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昔の新聞点検隊

今はAKB でも昭和の私はSSK

広瀬 集

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【当時の記事】

明朗なるかな レヴューの楽園
憂愁たちどころに退散     永見徳太郎

 流行の浪に乗って、躍動してゐるものにレヴューがあって、いろんな話の種を投げかけて居る。津阪オリヱにいきなり抱きつき、キスした若奥様の出現なんどといふ興奮に輪をかけた問題が突発する。だから世の道学者甚だしく顰蹙の顔面表情になる。レヴュー愛好者なる者ブロマイドで辛抱すべしだ。

 女学校庭で「ヅカ党は、ヤニお上品ぶってすましてるわネ。」「SSKは声援がウルサイ、野人ヨ。」ヅカと呼ばれる宝塚党と松竹組も、頼まれもしないのに、物すごい御贔屓ぶり「アンナ人達とダンゼン遊ばないワ。」である。だから有害無益と学校当局より厳しい御達し、保護者と同伴に限るなんて。

 「水之江滝子は、赤チャンより大切だワ、子供は生れるんだけど、梅子様(彼女の本名)は、再びお生れにならないんですもの。」こんな●●行きみたいのは如何かと思ふが「タアキーって、毛唐ぢゃないのかい。」「まあお父様!世間から笑はれてヨ。」その父君、一度視察して「陽気で美しいナ。」スッカリ魅力をうけ、今では立派な信者

 学校で礼儀作法学問を詰めこまれる娘サン達には、時には息抜きに、明朗な雰囲気に浸らせてやるのも人生学に大切な勉強ぢゃあるまいか。何も学校教育のみが、人間学では無いんだもの。娘ッ児必ずしも、何時迄も箱入ではない。やがて家庭の主婦になる候補者だ。新味と古典の両道を、指導者たる人、忘れてはダメである。

 私もレヴュウ好きの一人である。台詞、歌詞、衣裳、装置、照明そして観客の若人の中に交ることは、中老の身に清新な注射をうけたやうな、素晴らしい喜びを味ふのである。小夜福子、蘆原邦子だのと云ふ私語を耳にしたり、お友達同士で抓り合ったりするに気付いて微笑することも度々である。私は無理に誰と定めた好きな舞姫はゐない。ただ漫然と豪華な場面を眺めると、心の憂さが解消してしまふ。酒ばかりがそれ捨てどころぢゃないんだ。私に女学校通ひの娘が居たら「何故行かない」とすすめるかも知れない。よく「誰がお好きでゐらっしゃいます?」なんて、つつましやかにお尋ねになるマダムがある。「タアキーですネ。」とお答へする。これは誰にでも説明する面倒がなく、彼女の出現はスグ分る。見込有りとしてゐた一人がゐたのであるが百何十人もの人魚が踊るときは探すのにウンザリした、彼女は近代明朗性を十分にピチピチさせてるのがいい。夢にも色恋ぢゃ御座んせぬ。

 (中略)

 男装は怪しからぬの説も盛んださうだとすれば歌舞伎の女形の存在はどうなるのか。女性だけが異性の服装で攻撃されるのは片手落だ。古い時代に男装が皆無だったとは言ひ得ないぢゃないか。

 学生がサボって迄夢中になるのは、いけないが、学校と家庭の窮屈な生活で、溜息のみつかせておくより、気分転換の意味に於て差支はないだらう。昼夜七十回興行に五十回も行くなどは慎まねばならぬ。(後略)

(1936〈昭和11〉年7月3日付 東京朝日夕刊4面)

【解説】

 高い人気を誇るAKB48。今やSKE、NMBといった地方都市の姉妹グループも誕生し、秋葉原から生まれたアイドルがいまや全国に、そして最近は海外へも活躍の場を広げています。この人気にあやかろうと、あらゆるところで「アルファベット3文字(+数字)」の名称が出現。さすがに自殺防止対策の標語にまで使われそうになったのは行き過ぎ感があったものの、その影響力の大きさがうかがえます。

 そんな「アルファベット3文字」、本紙の人気コラム・天野祐吉さんの「CM天気図」内にこんな一節がありました。AKBが分かるかと学生に問われた天野さんは「AKBくらい知ってらあ」と憤慨し、「それだけじゃない、SKDとかOSKとか、昔からそういうのはいっぱいあったんだ」と続けています(2011年10月5日付)。

