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昔の新聞点検隊

あれ?金メダル何枚だっけ?~1932年ロス五輪閉会式~

広瀬 集

拡大1932(昭和7)年8月16日付 東京朝日夕刊1面。画像をクリックすると大きくなります。主な直しだけ朱を書き入れています。現在の朝日新聞の表記基準で認めていない漢字の音訓や、当時は入れていなかった句点を入れる等については、原則として記入を省いています

【当時の記事】

第十回オリムピック閉会 五輪の旗降さる
六度聴く『君が代』 同胞ただ感激の涙

 【ロサンゼルス特派員十四日発】第十回オリムピック大会も愈終った、思へば七月卅日以来世界の視聴を集め記録といふ記録を片ッ端から破り続けた素晴しい大会であった、十六日間昼も夜も炎々として燃え続けたオリムピックのかがり火が折からの夕日に沈むが如くに消え去った時、五輪の大会旗は静かに降されて第十回オリムピック大会はここに全く歴史のペーヂに納められてしまった、これより先午後二時最終日に残されたプログラムとして大会に参加した各国の名馬が西側のトンネルにその姿を現し粛々と足並をそろへてトラックを一周フィールドの中央に整列した、選手の大行進にはじまった開場式とはまた趣の変った勇ましい光景であった、

 愈水上競技十四種目の優勝者を表彰する国旗掲揚式だ、「百メートル自由形第一着宮崎康二チャムピオン・オリムピック」と紹介されてまづ我宮崎君は中央の一番高いスタンドに立った、続いて河石、遊佐、豊田、横山、清川、入江、河津、鶴田、小池、北村、牧野の諸君、前畑嬢も相続いてスタンドに登り破れるやうな満場の歓声を浴びた、待ちに待った大日章旗は前後五回中央のビクトリー・マストに揚った、その度毎に国歌「君が代」は厳かに奏せられた、二等、三等を合せて日章旗の数は実に十二本、祖国の誇りと輝きとを目の辺に見た同胞はただ感激の涙にくれた、ああ!この日章旗!この君が代!今日こそ我等にとって生涯忘れ得ぬ栄光の日であった、馬術最高の競技たる大障害にわが西中尉優勝し更に一度君が代を聞き日章旗を仰いだ

 それが終っていよいよ最後の閉場式だ 開場式と同じく参加国の国旗がアルファベット順で西側のトンネルから現れトラックを一周し旗手達はフィールドに入って貴賓席正面に並ぶ陣を作った、国際オリムピック委員長ラツール伯は立って閉会を宣した、この時過ぐる十六日間フィールドの上屋高く翻ったオリムピック大会旗はスルスルと降された(後略)

(1932〈昭和7〉年8月16日付 東京朝日夕刊1面)

【解説】

 ロンドン五輪が幕を閉じました。なでしこジャパンの初戦勝利に始まり、日本五輪史上最多のメダルラッシュとなった約3週間。熱く激しい戦いの数々は、遠く離れた日本にも、多くの人を寝不足にしつつたくさんの感動を届けてくれました。競い合ったお互いをたたえあい、全力を出したことを喜びあうかのように、閉会式には選手たちのたくさんの笑顔があふれていたのが印象的でした。

 今回はその五輪閉会式の、ちょうど80年前の記事を引っ張り出してきました。1932年の第10回、米国ロサンゼルス大会です。早速見てみましょう。

●金メダルの数は?

 まずは見出しに目がいきます。「閉会」とあるので、大会の総括的な記事なのかな、との印象を受けます。そこに「六度聴く君が代」。おや待て。この大会は金メダル7個じゃないか? この紙面には現在のような「金○個、銀○個、銅○個」のメダル一覧表はありませんが、当時も今と変わらず五輪は国民の関心事。テレビが無い時代なので、新聞が号外を出しまくって報道していました=別記事1。校閲記者たるもの、金メダルの数くらいは当然頭に入れています。意気揚々と編集者のもとへ指摘に行きましょう!

拡大別記事1 宮崎康二選手の100メートル自由形優勝を伝える号外=1932年8月8日付東京朝日号外

 ……と、気がはやってしまうと落とし穴にはまります。本文をよく読んでみましょう。「これより先午後二時……」と、特に改行などもなく7行目から話が展開していました。どうも閉会式の前に水上競技の表彰式がまとめてあったようです。決勝を戦ったその日のうちに行われることが多い現代とは、少し違いますね。

 その競泳陣の5個と、この最終日にあった馬術の1個、それを合わせて「この日に6度」君が代が流れた、ということのようです。大会通して、と勘違いした誤指摘をするところでした(残りの金1個は陸上・三段跳びの南部忠平選手)。記憶や思い込みで拙速な判断をせず、短い時間で冷静に記事を読み込むのが、校閲記者に必要なスキル。一度間違いと思い込んでしまうと視野が狭くなってしまう、という悪い例をご紹介しました。

●メダリストは何人?

