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昔の新聞点検隊

ウルトラCの興奮! ミュンヘン五輪

上田 孝嗣

拡大1972(昭和47)年8月30日東京本社版夕刊9面。画像をクリックすると大きくなります。主な直しだけ朱を書き入れています
【当時の記事】

栄光と引退と ミュンヘンの主役たち

 【ミュンヘン三十日=轡田特派員】後方宙返り半ひねり前方宙返り半ひねり計一回ひねり――いや、このいい方も正確ではあるまい。ともかく塚原が、木の葉のようにきらきらと宙を舞って着地した瞬間、ミュンヘン・オリンピックホールの観衆は、一瞬、息をのんだ。二十九日、男子日本体操チームは団体総合で優勝した。ローマ、東京、メキシコ、そして、ミュンヘン。四連勝。勝敗の行方よりも、力学の法則にそむいて躍る、肉体と意志の力の美しさにだれもが酔った。

体操 「メダルは私が…」 ブ会長も乗出す神技

 ソ連など六カ国の演技が終って東ドイツなどと共に日本が登場した。(中略)観衆の目は勝敗よりも、日本勢の演技そのものに奪われていた。ソ連との勝敗はすでに決定的だった。最後の鉄棒で、本番前の腕ならしに、観衆はどよめいた。

 塚原の体がぐーんとのびて、そのまま後方に回転する、と思った瞬間、鉄棒を握る手がチカチカッと位置を変えて体は反転。反転だと見てとった瞬間、体は足をいっぱいに広げたまま鉄棒の上を越え、両手を離して宙に浮く。落ちる。ハッとしたとき、腕は後方にのびて鉄棒をつかみ、体は再び水車のように回転する……。

 一人の観客が叫んだ。「人間があんなことをできるのか」

 難解な抽象絵画の画面に躍る記号のように、宙に浮ぶ体は左に右に折れ、回り、曲る。宇宙遊泳の飛行士のようにあまりくるくる回るので、体の動きに収拾がつかなくなってしまったのではないか、と思った直後、ピシャリと着地。そこで初めて観衆は「ああ、すべては計算しぬかれたテクニックだったのか」と安心し、どよめく。

 塚原が軽い音を立てて着地した。電光板に9.90と出た。(中略)貴賓席でブランデージ国際オリンピック委員会会長がかたわらの日本人に日本語で叫んだ。「ニッポン、バンザイ」。清川国際オリンピック委員会(IOC)委員が、メダルの贈呈をしてくれと頼まれているところに割込んでブランデージ会長はいった。「私にやらせてくれ、私に……」

 (後略)

(1972〈昭和47〉年8月30日東京本社版夕刊9面)

【解説】

 ロンドン五輪も佳境を迎えています。「体操ニッポン」ともいわれ、期待されていた体操競技では、男子個人総合で内村航平選手が金メダル! 男子は団体と個人種目別のゆかでも銀メダルを獲得しました。

 今大会の日本代表選手団総監督は、塚原光男さん。1972年ミュンヘン、76年モントリオール両五輪の体操男子団体総合と鉄棒の金メダリストです。つり輪やゆかの技、通称「月面宙返り(ムーンサルト)」の生みの親として知られています。

拡大ミュンヘン五輪での体操男子団体4連覇を報じた1面本記=1972年8月30日付東京本社版夕刊1面
 さて今回は、塚原さんがミュンヘン五輪で月面宙返りを決め、日本が体操男子団体で4連覇を挙げた時の記事を取りあげます。冒頭の記事は、1面の本記を受けた社会面の記事です。塚原さんが技を披露した時の会場の興奮の様子が生き生きと描写されています。

 今の記事と書き方などに大きな違いはありません。ですが、細かくみると冒頭の記事には今の校閲記者としては直したいところがいくつかあります。

 たとえば2段落目に「本番前の腕ならし」とありますが、この後「電光板に9.90と出た」まで読んでも、どこまでが練習でどこから本番の記述なのか、分かりにくくなっています。記事を紙面に組み付ける際に、編集者が紙面に収めるために記事の一部を削り、こうなってしまったのかもしれません。

拡大塚原さんは個人種目別の鉄棒でも月面宙返りを披露し、優勝。この記事の見出しでは「9.90宙返り」としている=1972年9月2日付東京本社版夕刊7面
 またその後ろに「ブランデージ国際オリンピック委員会会長」「清川国際オリンピック委員会(IOC)委員」と出てきます。今なら初出のブランデージ会長のところに「国際オリンピック委員会(IOC)会長」と正式名称と略称を入れ、2度目からは「清川IOC委員」などとします。

 指摘はこのぐらいにして記事に戻りましょう。

 ミュンヘン五輪で披露されたこの鉄棒技は世界中に衝撃を与え、日本男子体操は全8種目で16個のメダルを獲得する強さを誇りました。

 ムーンサルトは英語の「Moon」(月)とドイツ語「Salto」(宙返り)を合成した和製語。鉄棒での技として国際体操連盟(FIG)で使われる公式名称は「ツカハラ」です。

