師の一人が「清盛が掘ったというのはウソらしい」といったのが新聞に出たとあって、音戸町の町議、有力者が押しかけてひともんちゃく起った。ここでもこの春は「清盛祭」をやって前代未聞の人出。ところが今年は名産“瀬戸いりこ”が大漁だったので「ソレ清盛様のおかげ」という。干すときに雨が多くて困ったそうだが「久しぶりのお祭りで、清盛様のうれし涙じゃろう」と来た。

○…神戸市でも「兵庫開港の恩人」とインネンをつけて市主催で清盛供養をやった。放送局でもすかさず、壮年清盛の瀬戸内海航路開発をテーマにした新作歌劇「音戸の瀬戸」を電波にのせる。―この“清盛熱”を京大名誉教授西田直二郎博士に診断をこうと「変転極りない平安末期と現代の世相が似ているし、彼のエネルギッシュなところが国民感情にマッチするのだろう」とのことだった。

(1952〈昭和27〉年11月23日付 東京本社版 朝刊7面)

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【解説】

 2012年のNHKの大河ドラマは「平清盛」。清盛が主役となるのは、1972年に「新・平家物語」で仲代達矢が演じて以来で、「源平」がテーマの大河は50年間で5作目。平家物語があまりにも有名なために、オリジナルの話作りは難しそうですが、その分、期待も高まります。

 さてその清盛を今回取り上げます。戦後の復興期に広島県・宮島であった祭りの記事です。

拡大厳島神社のある宮島の遠景。右半分が観音様が寝ているように見えると言われる「寝観音」。お顔の部分だけですみません……
 平清盛と聞いて、どんなイメージが浮かびますか。清盛は1118~1181年の平安時代末期に生きた人物で、武士ながら太政大臣に上りつめました。源氏や後白河法皇との対立、福原遷都、奈良・東大寺の大仏が焼失してしまうきっかけを作ったり、寵愛した白拍子を別の子が気に入ったといって簡単に放り出したり。最後はなぞの熱病で死去しました。このあたりがよく知られた話でしょうか。

 いまでこそ、鎌倉時代以降の武家政権や対外貿易の基礎を築いたことなどで、教科書や事典で評価されています。それでも清盛に好印象を持つ人は少数派でしょう。清盛と言えば悪役というイメージは、平家物語をはじめとする数々の文芸作品で描かれてきた姿が、大きく影響しているようです。源義経の人気の高さと反比例しているような感じです。

 さらに、明治から終戦までの修身書や小学校の教科書では、清盛の息子・重盛との説話で「よくできた息子とダメな父親」と解説され、子どもに教え込まれていました(この部分はあとで改めて解説します)。今回の記事が少し驚いてしまうくらい清盛を悪役として強調して、かなりシニカルな内容になっているのは、こんな背景があったからです。

 

 まず校閲作業をしていきましょう。1段落目の最後に「墓さえもどこにあるかわからない始末」とあります。たしかに分かりません。ですが、ここはまるごと削除してもらいましょう。

 平安時代の有力な貴族や武士で現在本物の墓が分からない人は珍しくありません。葬儀を行ったり墓標をたてたりする習慣はすでにあったようですが、お骨(土葬なら遺体)を納めた場所が分からなくなることはしょっちゅうでした。少し時代はさかのぼりますが、藤原道長の兄で関白だった道隆の墓は一族の大きな墓園のような場所の一角にたてられました。しかし息子の代ですでに、どれが道隆のものか分からなくなっていたそうです。

 たとえば、清盛の長男で品行方正なイメージの重盛や、清盛の天敵・源頼朝はどうでしょう。ふたりとも墓や供養塔はあります。しかし重盛の墓は本物かどうか定かではありません。頼朝の墓の場所は大体定まっているようですが、仏式の墓と神社にまつられたものと形態が二つあったようです。なお現在の墓は当時のものではなく18世紀に作り直されています。