 記事には、銀、銅も合わせると水上競技で12本、日の丸が掲揚されたとあります。ロンドン五輪では競泳陣が好調で11個(銀3、銅8)ものメダルを獲得しましたが、それでも「戦後最多の」という注釈がつきました。それはこのロス五輪の12個という記録があるからなんですね。特に男子は、競泳6種目中5種目が金という驚異的な活躍でした。

拡大別記事2 メーン記事の横に組まれていた特集。各国の一流スイマーが大会をふり返る。赤く囲ったところで、大横田選手について触れている=1932年8月16日付東京朝日夕刊1面
 日本オリンピック委員会のサイトなどを元にまとめてみると、メダリストは以下の通り。

 
【男子】
100メートル自由形宮崎康二
河石達吾
400メートル自由形大横田勉
1500メートル自由形北村久寿雄
牧野正蔵
100メートル背泳ぎ清川正二
入江稔夫
河津憲太郎
200メートル平泳ぎ鶴田義行
小池礼三
800メートルリレー宮崎康二
遊佐正憲
横山隆志
豊田久吉
【女子】
200メートル平泳ぎ前畑秀子

 記事にも表彰式参加者が列挙されていますので、一人一人点検していきます。すると……大横田選手の名前がありません。ここでまた勢いよく指摘!すると同じ失敗をしてしまいますのでもう少しよく読んでみましょう。このメーン記事の隣に、「世界一座談会」と題した企画が載っていました=別記事2。なんと閉会直前に各国の有力選手を集めての豪華座談会を催しているのです。この文中、「大横田君が病気でなかったら……」(記者)とありました。

拡大別記事3 男子400メートル自由形予選の結果を伝える記事。大横田選手が大腸カタル(腸炎)と報じている。3人の顔写真のうち真ん中が大横田選手=1932年8月10日付東京朝日夕刊1面
 どうも大横田選手は体調不良ながら銅メダルを手にしたようです。過去記事にあたると、大腸炎だったようでした=別記事3

 その影響で表彰式も欠席したのかもしれません。この記事だけでは事情が分からないので、大横田選手はどうしたのか、問い合わせてみましょう。

●オリンピックのシンボルは「五輪」

 さて、ここまで何度となく「五輪」という言葉を使ってきました。現在では「五輪=オリンピック」が定着しています。日本国語大辞典で「五輪」をひいたところ、「オリンピック旗にえがかれた五つの輪。転じて、近代オリンピックをさしていう。一九三六年ベルリン大会後に評論家の川本信正によってつけられた呼称」とありました。

 ん? 1936年ベルリン大会? しかし今回のメーン記事(1932年)には「五輪の旗」との見出しがついています。

 川本信正氏は、当時読売新聞の記者でした。著書(「スポーツ賛歌」〈岩波ジュニア新書・1981年〉)に、「五輪」発明の経緯が書かれています。要約すると次のような様子です。

 ベルリン大会の次は東京で開催されることが決まり、新聞でも盛んに報道された。しかし「東京オリンピック大会」は字数が多くて見出しにとりにくい。整理部(編集者)から「何か略語をつくれないか」との注文をうけた川本氏は「オ大会」や「万運」(万国運動会)などを思いつくが、しっくりこない。その時頭に浮かんだのが、宮本武蔵の「五輪書」について書いた菊池寛の随筆。万物の構成要素「地、水、火、風、空」を示す仏教用語「五輪」なら、五つの輪で世界の五大陸を表し平和をめざすオリンピック精神をうまく表現できると考え、「よし、これだ」と思った。早速この案が採用されたが、よその新聞社はあまり使わなかった。

(「スポーツ賛歌」から要約)

 

拡大別記事4 見出しに「五輪景気」とあるのが見える=1936年8月15日付東京朝日夕刊2面
 1940年の東京大会は、日中戦争の影響で開催権が返上され(代替開催が決まったヘルシンキ大会も第2次世界大戦で中止)幻に終わりましたが、川本氏が書いているように、少なくともオリンピック大会を「五輪」と短く表記する契機にはなったのでしょう。ただ、オリンピックのシンボルは分かりやすい五つの輪ですから、このシンボルを指す言葉としては、以前から使われていたようです。