 SKDは「松竹歌劇団」、OSKは「大阪松竹歌劇団」のこと。これに発想を得て探したのが今回の記事(コラム)でした。本文2段落目にある「SSK」はSKDの前身、「松竹少女歌劇」。このSSKと、おなじみ宝塚(当時は宝塚少女歌劇団、すでに「ヅカ」という略称が使われているのも興味深いですね)がこの昭和初期、学生を中心に人気を博している様子が読み取れます。現代のアイドルも熱烈ファンがいますが、昔も状況はそう変わらないようですね。

 このコラムの筆者、永見徳太郎(1890~1950)は高名な美術研究家、作家。当時すでに40代ですが、今と変わらぬファン心理が見え隠れし、大変面白いです。とても寛容ですね。

 軽妙な文章ですし、社外の筆者ですので問い合わせは最小限にしたいところですが、現代では使わない用語があるのでそれだけは指摘しましょう。まず「●●行き」という表現。「●●」には、精神病院名が記されていました。行き過ぎた発言、一風変わった発言は精神的な病気の患者がするもの、という無理解、侮蔑(ぶべつ)の意識が感じられます。これは削除しましょう。

 「毛唐」も単に「外国人」でいいでしょう。古くから外国人を卑しめる時に使われた言葉です。

 「片手落ち」は「片方に対する配慮が欠けていること」(大辞林)と辞書にありますが、まさに障害等で片手が不自由な人たちに対して配慮の無い言葉。朝日新聞では使わないようにしています。

 表記ですが、コメントが「……。」の形になっています。現在の新聞では閉じるかぎかっこ(」)の直前に、句点(。)を入れることはありません。

 指摘はこの辺りで切り上げましょう。「レビュー」は、元々はフランス語に由来。時代風刺劇のことだったようですが、歌・踊り・寸劇などを織り交ぜた豪華なショーに発展していき、20世紀初頭は各国で盛んでした。

拡大別記事1 1928年9月9日付 東京朝日夕刊3面 浅草松竹座の広告。左側に楽劇部の募集がある
 レビューを上演する歌劇団と、今のアイドルたちの活動はもちろん性格が違い、簡単に比較できません。しかしファンには相通ずるものがあるようです。ファン間で批判合戦が起きることもあれば、子どもにつられて親もファンになる話もよく耳にします。熱をあげる子に「写真だけで我慢しろ」と諭す大人も容易に想像がつきますね。中年と呼ばれる年になっても熱心に応援する人たちも大勢います。

拡大オリヱ津阪さん
 また永見氏は特に一押しのメンバーはいない、全体の豪華さが良いのだ、と説明しています。人に「誰のファン?」と聞かれたら、「説明する面倒」がない有名どころを挙げることにしているようです。本当はAKB48全体が好きだけど、「あっちゃん」(前田敦子さん、25日に「卒業」が発表されました)と言っておけば話が通じやすい。現代ならこんなイメージでしょうか。こういう経験、ファンなら一度はありませんか?

 永見氏の場合、有名どころとして挙げたのは「ターキー」こと水の江滝子さんでした。「男装の麗人」と呼ばれたSSKの大スターです。面倒回避と言いながら「近代的な明朗性をピチピチさせていて……」と熱く語り始めかねない雰囲気。そして「恋愛感情ではないんだよ」の言い訳?は現代でもお決まりですね。他にも数人の名が見えます。「津阪オリヱ」は水の江さんと共にSSKの男役で活躍したオリヱ津阪さん。小夜福子さん、蘆原邦子さんはいずれも宝塚の男役トップスター。宝塚もSSKも、両方見に行っていたのでしょうね。

拡大別記事2 1932年9月25日付 東京朝日朝刊5面 レビューはラジオでも放送された。写真上が水の江さん
 宝塚はAstandでも好評の「スターファイル」がありますので、今回はSSKにスポットを当てましょう。

 宝塚の発足に遅れること約10年、1922(大正11)年に松竹は大阪で楽劇部を発足します。次第に人気を博し、東京にも楽劇部を作ることに(1928〈昭和3〉年)。これがSSKの前身です。当時の募集広告らしきものを見つけました(別記事1)。水の江さんら初期メンバーの初舞台は同年の12月、大阪楽劇部の応援出演だったといいます。