 頼朝の弟で西国の戦いで活躍した範頼は、最終的に身の処し方をあやまって伊豆に流され、殺害されたとも自害したとも言われています。そのため墓は伊豆や三浦半島などとする記録がありますが、江戸時代の歴史書で信用できないと書かれるものがあるほど信憑(しんぴょう)性がありません。源義経にいたっては、亡くなった奥州以外に「首塚」として伝えられている場所もありますし、衣川では死ななかったという説もあるほか、中国大陸に渡ったという説まであるのですから、どうなっているのかまったく分かりません。

 真偽はともかく、後世の人々がその人柄をしのんだり功績をたたえたりするため、またはたたりをおそれて、墓や石塔、寺を建てることはよくありました。清盛も、京都や神戸、下関などに供養塔や塚があります。墓がはっきり分からないが、供養塔はある。状況は似ているのに清盛がこんな風に書かれてしまうのは、やはりイメージが良くないためでしょうか。

 

 次は2段落目。「あいつはアカだと言われた」とあります。この「アカ」は共産主義者を意味しています。現在の紙面で使われることはありません。

 さらに、厳島神社を「当時安芸守であった三十六歳の清盛様が大改修」した、という部分。清盛が36歳のとき、安芸守だったのはたしかで、その頃から縁があったようです。しかし厳島神社の大改修は1164年前後に始まったとされ、1168年11月に完了しています。つまり完了時に清盛は50歳くらいで、太政大臣を辞めて出家しています。1168年の大改修以外を指しているのかどうか、確認する必要がありそうです。

 続いて、3段落目の終わりにある「色とりどりの原色調の女たちが、公達(きんだち)ならぬ英連邦兵とごていねいな国際風景をくりひろげている」という表現です。終戦後、広島には英国軍が駐留していました。そして英国兵の客引きをしている女性が多くいたことを表しているものと思われます。「ごていねいな」と揶揄(やゆ)してよいものではありません。英国軍との公式な交流行事もあったかもしれませんから、そのことを書くか、削除してもらうかのどちらかにしてもらいます。

 

 さて、この記事は終戦からそれほど年数が過ぎていない頃で、いまでは、すぐに分からない事柄が登場します。

 まずは「官幣中社(かんぺいちゅうしゃ)」「官幣大社」。神社の格をあらわす言葉です。古代から神社を格付けする制度があり、1871(明治4)年に少し改められ、1946(昭和21)年に廃止されました。官幣(皇室と関わりが深く、神祇〈じんぎ〉官や宮内省が奉幣=神に供物を捧げること)と国幣(地方官が奉幣)に分けられ、明治の制度ではそれぞれ大中小の等級がありました。官幣大社の格式が最上位で、上賀茂神社や下鴨神社(ともに京都)、出雲大社(島根)など、今でもメジャーな名前が連なります。社格制度はこの記事のわずか6年前まで1100年以上続いていたことになりますから、当時は説明する必要はなかったのでしょう。

 

 中社から大社への昇格が悲願だったという部分も、戦前・戦中の国の体制を考えれば不思議はありません。さらに清盛が生きていた頃からの因縁があるようです。

拡大宮島の鹿たち
 平安時代、官幣・国幣の区別の他にも、主に畿内の神社から選ばれた「二十二社」という制度がありました。世の中に何か異変があった時、朝廷から特別に奉幣を受ける神社です。清盛はこれに厳島神社を加えようとしますが、他の有力神社の反対で頓挫してしまいます。近世になって二十二社制はすたれていきますが、「社格をあげる」ことは厳島神社にとってのこだわりだったのかもしれません。

 本文にある「お百度」を踏んだかどうかは、神社では「分からない」そうですが、明治の改定で国幣中社とされ、1911(明治44)年5月13日に官幣中社に昇格しています。さらに大社昇格を目指していてもおかしくはないですし、日清・日露戦争のころ軍艦に「厳島」と名付けられたり、第2次大戦中多くの軍人や皇族が戦勝祈願に訪れたりしていることなどからも、大社昇格を「間に合わなかった」とする神社の説明もなるほど、とうなずけます。

