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昔の新聞点検隊

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【解説】

拡大宮島でのんびり寝そべる鹿=広島県廿日市市
 前回紹介した通り、いまでこそ清盛は冷静に評価され、2005年の大河ドラマ「義経」のように、悪役とはまったく違う清盛像が描かれることもあります。それでも清盛の好感度が上がらない理由の一つに、終戦までの修身書や教科書があげられます。

 記事中の吉川英治のコメントのように、全国の子どもたちは、清盛がいかにだめな父親だったか、重盛がいかに立派な息子だったか、教えこまれていました。

 たとえば1882(明治15)年成立の「幼学綱要」(明治天皇の勅命によりつくられた児童向けの教訓書)の「孝行」という項目で、重盛と清盛の説話が扱われています。1177(治承元)年、平家討伐の陰謀として鹿ケ谷事件が起き、後白河法皇を幽閉するために清盛は出兵しようとします。そこに重盛が現れ出兵を止めようとして、「忠ナラムコトヲ欲スレバ孝ナラズ、孝ナラムコトヲ欲スレバ忠ナラズ」という有名なセリフが登場します。君主への「忠」と父への「孝」とにはさまれた悲劇として知られたエピソードです。

 他にも「まず私の首をはねてから出兵してください」というような重盛の苦しみのセリフがちりばめられ、清盛は完全な悪役。子どもがわかりやすいように、正義と悪の単純な構図になっていたのでしょう。

 ちなみに、幼学綱要のあとに登場する国定教科書では、重盛の葛藤の部分が時を経るごとに削られていき、単なる英雄扱いになっていきます。最終的には、天皇を守るためにたとえ父を討伐することになっても、それは不孝ではなく、重盛の葛藤はまだ忠孝を理解していないため、と教育勅語の解説書で書かれるようになります。何よりも国家が優先される、という教育になっていくのです。

 文芸作品と教科書だけでなく、鎌倉以降の各政権やそれに近い立場の人物が編集した歴史書も、悪役として扱ってきました。源平の争いの勝利者である頼朝がつくった鎌倉幕府。源氏将軍家を「正当に継承している」と主張した室町幕府と江戸時代の徳川一族。かつて清盛がないがしろにしたとされる天皇が王政復古の大号令を発した後に始まった明治政府。切れ目なく、清盛を悪役に仕立てる必要がある状態が続きました。

 かつての勝者が残したものを、時の勝者が都合良く利用し続けた結果、「清盛=悪」として広く定着し、これを受けて作られた数々の文芸作品も勝者の遺産として引き継がれていきました。

 さて、実像はどうだったのでしょう。

拡大広報みやじま11号の絵。清盛の悪行の一つとして白拍子・祇王を捨てた話が有名な中、白拍子の絵を使用していることが、新しい清盛像への関係者の意気込みを表しているように見える
 明治後半から、従来の清盛像に疑問を呈する学者はいたようですが、やはり一般に定着したイメージと、終戦までの国家第一主義の下ではいかんともしがたかったようです。現在では、清盛は不要な争いを嫌いバランス感覚にすぐれた人物だったことや、敵対した者も許す懐の深さがあったとする鎌倉時代の歴史書も確認されています。晩年の後白河院幽閉など強引な手段に出たことは事実ですが、基本的には気配り上手で、先見の明のある合理主義者だったと言えます。

 一方の重盛。たしかに、武人でありながら温和で気配りのできる人物であると評価する同時代の文書は多くあります。しかし、平家物語で「平家の悪行のはじめ」と言われ、清盛の謀略とされた「殿下乗合事件」(重盛の息子・資盛が乗った車と、時の摂政の車が路上で出会い、非礼があったとして摂政の従者が資盛の車を破壊。摂政一行は後に武者たちに待ち伏せされ、暴行された事件)は、実は重盛の指示だったことが、現在では認められています。それも、摂政側から何度も謝罪され、関係者の処罰も行われたのに、3カ月もたってから報復するというねちっこさ。

 また、海の向こうに国の活路を見いだした、先進的で現実的な父と比べると、国や王朝の枠にしばられた重盛を頭がかたいと見ることもできます。また父と法皇に挟まれた立場や政争による近親者の没落で自らの政治的限界を感じており、厭世(えんせい)的だったとも言えます。幼学綱要で取り上げられた話も、そのようなやりとりが実際にあったとしても、それだけで清盛が出兵をとりやめたとは考えにくいという疑問も出されています。こうして見ると、「ダメ親父と優等生」という構図はかなり偏っているということになります。