 その後、浅草松竹座をメーンの劇場にして少しずつ人気を伸ばしていった東京楽劇部。1930、31年ごろになると、水の江さんが髪を短く刈って舞台に登場。当時すでに宝塚では「男役」があったようですが、短髪にしたのは水の江さんが初でした。「ターキー」の愛称とともに、人気はうなぎのぼりで、少し経つと紙面にも写真入りでよく登場するようになります(別記事2)。確かに、今見てもまごうことなき「麗人」ですね。

拡大別記事3 1933年7月1日付 東京朝日朝刊11面 労働組合系主催の会合で水の江委員長が登壇し、演説したことを報じる紙面。「私達はどこまでも戦うつもりです」
 楽劇部の規模も拡張され30年10月には松組、竹組を編成。31年には北海道へ初の地方巡演も行われました。もちろん、人気上昇の裏には、メンバーの苦難も多々あったでしょう。水の江さんの自伝には「スターの時は、とにかく忙しいなんてもんじゃなかった。(中略)舞台が終わったあと夜中に稽古して、一日休んで初日(中略)。おまけに昔は舞台が毎日二回あって、休みなんてなかった」(「水の江瀧子 ひまわり婆っちゃま」日本図書センター、2004年)。

 スターに個々に後援会ができるほどの人気になってきた東京の楽劇部。32年10月ごろ、松竹少女歌劇部(SSK)と改称。そのすぐ後に、世間を騒がせた「レビュー争議」が起きます。33年6月、レビューで生演奏する楽団員らの待遇改善要求争議に、SSKのメンバーも参加するという事件です。

 争議委員長に担ぎ上げられたのは、トップスターの水の江さん(別記事3)。といってもまだわずか18歳です。少女たちに何が出来るかと世の好奇の目を集め、茶化し気味に「桃色争議」などとも書かれていますが、当の本人たちは真剣。後援会や保護者も巻き込み、また労働運動関係者らの介入・指導もあって、本格的な争議になりました。

拡大小倉みね子さん
 SSK側は最低賃金制の導入や楽屋清潔化などを訴えてストライキに出ます。会社側は解雇をふりかざしつつ、SSKを解散して要求の多くを採り入れた新しい楽劇団を作ると発表し、切り崩しにかかります。社外の人々の介入を嫌うなどした小倉みね子さん(娘役スター)らがそれに応じて会社と和解すると、マスコミは「おわびガール」などと名付け、徹底抗戦の水の江委員長らを「がんばりガール」と、これまた茶化し気味(別記事4)。どちらも必死に考えた末の決断だったでしょうに、これは失礼な書きぶりです。今なら即刻、校閲から指摘をするところです。

拡大別記事4 1933年7月29日付 東京朝日夕刊2面 すでに争議が妥結した後の「仲直り」の記事だが、「おわびガール」「頑張りガール」の字が見える

 7月に入ると水の江委員長も会社からクビを突きつけられますが、神奈川県の湯河原などに立てこもってさらに抵抗。争議資金はサイン入りブロマイドを売って捻出したとか。一時は警察に連行される事態にまで発展しますが、発生から約1カ月、会社側との再三の交渉を経て、ようやく妥結。最後の3日はほぼ徹夜で話し詰めだったようで、肩の荷が下りた水の江さんの様子が「うれしいよ眠いよ!」と記事になっていました。

 争議後しばらく謹慎していた水の江さんですが、やはりトップスターがいないとお客も来ない。ほどなく呼び戻され、また活躍を続けます。運動会で足をくじいて入院しただけで写真入りで記事になるような人気っぷりでした(別記事5)。今回のメーン記事もこの頃に書かれたものです。

拡大別記事5 1936年12月4日付 東京朝日朝刊10面 運動会で負ったケガで入院していた水の江さんの退院時に、ファンやら関係者やらでごったがえしている写真
拡大別記事6 1938年11月27日付 東京朝日夕刊3面 軍の慰問でSSKの一行が北京に着いたことを報じる記事 

 しかし日中戦争の頃になると、戦地の慰問に向かうSSKメンバーの記事が見られます(別記事6)。日本の暗い時代の中で輝きをくれた歌劇団を、戦地にまで派遣することになってしまったということに、心が痛みますね。

