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昔の新聞点検隊

伝説の始まり、ここにあり~日本マラソンの父、金栗四三

拡大1912(明治45)年7月16日付東京朝日 朝刊5面。画像をクリックすると大きくなります。主な直しだけ朱を書き入れています。現在の朝日新聞の表記基準で認めていない漢字の音訓や、当時は入れていなかった句点を入れる等については、原則として記入を省いています

【当時の記事】

●マラソン大競走 ▽二十五哩(マイル)の大競走

第一報=ストックホルムに於けるマラソン大競走(四万二百米突即ち約二十五哩)は十四日午後一時五十分を以て開始せられたり

▲金栗選手の元気 ▽参加者八十四に減ず

第二報=昨日体格検査を終へたるマラソン選手八十四名出発す 天気頗る晴朗、雲翳を見ず、暑気非常に強けれど金栗選手大元気なり 在留日本人は皆沿道の要所要所に立並び手に手に東京朝日新聞寄贈の応援旗を打振り金栗選手を疾呼激励す

▲長蛇を逸す ▽阿弗利加選手勝利

第三報=マラソン大競走第一着の月桂冠は阿弗利加選手マクオーサーの頭上に落ちたり 第二着も同じく阿弗利加選手たるギットシャムにて第三着は亜米利加のストロビノなり 其時間は第一着二時三十六分五十四秒五分四、第二着二時三十七分五十二秒、第三着二時三十八分四十二秒五分二なり

▲葡国選手暑気に倒る ▽生命危篤なり

第四報=葡萄牙ラザロなるもの、暑気激甚なる為め卒倒し到着点を距る七基米突の地点に於て人事不省となり生死の間に漂ひつつストックホルム病院に送られたり(以上ストックホルム特電)

 (略)

▲金栗落伍 金栗選手は邦人の頗る勢援に勉めしも遂に途中にて落伍し全行程を終る能はざりき

 (略)

▲金栗中止事情

金栗選手が中止したるは故障に会し十五基米の所にて倒れたるなり 但し身体幸ひに無事

(1912〈明治45〉年7月16日付東京朝日 朝刊5面)

【解説】

 4年に一度のスポーツの祭典・五輪の開幕が迫っています。今回のロンドン五輪は、日本選手の初参加からちょうど100年にあたる記念すべき大会でもあります。今回はその当時の1912(明治45)年、ストックホルム五輪で、初めてマラソンに出場した故・金栗四三さん(1891~1983)の記事をご紹介します。

 この時、日本代表として出場したのは陸上の2選手、金栗さんと短距離の三島弥彦選手のみ。嘉納治五郎・日本体育協会会長、大森兵蔵監督を加えても日本選手団は計4人だけでした。ちなみに今回のロンドン五輪に参加する日本選手団は、役員を含め514人以上が見込まれています。100年で、参加人数は100倍以上となったわけです。

 さっそく記事を見ていきましょう。当時の海外からの記事は電報をつないでいたのでしょうか。小刻みな文章が1報、2報と続き、刻々と変わっていく事態にリアリティーがあります。1報を見ると「メートル」には「米突」という漢字が当てられています。でも4報まで読み進めていくと「基米突」(キロメートル)が出てきます。同じレースの距離を表すのですから、単位はどちらかに合わせた方が読者もわかりやすいでしょう。1報の「四万二百米突」を「40.2キロ」にしてはどうかと提案してみます。

 「体格検査」という、五輪では耳慣れない言葉も出てきます。今でいう健康チェックのようなものでしょうか。また「八十四名出発す」とありますが、文献を調べてみると実際にスタートを切ったのは「68」人だったようなんです。今だからできる指摘ではありますが、84人で間違いないか記者に聞いてみましょう。

 3報ではアフリカのマクオーサー選手が優勝、金メダルに輝いたことを伝えています。五輪は国ごとの代表が基本ですが、「アフリカ」は地域名ですよね。ここも調べてみたところ、南アフリカ人だということがわかりました。国名の「南アフリカ」とした方がよいのでは、と確認することにします。また、記録は「二時三十六分五十四秒五分四(2時間36分54秒5分4)」と秒以下も表記しています。当時はマラソンでも短距離のように秒以下の単位まで発表されていたのでしょう。でも2着の選手は「52秒」までしかありません。52秒00だったのかもしれませんが、もしかして秒以下の数字を入れ忘れていないか、念のため聞いてみます。また「当時の記事」の画像の「油断大敵」の段落などでは優勝者の名前は「マックオーサー」となっており、表記が食い違います。発音の違いだと思いますが、どちらかにそろえてもらいましょう。

 4報では、暑さのためポルトガルの選手が倒れてしまったことが伝えられています。北欧のスウェーデンにしては珍しいくらい気温が上がり、参加選手は次々と脱落。完走できたのは約半分だったそうです。このポルトガルのラザロ選手は、翌日に病院で亡くなってしまいました。そして完走できなかった半分に、金栗さんも含まれていたのです。2段目に「金栗落伍」「金栗中止事情」とあり、途中で棄権したことが伝えられています。

 金栗さんは後に日本マラソン界の父と呼ばれることになる名選手。ストックホルム五輪を皮切りに1920年のアントワープ、1924年のパリ両五輪にも出場しました。五輪や世界選手権の代表選考レースである福岡国際マラソンの前身・金栗賞朝日マラソンや、箱根駅伝の創設者としても知られています。

