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昔の新聞点検隊

「魚釣島に不時着す」無線残し旅客機が遭難

上田 孝嗣

拡大1940(昭和15)年2月6日東京朝日朝刊9面。画像をクリックすると大きくなります。主な直しだけ朱を書き入れています。現在の朝日新聞の表記基準で認めていない漢字の音訓や、当時は入れていなかった句点を入れる等については、原則として記入を省いています
【当時の記事】

台北ゆきの旅客機 無人島に不時着す 搭乗十三氏は生存か

【福岡電話】五日午前十時五十九分福岡を出発 那覇経由、台北に向った大日本航空機ダグラス二型阿蘇号航空標識J-BBOT(黒岩利雄操縦士、森良一航空士、曽我晴行機関士、千田秀夫通信士)は旅客九名郵便貨物二百六十キロを搭載四時五十五分沖縄列島魚釣島上空にさしかかった際右エンヂン不調となり「魚釣島に不時着す」と悲壮な無電を台北無電局に発信したまま消息を絶った旨午後五時四十五分福岡飛行場に鹿児島無線を通じて通報があった、同阿蘇号は福岡を出発後午後二時四十分那覇に到着、同三時九分那覇を出発し台北に向ったものであるが不時着の魚釣島は基隆を距る東北東百浬、那覇を距る西二百二十六浬の海上にあり周囲二里全島珊瑚礁の無人島で恐らく不時着は墜落状態で機体は大破したものと推測され乗客の安否も非常に気遣はれ福岡飛行場では悲壮な気がみなぎってゐる、乗客九人のうち七人は福岡より搭乗、他の二人は那覇から搭乗したものである【写真は日航ダグラス二型と上から黒岩、森、曽我、千田の各乗員】

乗客と乗員

△東京からの乗客-川島実氏(名古屋市●●●●●四ノ六豊田自動車工業社員)△檀上三郎氏(四一)(深川区●●一ノ七)外三名

△福岡からの乗客-平岡英太郎氏(奈良市●●●●町三五ノ二)△山見喜志郎氏(大阪市西区●●●一ノ一三、会社員)

△那覇からの乗客-米沢滋氏(大森区●●●●二ノ八九五逓信局無線課技師)△相沢光三氏(同技手)

△乗務員 △操縦士黒岩利雄(三三)△同森良一(二一)△機関士曽我晴行(二六)△通信士千田秀夫(二九)の四氏

島から合図の光 飛行機で夜間捜査

【台北電話】午後六時四十一分台北を出発 敢然夜間飛行を決行して阿蘇号の不時着現場に向ったダグラス筑波号は午後九時十分捜査を終へて無事帰還したが松波 藤原両操縦士及び総督府逓信部吉田、間野両技手は交々語る

魚釣島の上空に出たのが七時五十五分です、(略)我が筑波号の真西の方の海岸に焚火らしいものを認めました、それでこの真上に行かうと焦ったのですが気流が悪くてとても近けません、下の方では盛んに信号をしてゐるやうでした、懐中電灯の光りもよく見えました、この島は無人島ですから必ず阿蘇号搭乗者達の焚火であり懐中電灯であらうと思はれます、(略)阿蘇号は恐らく風下のこの島の北側に不時着したことと思はれるし例の焚火がその不時着現場であらうと一同はほっとしました、そこで持参した食糧薬品等を落さうと努力しましたが飛行機の動揺が激しくて不可能でした、それに暗闇の上気流も益々険悪になるので已むなく引返して来ました

(1940〈昭和15〉年2月6日東京朝日朝刊9面)

【解説】

 ここのところ、「尖閣諸島」(沖縄県石垣市)の名前を紙面で見ない日はありません。11日に20億5千万円で国有化することが閣議決定されると、「中国の高官が日本製品の不買運動を容認」「上海で日本車燃やされる」などの反発の動きが報じられました。

 さて、今回はその尖閣諸島・魚釣島が違う意味で注目された記事を紹介します。

 1940(昭和15)年、福岡発那覇経由台北行きの日本の旅客機がエンジンの故障で途中の無人島に不時着しました。乗客・乗員13人が搭乗していましたが、奇跡的に全員が無事救助されました。この飛行機が不時着した無人島が、尖閣諸島の魚釣島でした。