 記事にある清盛の優雅な筆跡に驚いた吉川英治はこの数年後、「やはり歴史は『勝者が敗者を書いた制裁の記録である』と。そしてそれを書き正すのが文芸の一つの仕事であろう」と述べています。今後、どのような清盛像が描かれていくのか、約1千年分のリベンジは始まったばかりです。

 ここまでいろいろと解説してみましたが、記事で根本的なことを1点。厳島神社の権宮司さんや音戸町(現・呉市)の人々の発言から「突然『様』をつけるようになった」としていますが、もともと宮島・厳島神社や音戸町民にとって清盛は特別な人物です。一般的に清盛の評判がとても悪かったとはいえ、この辺りで清盛の「モテ方」は本当に突然のことだったのでしょうか? 調べてみたところ、興味深い事実がわかりました。

 厳島神社は明治時代からずっと修築が続いており、それが終わった1919(大正8)年8月、様々な分野の専門家を招いて「厳島記念講演」を開きました。のちに実証主義的研究を推進したことで有名になる歴史学者の辻善之助も若くして名を連ね、「清盛論」と題して話しています。その内容は、現在の清盛像と大きくは変わりません。平家物語などで語られている清盛像には偏りがあるので、再評価しなければならない、としています。

 宮島でも国定教科書による教育が行われ、清盛に縁のある地でも多くの人は「いい子の重盛と非道な清盛」というイメージを事実としてとらえています。しかし、この記念講演を聞いた人が神社関係者ばかりだったとしても、講演会に出席できたり、学術的な論考を読めたりした人は、戦後の再評価が始まるかなり前に、新しい清盛像を知ることができました。

拡大広報みやじま11号(1952年4月10日)の記事「清盛公と宮島」。清盛公奉賛会の結成理由も再録されている
 そうなると、記事で田島権宮司が清盛について力説している姿は、神社を大きくしてくれた人物にスポットが当たったという単純な喜びではなく、史実を知りながら国の体制ゆえに清盛の悪評に異を唱えられずにきた苦渋をあらわしている……と考えるのは深読みでしょうか。

 770年祭当時の宮島町(現・廿日市市)が発行した「広報みやじま」は、祭りの予告編(第10号〈1952年3月10日〉)と報告(第11号〈同4月10日〉)を大々的に掲載しています。メーンイベントの清盛祭は命日である3月20日ですが、祭全体は15~31日と2週間以上続きます。主催者は厳島神社と宮島観光協会、そして「清盛公奉賛会」です。

 奉賛会の結成理由は「清盛公の名は直(ただち)に悪逆無道を連想するのが今日迄の歴史で有ったが勝者が描く敗者の歴史には自ら故意の歪曲もあろう。(中略)我々はこの歪められた一面を正し、一大文化人で有った清盛公を再認識すると共に、清盛公の遺業によって生息する宮島町が、産みの祖に対する報恩感謝の至誠を捧げんが為」(第10号)となっています。

 他にも第10号では、神社に伝わる文化財やさまざまな逸話を紹介し、「盛り上げよう清盛祭―町民の熱意に期待―」という見出しをつけています。

拡大広報みやじま11号に載っていた清盛祭の行事一覧

 これらから読み取れるのは、清盛の実像について宮島町はかなりの先進地域であり、そんな宮島町でさえ広報紙で大きく呼びかけなければならないほど、長年にわたって染みこんだ悪いイメージがあったということでしょう。

 市民レベルでずっと熱が高かったわけではないけれど、宮島町での「モテ方」も突然ではなかった、という中途半端な結論になりそうです。記者にとってびっくりすることでも、そこに住む人にとってはそうでもないかもしれない。今回の「様づけ」記事の執筆者は、もしかして宮島町の状況を知りながらも意図的に面白がりすぎたのかもしれません。

 770年祭はその後「清盛祭り」として、1996~2004年の財政難による中断はあったものの、それ以外は毎年の清盛の命日にあわせて開かれます。第4段落に登場する音戸の「清盛祭」も、数十年間の中断をはさんで、今は復活しています。こちらは5年に1度で、来年がそのお祭りの年。まるで大河ドラマを予期していたかのようですね。これもまた「清盛様」のおかげでしょうか。

(森ちさと)

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当時の記事について

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