 

 そんな悲願が達成されないのは「子重盛にくらべて、父は世の憎まれ者」だったから、としています。しかし、本当に重盛はよい子どもで、清盛はダメ親父(おやじ)だったのでしょうか。次回(10日公開予定)はその実像を追います。

(画像には主な直しだけ朱を書き入れています。現在の朝日新聞の表記基準で認めていない漢字の音訓や、当時は入れていなかった句点を入れる等については、原則として記入を省いています)

 

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【現代風の記事にすると…】

清盛祭で空前の人出 宮島町

 広島県の厳島神社は日本三景のひとつ。平清盛が信仰したお宮だ。このお宮は官幣中社より上に出世できなかった。神社側は「なんとか官幣大社」に、と戦前に内務省へお百度を踏んだが、いつも返事がない。お役所側の理由は「悪逆無道、天皇をはばからず、恐れ多くも後白河法皇を幽閉した平清盛ごときが信仰した神社の分際で――」。実像は懐が深く、先見の明もあったという清盛だが、どうしても悪役のイメージがつきまとう。こと戦前の体制を考えれば仕方のないことかもしれない。

 しかし時代は変わった。同県宮島町でこの3月、770年目の命日を中心に清盛祭を開いたところ、10万人を超す観光客が集まり1カ月にわたって大にぎわいだった。「原因不明の高熱で死んだのは天罰だ」などと言われてきた清盛の命日が大いに祝われたのだ。

 「戦後いち早くこの祭りをやろうといったら、あいつは共産主義者だと言われましたな」と厳島神社の田島権宮司は言う。「建物全体が国宝に指定されているこのお社からして、清盛様が大改修してつくりあげたものです。交通の要路、豊富な産物。瀬戸内海を握ろうとした識見の高さは……」と時を得て弁舌も滑らかだ。

 宝物館には平家一門の繁栄を祈った納経33巻があり、中には清盛の自筆もある。「思いがけず清盛その人に会ったような気がする。この筆跡からは小学校の歴史で観念づけられてきた清盛とはおよそ人違いしそうな優雅な書風……」。昨年ここを訪れた吉川英治氏がこう述べたところ、「清盛様」のよさを認められた神社は大喜び。宮島観光協会でも大鳥居に照明を当てて夜の海に浮かびあがらせたり、鹿を呼び集めたりして、「清盛ブーム」を盛り上げた。

 清盛が厳島参拝の近道を求めて切り開いたという音戸の瀬戸は、呉駅(同県呉市)からバスで20分。運輸省による改良工事中だが、技師の一人の「清盛が掘ったというのはウソらしい」という発言が新聞に出たため、同県音戸町の町議や有力者が押しかけるという一騒動があった。ここでもこの春に「清盛祭」を開くと前代未聞の人出。名産の「瀬戸いりこ」が今年は大漁だったのも「清盛様のおかげ」だそうで、いりこを干す時期に雨が多くて困ったときさえ「久しぶりのお祭りで、清盛様のうれし涙じゃろう」。

 神戸市も「兵庫開港の恩人」という縁から、市主催で清盛供養をやった。放送局は、すかさず、壮年期の清盛が進めた瀬戸内海航路開発をテーマにした新作歌劇「音戸の瀬戸」を電波にのせる。この「清盛熱」を西田直二郎・京大名誉教授は「変転きわまりない平安末期と現代の世相が似ているし、彼のエネルギッシュなところが国民感情にマッチするのだろう」と解説する。

(森ちさと)

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当時の記事について

原文どおりに表記することを原則としますが、読みやすさの観点から

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  • 当時大文字の「ゃ」「ゅ」「っ」等の拗音(ようおん)、促音は小文字に

等の手を加えています。ご了承ください