 月面宙返りという通称は、当時はアポロ11号の月面着陸(69年)が話題で、この鉄棒技が月面での宇宙飛行士の動きに似ていることから名付けられたといわれています。塚原さんは対談などで、実は「忍法木の葉落とし」「忍法ふにゃふにゃ」なども技の名前の候補だったと話しています。

 塚原さんはモントリオール五輪で、「月面宙返り」の1回ひねりを2回ひねりに進化させた「新月面宙返り」を披露しました。

拡大塚原さんが個人種目別の鉄棒で披露した月面宙返り=1972年9月2日付東京本社版夕刊7面
 ミュンヘン五輪で、塚原さんはどんな演技をしたのでしょうか。

 冒頭の記事では「宙に浮ぶ体は左に右に折れ、回り、曲る。宇宙遊泳の飛行士のようにあまりくるくる回るので……」などとありますが、同じ日のスポーツ面にもう少し詳しい説明がありました。引用します。

ツカハラ宙返り

 二十九日、男子体操自由演技の最後を飾った“ツカハラ宙返り”とは、どんなものなのか。塚原選手の説明によると、次のような技からなっている。中抜き一回ひねり、フルターン、一挙持ちかえ、けあがり、逆手車輪、浮腰回転、肩転移、逆背面車輪、一挙移行、開脚浮腰回転、一挙持ちかえ、倒立、コスミック(宇宙遊泳)、一挙持ちかえ、けあがり、移行、正車輪、後方宙返り半ひねり、前方宙返り半ひねり。このうち、最後の二つの宙返りが“ムーンサルト”とか“ツカハラ宙返り”といわれる。全体に七つのウルトラCが含まれている。時間は約三十秒。(平野特派員)

(1972年8月30日東京本社版夕刊5面)

 72年当時、技や運動の難しさの程度を表す体操の難度は当初A~Cの3段階に分類されていました。この日の塚原さんの演技には当時の最高難度Cを超える「ウルトラC」が七つも入った革新的な内容でした。

 ウルトラCはいまでも「離れ技」(大辞林)「とっておきの秘策」(大辞泉)などの意味で使われますが、体操選手が繰り出す離れ技は、技術の向上や規則改正で現在の最高難度は「G」になっています。

 月面宙返りの正式名称は「ツカハラ」ですが、跳馬にもまた別の「ツカハラ」という技があります。体操の技名は新技を事前申請して国際体操連盟(FIG)の定める国際大会で成功させれば、実施者の姓が技名に認定されます。でも、新技を失敗すると、その後は誰がその同じ新技を国際試合で成功させても、その技に人名がつけられることはなく、技の状態を表した長々とした名前だけが残ります。

  鉄棒だけを見ても「オノ」「エンドー」「ワタナベ」と、日本選手の名がついた技がある。日進月歩の体操界でこれからも新たな選手名のついた大技がでてくる事を期待したいものです。

【現代風の記事にすると…】

栄光と引退と ミュンヘンの主役たち

 後方宙返り半ひねり前方宙返り半ひねり計1回ひねり――いや、この言い方も正確ではあるまい。塚原が、木の葉のようにひらひらと宙を舞って着地した瞬間、ミュンヘン・オリンピックホールの観衆は一瞬、息をのんだ。29日、男子日本体操チームは団体総合で優勝した。ローマ、東京、メキシコ、そしてミュンヘン。4連勝。勝敗の行方よりも、力学の法則にそむいて躍る、肉体と意志の力の美しさに誰もが酔った。

=1面参照

体操 「メダル贈呈、私が…」 IOC会長が乗り出す神技

 ソ連など6カ国の演技が終わって東ドイツなどと共に日本が登場した。(中略)観衆の目は勝敗よりも、日本勢の演技そのものに奪われていた。ソ連との勝敗はすでに決定的だった。

 最後の鉄棒。塚原の演技に観衆はどよめいた。体がぐーんとのびて、そのまま後方に回転する、と思った瞬間、鉄棒を握る手の位置を変えて体は反転。と思いきや、今度は足をいっぱいに広げたまま体は鉄棒の上を越え、両手を離して宙に浮く。落ちる。ハッとしたとき、腕は後方にのびて鉄棒をつかみ、体は再び水車のように回転する……。

 一人の観客が叫んだ。「人間があんなことをできるのか」

 宙に浮かぶ体は左に右に折れ、回り、曲がる。宇宙遊泳の飛行士のようにあまりくるくる回るので、体の動きを制御できなくなってしまったのか、と思った直後、ピタリと着地。そこで初めて観衆は「ああ、すべては計算し尽くされたテクニックだったのか」と安心し、どよめく。

 電光掲示板に9.90と出た。(中略)貴賓席でブランデージ国際オリンピック委員会(IOC)会長が、傍らの日本人に日本語で叫んだ。「ニッポン、バンザイ」。そして清川IOC委員が、メダルの贈呈役を依頼されているところに割り込んで言った。「私にやらせてくれ、私に……」

 (後略)

 (ミュンヘン=轡田○○)

(上田孝嗣)

当時の記事について

原文どおりに表記することを原則としますが、読みやすさの観点から

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  • 句点(。)を補った方がよいと思われる部分には1字分のスペース
  • 当時大文字の「ゃ」「ゅ」「っ」等の拗音(ようおん)、促音は小文字に

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