 今回のメーン記事もそうですし、読売新聞、毎日新聞のデータベースで探しても「オリムピック 五輪の由来」(1935年12月21日付 読売新聞朝刊)、「…オリムピックの五輪の旗が高々と掲揚…」(1936年2月6日付 東京日日新聞朝刊「第四回冬季オリムピックけふ開幕」の記事中)など、ベルリン大会の前から使用例が見られます。さらに朝日では、ベルリン大会中の36年8月15日付紙面に「五輪景気」と、「五輪=オリンピック」と解釈できる見出しもありました=別記事4

 シンボルは1914年に作られたので、各社・各記者が臨機応変に「五輪」という言葉を使っていた可能性は十分にありそうです。

拡大別記事5 メーン記事の下段に組まれた西選手優勝の一報。競技中の写真は間に合わず、練習中のもの=1932年8月16日付東京朝日夕刊1面
●ロス五輪をしめくくったバロン西

 最後に、メーンの記事に少しだけ登場している馬術の「西中尉」にもふれましょう。陸軍の軍人だった西竹一選手のことです。映画「硫黄島からの手紙」にも登場していたので、ご存じの方も多いでしょう。このロス五輪には馬術の選手として出場。最終日に、大観衆の前で愛馬ウラヌスとともに見事、日本としてロス五輪7個目の金メダルを獲得。これで君が代がこの日6回流れたのでした=別記事5

 華族だった西選手。「We Won(=我々は勝った!)」と人馬一体を強調したとも言われている勝利インタビューや、奔放で社交的な性格もあって、「バロン(男爵)西」と爵位をつけて呼ばれ、外国でも大変な人気者になりました。次回のベルリン大会にも出場しましたが、メダルには届きませんでした。

 一方、軍人としては大陸での任務などを経て、最後は硫黄島に赴任、1945年3月に戦死しました。硫黄島では西選手の命を惜しんだ米軍が投降の呼びかけをしたという伝説がうまれたほど、高名なメダリストだったのです。

 「平和の祭典」が終わり、明日は終戦記念日。改めて、戦争や平和にも思いをめぐらしたいと思います。

【現代風の記事にすると…】

ロス五輪閉会 五輪の旗降ろされる
6度流れた君が代に感激の涙

 14日、ロサンゼルス五輪が閉幕した。7月30日以来、世界の注目を集め続け、多くの新記録が生まれた素晴らしい大会だった。16日間、昼夜煌々(こうこう)と燃え続けた聖火が夕日に沈むかのように消された時、五輪旗は静かに降ろされ、10回目の五輪は新たに歴史の一ページに加えられた。

 閉会式前の午後2時には、馬術競技が行われた。参加した各国の名馬は粛々と足並みをそろえてトラックを1周し、中央に整列。選手の大行進で幕を開けた開会式とはまた趣の違う勇ましい光景だった。

 競泳など14種目のメダリストの表彰もあった。「100メートル自由形第1着、宮崎康二、チャンピオン・オリンピック!」と紹介されてまず宮崎選手が中央の一番高い表彰台に立つ。続いて河石達吾、遊佐正憲、豊田久吉、横山隆志、清川正二、入江稔夫、河津憲太郎、鶴田義行、小池礼三、北村久寿雄、牧野正蔵、前畑秀子の各選手も続き、われんばかりの満場の歓声を浴びる。

 金メダルは五つ、その度に日の丸は中央一番高い掲揚台に揚がり、君が代は厳かに演奏された。銀、銅もあわせ12個。日本選手団の栄光に流された感激の涙は数知れず、忘れられない一日となった。馬術でも西竹一選手が大障害で優勝したため、この日はあわせて6度、日の丸が揚がった。

 つづく閉会式。開会式と同じく参加国の国旗がアルファベット順でトラックを1周し、旗手たちは貴賓席前に並んだ。国際オリンピック委員会のラツール会長が閉会を宣言すると、16日間競技場の上空高くに翻っていた大会旗はスルスルと降ろされた。(後略)(ロサンゼルス)

(広瀬集)

 ※記事の画像は一部加工しています。

当時の記事について

原文どおりに表記することを原則としますが、読みやすさの観点から

  • 漢字の旧字体は新字体に
  • 句点(。)を補った方がよいと思われる部分には1字分のスペース
  • 当時大文字の「ゃ」「ゅ」「っ」等の拗音(ようおん)、促音は小文字に

等の手を加えています。ご了承ください