 さて、この記事は今の校閲記者としては直したいところがいくつかあります。

 まず、見出しの「台北ゆきの旅客機 無人島に不時着す」。遭難の場所がどのあたりなのかも知りたいところです。今のようにその存在を多くの人が知っているのなら「魚釣島」「尖閣・魚釣島」などとするのがいいでしょうし、無理なら「尖閣諸島」「東シナ海」「琉球諸島」などでもおおよその場所はつかめます。

 また、隣の見出し「搭乗十三氏は生存か」とありますが、記事は「安否が非常に気遣われる」、つまり安否不明となっています……と思ったら、この見出しは隣の記事「島から合図の光」からとったのですね。でもこの記事にも生存者がいるらしいとはありますが、13人全員が無事だったかどうかまでは確認されておらず、勇み足です。

 この飛行機に乗っていた森良一さんの肩書が、前文では「航空士」なのに、本文の末尾近くでは、直前の黒岩利雄さんの肩書「操縦士」を受けて「同」となっています。どちらかにそろえたいところです。

 また本文では「阿蘇号」は福岡発那覇経由台北行きとありますが、「乗客と乗務員」には〈東京からの乗客〉とあります。乗り継ぎがあったのでしょうが、そのことも補足してほしいものです。

 ただ、事故があった直後には様々な情報が交錯し、印刷に回す時間までにどれだけの情報を盛り込めるか、1分1秒を争う勝負になります。「十三氏は生存か」の見出しも、「全員無事らしい」という情報が締め切り間際に入り、記事を入れる時間はなかったので見出しだけ入れたのかもしれません。

 指摘はこのぐらいにして記事に戻りましょう。

 記事の1940年は太平洋戦争が始まる直前。台湾は日清戦争後、1895(明治28)年の下関条約により日本の植民地となっていました。

 魚釣島を「無人島」としています。それまではかつお節工場などもあり、人も住んでいたのですが、ちょうどこの事故のあった1940年ごろから無人島になったようです。

 大日本航空は戦前の航空会社で、国策によりそれまでの民間航空会社を統合する形で設立され、戦後、連合国軍により解散させられました。略称は日航ですが、現在の日本航空とは直接的な関係はありません。

 遭難したダグラスDC2は、戦前の世界的ベストセラー機DC3の先駆けとして作られた飛行機です。

 当時の福岡-台北便の時刻表を見ると、福岡を午前11時に出発し、那覇を経由して台北に到着するのは午後5時20分、6時間20分の旅でした。

 今のジャンボ機なら東京-台北間でも約2時間半と半分以下ですが、当時神戸と台湾(基隆)を結んだ大阪商船の「高砂丸」では4~5日かかっていました。それに比べると圧倒的な速さです。その分航空運賃も高く、110円。当時東京-大阪間の鉄道運賃が5円95銭、同区間の航空運賃は30円(1938年で国内定期便運行は中止)でした。

拡大「阿蘇号」の乗客・乗員13人全員の無事救助を報じた記事=1940年2月7日東京朝日夕刊2面

 事故の状況を見てみましょう。DC2は双発のプロペラ機で、事故は右エンジンの故障が原因のようです。1940年2月7日付夕刊の記事を見ると、那覇を離陸した後に右エンジンが故障、左エンジンだけで台湾に向かったのですが、海上に墜落する危険が出てきたのか、島に不時着する選択をしたようです。乗務員の対応と、黒岩操縦士の巧みな操縦により全員が無事に救出されました。東京からの乗客3人は談話で次のように語っています。

 那覇を出てからしばらくして右エンジンが故障を起こし、間もなく回転しなくなった。台北も近いし、片方のエンジンだけで飛行が出来るだろうと安心していたが、急に乗務員から救命具をつけてくれと言い渡され、ちょっとびっくりした。あのゴツゴツした岩の中を巧みに着陸したのにはホッとしたというよりも、前の不安が大きかっただけに驚いた。かすり傷一つ負っていないなんて全く奇跡だ。不時着の現場における黒岩操縦士を始め乗務員の方々の沈着大胆な行動には、乗客一同心から信頼と尊敬の念を抱かずにはいられなかった。

(1940〈昭和15〉年2月8日東京本社版夕刊2面)

拡大魚釣島の海岸岩場に不時着し、大破した「阿蘇号」と乗客ら=1940年2月8日東京朝日夕刊2面

 魚釣島については、9月に東京都が行った周囲からの現地調査の様子が映像や写真でも伝えられました。崖が切り立ち、ゴムボートや小舟でしか近づけないような光景はまさに孤島でした。DC2は全長、全幅ともに20メートル前後あります。最初の記事では「恐らく機体は大破したもの」と伝えていますが、こうした島の様子を知っていればそう想像してしまうのもやむを得ないでしょう。