 戦後、SSKはSKDと改称して再出発。長く親しまれていましたが娯楽の多様化の波におされ、惜しまれながら1996(平成8)年に解散しました。一方の大阪の松竹歌劇は戦中の1943(昭和18)年にOSKと改称。その後も幾度かの改称・所属変更がありましたが、現在「OSK日本歌劇団」として、当時の伝統を受け継ぎながら公演を続けています。

(画像には主な直しだけ朱を書き入れています。現在の朝日新聞の表記基準で認めていない漢字の音訓や、当時は入れていなかった句点を入れる等については、原則として記入を省いています)

【現代風の記事にすると…】

明朗なるかな レビューの楽園 憂愁、たちどころに退散

永見徳太郎

 流行に乗って、躍動しているものにレビューがあり、いろんな話の種を投げかけている。オリヱ津阪にいきなり抱きついてキスした若奥様の出現、などという興奮に輪をかけた問題が起きたりもする。だから世の道徳家は甚だしく不快らしい。「レビュー愛好者なる者、ブロマイドで辛抱すべし」と。

 女学校の校庭で「ヅカ党は、いやにお上品ぶってすましてるわネ」「SSKは声援がウルサイ、野人ヨ」。ヅカと呼ばれる宝塚党と、松竹組は、頼まれもしないのにお互いものすごいごひいきぶり。「アンナ人たちとダンゼン遊ばないワ」である。だから有害無益と見る学校当局からは「保護者と同伴に限る」なんて厳しいお達しが出てしまう。

 「水の江滝子は、赤チャンより大切だワ、子供は生まれるんだけど、ウメ子様(彼女の本名)は、再びお生まれにならないんですもの」。こんな行き過ぎた熱烈っぷりはいかがかと思うが、「ターキーって、外国人じゃないのかい」「まあお父様! 世間から笑われてヨ」。その父君、一度視察して「陽気で美しいナ」と、すっかり魅力をうけ、今では立派なファンだとか。

 学校で礼儀作法や学問を詰めこまれる娘さんたちには、時には息抜きに、明朗な雰囲気に浸らせてやるのも人生学に大切な勉強じゃあるまいか。何も学校教育のみが、人間学では無いんだもの。娘は必ずしも、いつまでも箱入りではない。やがて家庭の主婦になる候補者だ。新味と古典の両方を教えることを、指導者たる人、忘れてはダメである。

 私もレビュー好きである。台詞(せりふ)、歌詞、衣装、装置、照明そして観客の若人の中に交じることは、中老の身に清新な注射を受けたような、素晴らしい喜びを味わう。小夜福子、蘆原邦子だのという私語を耳にしたり、友達同士でつねり合ったりするのに気付いて微笑することも度々だ。私は特にこの人といった好きなメンバーはいない。ただ漫然と豪華な場面を眺めると、心の憂さが解消してしまう。酒ばかりが憂さの捨てどころじゃない。私に女学校通いの娘がいたら「なぜ行かない」とすすめるかもしれない。

 よく「誰がお好きでいらっしゃいます?」なんて、つつましやかに尋ねる女性がいる。「ターキーですネ」とお答えする。これは誰にでも説明する面倒がないからだ。彼女が舞台に出てくるとすぐ分かる。見込みありと思っていたメンバーがいたのだが、百何十人もの人魚が踊るときは探すのにウンザリした。彼女(ターキー)は近代的な明朗性を十分に発揮しているのがいい。いえ、夢にも色恋じゃございません。

 (中略)

 「男装はけしからん」という意見も盛んだそうだ。とすれば歌舞伎の女形の存在はどうなるのか。女性だけが異性の服装で攻撃されるのは不公平だ。古い時代に男装が皆無だったとは言えないじゃないか。

 学生がサボってまで夢中になるのはいけないが、学校と家庭の窮屈な生活で、ため息だけをつかせておくより、気分転換なら、差し支えはないだろう。昼夜70回公演のうち50回も行くなどは慎まねばならないが。(後略)

(広瀬集)

当時の記事について

原文どおりに表記することを原則としますが、読みやすさの観点から

  • 漢字の旧字体は新字体に
  • 句点(。)を補った方がよいと思われる部分には1字分のスペース
  • 当時大文字の「ゃ」「ゅ」「っ」等の拗音(ようおん)、促音は小文字に

等の手を加えています。ご了承ください