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昔の新聞点検隊

こっそり名人になってました?!(下)

森 ちさと

【当時の記事】【現代風にすると…】は【解説】の後に掲載しています(字をクリックするとジャンプします)。

拡大小野の次に名人位についた関根名人披露会の予告記事=1921(大正10)年4月10日付東京朝日朝刊7面
【解説】

 先週に引き続き、112年前の将棋の名人披露会の記事を見ていきましょう。

 この記事最大のなぞは、「なぜ小野五平の名人就位をすぐに発表しなかったのか」です。

 本文では「先年昇進した」としていますが、日本将棋連盟によると、小野の名人就位が「内定した」と考えられるのが1898(明治31)年で、就位日ははっきりしないとのこと。ともかく少なくとも1年以上、新名人をお披露目しなかったことになります。

 「某貴顕(きけん=高位な人)の勧誘」「斯道有力者の勧め」など思わせぶりな表現が登場しますが、何が起きていたのかはっきり分かりません。世の将棋ファンの間では話題になっていたとしても、昇進についての記事は朝日新聞ではこれが初めてなので、もう少し事情を説明した方が親切です。

 また、この記事は予告記事で、披露会当日の様子を伝える続報が見あたりません。小野の跡を継いで十三世名人となった関根金次郎の披露会は、1カ月前の予告から4日前、当日とこまかく報じていることと比べるとかなり地味です。披露会にあわせて、小野と親交のあった幸田露伴(披露会の西洋将棋の対局者に名前があります)の将棋の連載を始めた新聞社もありましたが、少なくとも朝日新聞での掲載はこれっきりです。このそっけなさもなぞです。

 

 そのなぞを推理する前に、この時代の将棋界と名人位をめぐる経緯をたどってみます。

拡大関根名人の披露会は当日も記事が載った=1921(大正10)年5月9日付東京朝日夕刊2面

 当時の名人位は、現在の名人戦のような実力制によるものではありません。17世紀に名人制が始まってから、江戸時代の間はずっと「大橋本家」「大橋分家」「伊藤家」の3家元による世襲制でした。八段になって将軍家に図式(詰将棋の作品集)を献上した人の中から、現名人が次の名人を指名する、という仕組みで、いったんその座に就くと、生涯名人であり続ける「一世名人」でした。幕府のバックアップもあって300年続いた制度ですが、幕末から明治初期にかけて、幕府の力が衰えるのとあわせるように、将棋界全体も活力を失っていきます。

 

 連盟によると、このころは将棋だけで食べていくことが出来ず、小間物屋などの副業を持つ人が多かったとのこと。また生活苦などから賭け将棋が行われることにもなります。素人をだましてお金をまきあげることもあったようです。そんな時代に登場したのが小野です。衰退した家元を押しのけて名人就位を狙っていたとも言われています。

 

 幕府が倒れ、その20年以上前に十世名人も死去しているので、十一世名人を指名する人がいません。名人になるには実力はもちろん必要です。しかしまだ実力主義ではなかったので、将棋界(つまり仲間内)からの支持や、名人に推薦してくれるような棋界に影響力を持つ後援者を持つことも不可欠の要素でした。小野には、すでに福沢諭吉や森有礼といった有力なパトロンがいましたが、実力はともかく、棋界での人望という意味では十一世名人への就位が有力視されていた家元の伊藤宗印にまったくかないませんでした。

 そんな中、1879(明治12)年に小野は名人就位を5日後に控えた宗印と対決する機会を得ます。

 十一世名人に勝てば「次は自分だ」と知らしめることができる絶好のチャンスです。10月13日、そして名人就位後の同26日、11月9、10日の4日がかりでの勝負となり、252手の熱戦の末、小野の勝利となります。途中、引き分けとする局面があったようですが、妥協せずあくまで勝利を追求し、ついに名人の玉を詰めてしまったそうです。小野の実力は認められることにはなりましたが、就位したばかりの名人に対する礼儀上、批判もされたであろうことは想像に難くありません。

 小野はとても才気に富んでおり、意志の強い人でもあったと言います。家元やその支持者からは「野心家」「陰険」「偏狭で強情」などと非難されることも少なくなかったようです。宗印との一局はその「強情」な部分が出たと言えるかもしれませんが、この勝利によって、家元制度に風穴をあけることになる、十二世名人の座を大きく引き寄せたのです。

 棋界では受け入れられなかった性格も、幕府を倒して、維新を成し遂げた政治家や実業家、学者らには受けたようで、諭吉ら多くの後援者を得たそうです。連盟によると、小野は身なりをとてもきれいにしていて、見下されることもあった当時の棋士の中では信頼を得やすかったともいわれています。文明開化の時代だけに、チェスもたしなむなど新しいものに挑戦する姿勢が好まれたとも考えられます。

 