拡大金栗さんのあまりの好記録に「実力か誤測か」という記事も載った=1911年11月21日付東京朝日朝刊5面

 ストックホルム五輪前年の1911年に日本で開かれた予選会で、前回五輪(ロンドン)のマラソン優勝者の記録を上回る好記録を出し、代表に選ばれました。あまりに良い記録が出たため、世間では「予選会のコースの測量が誤っていたのではないか」という臆測まで流れ、当時の朝日新聞も「実力か誤測か」という記事を掲載しています。実はロンドン五輪のマラソンの距離は、この予選会の距離よりも2キロほど長かったのですが、好記録には間違いありません。国内では一躍金メダルへの期待が高まっていたのです。

 「近代オリンピック100年の歩み」(監修・日本オリンピック委員会)などによると、灼熱(しゃくねつ)の太陽のもとスタートした金栗さんは、ペースの速い外国選手につられ、無理にピッチを上げて走っていました。1980年7月の朝日新聞で、「みんな100メートルでも走るようだった。あわてて急にスピードをあげ追いつこうとしたが、これでふだんの調子を全くこわしてしもうた」と振り返っています。途中で足が痛み出し、24キロを過ぎたあたりからは熱中症もあり意識がもうろうとして、26.7キロ地点でついに倒れてしまいました。沿道に住んでいた親切な農家に介抱され、翌朝、日本選手団の宿舎に帰ったそうです。このため、当時のスウェーデンでは金栗さんは「消えた選手」として新聞などで話題になったそうです。

 有名な後日談があります。1967(昭和42)年、金栗さんはスウェーデン五輪委から現地での「五輪55年祭」に招かれました。思い出のスタジアムを訪れた金栗さんが誘われるがまま、ゴール前100メートルから走り始めゴールテープを切ったところ、「日本の金栗、ただいまゴールイン、タイムは54年と8カ月6日5時間32分20秒3。これをもって大会の全日程を終了します」とのアナウンスが場内に流れたそうです。なんて粋なプレゼントなんでしょう。

拡大亡くなった金栗さんを悼む社会面の記事=1983年11月14日 付東京本社版朝刊23面
 さて記事の点検に戻ります。最後の段落の「金栗中止事情」には、「十五基米の所にて倒れたるなり」とあるのですが、前述の通り、金栗さんが倒れてしまったのは27キロ付近だといわれています。当時は取材態勢も万全ではなかったでしょうし、情報が錯綜(さくそう)していたのでしょう。今だからできる指摘ではありますが、27キロ付近でないか記者に確認してみます。また、お気づきになった方もおられるかもしれませんが、実はこの記事、「オリンピック」「五輪」という言葉がどこにも入っていないんですね。日本が初めて出場したこの当時、国内ではまだ浸透していなかったからでしょうか。読者にも言葉を知ってもらうためにも、ここはぜひ大きく「五輪」と入れてもらいましょう。

 また、金栗さんの読み仮名が、最初は「かなぐり」、後ろの方では「かなくり」と食い違っています。実はこの記事だけでなく、その後の朝日新聞の記事でも読み仮名はこの二つで食い違っているのです。本当のところはどちらなのでしょう?

 ちょうど今、金栗さんの企画展を開いている熊本県の玉名市歴史博物館に尋ねてみました(金栗さんは玉名郡の生まれ)。

 同館によると、やはりはっきりと断定はできないそうなのですが、玉名市のホームページの金栗さんの紹介文では「かなくりしぞう」としています。前述のストックホルムでの五輪55年祭で渡航した際に使ったパスポートの、アルファベットの名前表記が「KANAKURI」となっているため、これに合わせているのだそうです。となると、こちらの記事の読み仮名も「かなくり」とそろえてもらいましょう。

 今年6月には、100年前に金栗さんを介抱したスウェーデンの一家の子孫の女性に、日本オリンピック委員会の竹田恒和会長から記念プレートが贈られました。国境も時代も超えて、脈々と感謝の気持ちが伝えられるのは平和の祭典・五輪ならではです。

 玉名市歴史博物館での企画展は9月2日まで。メダルが期待される熱戦のただなか、まだ日本で五輪が無名だったころに出場した金栗さんの生涯に、思いをはせてみるのはいかがでしょうか。

【現代風の記事にすると…】

 ストックホルムで開かれている五輪は14日、マラソン(4万200メートル=約25マイル)が午後1時50分に始まった。

 雲一つない晴天の下、前日の体格検査を終えた選手68人が出発。すさまじい暑さだが金栗(かなくり)四三はとても元気だ。沿道のところどころに、現地に住む日本人が立ち並び、東京朝日新聞が贈った応援旗を振りながら金栗を応援している。

 南アフリカのマッカーサーが2時間36分54秒で優勝、2着も同じ南アフリカのギットシャムで2時間37分52秒、3着は米国のストロビトで2時間38分42秒だった。

 ポルトガルのラザロは暑さのため倒れ、7キロの地点で意識不明となり、ストックホルム病院に搬送された。

 (略)

 金栗は日本人の熱烈な応援を受けたが、27キロ付近で倒れ、棄権した。命に別条はないという。

(梶田育代)

当時の記事について

原文どおりに表記することを原則としますが、読みやすさの観点から

  • 漢字の旧字体は新字体に
  • 句点(。)を補った方がよいと思われる部分には1字分のスペース
  • 当時大文字の「ゃ」「ゅ」「っ」等の拗音(ようおん)、促音は小文字に

等の手を加えています。ご了承ください