 あの岩場に大きな機体を見事に不時着させ、しかも全員無事だったという黒岩機長は、「ハドソン川の奇跡」として知られる2009年のサレンバーガー機長と並ぶような巧みな操縦かんさばきの持ち主だったのでしょう。

 この事故はただ単に運が良かったというだけでもなく、トラブルや事故が起きても、対応のいかんによって最良の結果を残すことができる例でもあると思います。尖閣諸島の問題も、日中両国の政治家と国民の沈着冷静にして大胆な行動で、最良の結果を残していきたいものです。

【現代風の記事にすると…】

13人乗り旅客機が魚釣島に不時着か 乗客ら島でたき火?

 福岡発台北行きの大日本航空機「阿蘇号」(ダグラスDC2、黒岩利雄操縦士、森良一航空士、曽我晴行機関士、千田秀夫通信士)が5日午後4時55分、尖閣諸島・魚釣島付近で消息を絶った。

 鹿児島無線局経由で福岡飛行場に午後5時45分ごろ入った連絡によると、阿蘇号は尖閣諸島・魚釣島上空にさしかかった際、右エンジンが不調となり「魚釣島に不時着する」との無線を台北無電局に発信し、消息を絶ったという。

 阿蘇号は旅客9人と郵便貨物260キロを載せて、同日午前10時59分に福岡を出発後、那覇に午後2時40分に到着。同3時9分に那覇を出発して台北に向かっていた。

 不時着したと思われる魚釣島は台湾・基隆から東北東に約190キロ、那覇から西へ約420キロにあり、周囲約8キロの全島がサンゴ礁の無人島。

 飛行機は墜落状態で機体は大破したものと推測されており、乗客・乗員13人の安否は不明。福岡飛行場では確認作業を急いでいる。

 乗客9人のうち7人は福岡から搭乗(うち5人は東京からの乗り継ぎ)、他の2人は那覇から搭乗していた。【写真上=ダグラスDC2、同下=上から黒岩、森、曽我、千田の各乗員】

 (福岡)

乗客と乗員

 △東京からの乗客(福岡で事故機に乗り継ぎ)-川島実さん(名古屋市、豊田自動車工業社員)△檀上三郎さん(41)(東京市深川区)他3人

 △福岡からの乗客-平岡英太郎さん(奈良市)△山見嘉志郎さん(大阪市西区、会社員)

 △那覇からの乗客-米沢滋さん(東京市大森区、逓信局無線課技師)△相沢光三さん(同技手)

 △乗員 △操縦士黒岩利雄さん(33)△航空士森良一さん(21)△機関士曽我晴行さん(26)△通信士千田秀夫さん(29)

島から合図の光 飛行機で夜間捜索

 阿蘇号と乗員・乗客の捜索のため、午後6時41分、ダグラス筑波号が台北から不時着の現場・尖閣諸島の魚釣島に向かった。筑波号は午後9時10分に夜間の捜索を終えて帰還。搭乗していた松波○○・藤原○○両操縦士、総督府逓信部の吉田○○、間野○○両技手は以下のように語った。

 「魚釣島の上空に出たのが午後7時55分です。筑波号の西側の海岸にたき火らしいものが見えました。その真上に行こうとしたのですが、気流が悪くて近づけません。地上ではこちらに信号で何か伝えようとしているようでした、懐中電灯の光もよく見えました。この島は無人島ですから、あの光はきっと阿蘇号の搭乗者たちのたき火や懐中電灯だと思います。阿蘇号はおそらくたき火のあった風下の島の北側に不時着したのでしょう。一同ほっとしました。持参した食糧や薬品を近くに落とそうとしたのですが、飛行機の揺れが激しくてできませんでした。暗闇の上、気流もますます荒れてきたので、やむなく引き返しました」

 (台北)

(上田孝嗣)

当時の記事について

原文どおりに表記することを原則としますが、読みやすさの観点から

  • 漢字の旧字体は新字体に
  • 句点(。)を補った方がよいと思われる部分には1字分のスペース
  • 当時大文字の「ゃ」「ゅ」「っ」等の拗音(ようおん)、促音は小文字に

等の手を加えています。ご了承ください