 その後、家元の伊藤家は1893年の宗印の死で断絶します。対局表にいる大橋宗金は家元大橋本家の人ですが、見ての通り腕前は五段。その後将棋駒を作る職人に転じました。大橋分家の宗与は実力はあったものの、投獄されて表舞台に戻れなくなりました。家元以外で唯一小野に対抗できる実力派だった八段の大矢東吉は宗印より早く亡くなりました。次の名人はもはや、「御三家」に属さない小野以外にふさわしい人物がいない状況でした。

 にもかかわらず名人に決まるのは宗印の死から5年後で、さらに披露会まで1年以上の空白。家元派の反発をやわらげるのにそれだけ時間がかかったと考えるのが自然でしょう。小野の名人就位に対する祝賀ムードが紙面に表れないのは、小野のことを「偏屈なのに上流には好かれるいやな人物」という家元派に近い印象でとらえていたからかもしれません。ちなみに万朝報は、小野は技量が抜群なだけでなく「其の人物の将棋社中に優出」している、と絶賛しています。歴史の変わり目に立った人物は、どんな時代でも極端に評価されやすいものなのでしょう。

 

拡大小野名人の卒寿の祝賀会を知らせる記事=1920(大正9)年8月31日付東京朝日朝刊5面
 小野は1900年5月時点で68歳。就位時の年齢としては2番目に高齢で、実力的に下り坂にあったこともあって、対局もあまり行わなかったようです。そのため紙面の登場回数もとても少なく、しかも他者の対局の講評や、段位の免状を出したことが記事になっています。

 1918年の米寿と2年後の卒寿のお祝いはわりと大きく扱われました。右の記事は卒寿の祝賀会を知らせるもの。もちろん当時もまだ名人です。コメントの最後はいかにも小野らしいものです。

「それにしてもあっちで初段だ、こっちで二段だと有段者がやたらに増えましたが、棋道を堕落させる悪者と考えています。年は取りましたが、小野は死ぬまで真の棋道鼓吹のためにつくします」

 

 翌年、89歳で亡くなりました。その跡を継いだのが「王将」で知られる坂田三吉のライバル、関根金次郎でした。小野と違って棋界での人望は厚く、周囲の理解を武器に小野による「変革」をさらに加速させ、一世名人制の廃止を打ち出して、実力本位の名人制度に変えていくのです。

(森ちさと)

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拡大1900年5月16日付東京朝日朝刊4面。画像をクリックすると大きくなります。主な直しだけ朱を書き入れています。現在の朝日新聞の表記基準で認めていない漢字の音訓や、当時は入れていなかった句点を入れる等については、原則として記入を省いています
【当時の記事】

●名人披露会 将棊の道に有名なる京橋区築地一丁目十九番地の小野五平氏は先年某貴顕の勧誘により名人に昇進したるも今日まで之を発表せざりしがいよいよ今回斯道有力者の勧めに従がひ来る廿七日両国中村楼に於て昇段の披露会を催ほすに決し当日は左の手合せある由

六段 平手 { 熊谷 三邨
六段 土佐 斎藤 雅雄
五段 角落 { 大橋 宗金
     飯塚 鉄次郎
六段 平香交 { 平岩 米吉
五段 横浜 矢島 新太郎
五段 香落 { 小松 定吉
三段   黒川 徳三郎
五段 香角交 { 小林 鹿次郎
二段   真野 隆春
 (中略)
三段 香落 { 豊島 太郎吉
初段   加藤 紫軒
 (中略)
西洋将棊 { 飯塚
  幸田 露伴
  { 大河内 某
  西洋人 某

(1900〈明治33〉年5月16日付 東京朝日朝刊4面)

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【現代風の記事にすると…】

27日に名人披露会

 将棋の十二世名人への就位が決まっていた小野五平八段の名人披露会が、27日に東京・両国の中村楼で行われることになった。小野八段の就位は1898年に決まっていたが、これまで正式に発表されていなかった。当日行われる対局は以下の通り。

{ 六段  平手 熊谷 三邨     西洋将棋  { 飯塚  
六段   斎藤 雅雄 (土佐)   幸田 露伴
{ 五段 角落 大橋 宗金     { 大河内 ○○  
     飯塚 鉄次郎     ○○○ ○○ (△△△)
{ 六段 平香交  平岩 米吉          
五段   矢島 新太郎 (横浜)      
{ 五段 香落 小松 定吉          
三段   黒川 徳三郎          
{ 五段 香角交 小林 鹿次郎          
二段   真野 隆春 (野州)        
 (中略)
{ 三段 香落 豊島 太郎吉          
初段   加藤 紫軒 (大阪)      
 (中略)

 名前の後ろの地名は出身地。明記していない人は東京

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当時の記事について

原文どおりに表記することを原則としますが、読みやすさの観点から

  • 漢字の旧字体は新字体に
  • 句点(。)を補った方がよいと思われる部分には1字分のスペース
  • 当時大文字の「ゃ」「ゅ」「っ」等の拗音(ようおん)、促音は小文字に

等の手を加えています。ご了承ください