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昔の新聞点検隊

拡大1933(昭和8)年12月3日付東京朝日夕刊2面。画像をクリックすると大きくなります。主な直しだけ朱を書き入れています。現在の朝日新聞の表記基準で認めていない漢字の音訓や、当時は入れていなかった句点を入れる等については、原則として記入を省いています
【当時の記事】

ロシア少女の一人旅に 大田大使が情けの斡旋
まだ見ぬ父の懐ろ慕ひて

【清津特電】まだ見ぬ懐しの父親のふところを目ざしあどけない十一歳のロシア少女が我が大使の情ではるばるウラジオからニュージーランドへ父恋しさの一人旅を続ける途中、一日欧亜連絡船天草丸でウラジオから清津に寄港した、少女の名はガリナ・ボカチロフさん 母はノヴォシビリスクで

彼女を生み落すと同時に亡くなり、父は革命のロシアを逃れ十年前生れたばかりの彼女をノヴォシビリスクの親戚に預けニュージーランドに渡り、イギリスに帰化して赤十字の施療事業に働く身の上となった

やがて成長した我が児から綿々の情を訴へて帰国を促す手紙に幾夜も泣き明かしたが、国籍を変更した身の上でロシアに渡る途なく、我が児をニュージーランドに引取らうと再三努力したが、ロシアの旅券査証には日貨で約千六百円を要しなほ多額の準備が必要なので如何とも出来ず、苦しんで居たのであるが、今度国際赤十字社が斡旋し我が大田大使を通じて少女を父の許へ送ることになった

大使は一切を親切に世話してノヴォシビリスクからウラジオまで送り届けた上、大使が日本領事館宛に手紙をつけて長崎まで送りだしたもので、ウラジオでは我が渡辺総領事が天草丸の出帆まで面倒を見てここにも日露親善の国際佳話をうたはれて居る天草丸は一日午後七時清津発敦賀に向ったが、少女は長崎から同地のイギリス領事の手を経てニュージーランドに渡航のはず【写真は 大田大使】

(1933〈昭和8〉年12月3日付 東京朝日 夕刊2面)

【解説】

 お父さんに会いたい――。その思いを胸に、1人の女の子が壮大な旅に出ます。

 「親をたずねて……」と聞くと、「母をたずねて三千里」を思い浮かべる人が多いかもしれません。イタリア・ジェノバに暮らす少年マルコが、アルゼンチンに出稼ぎに行った母を捜して旅に出るという物語。1里は約4キロですから、約1万2千キロもの道のりです。今回の少女の旅はそれを上回り、直線距離で約1万4千キロ。驚きの実話です。

 1917年に起きた革命によってロマノフ王朝が倒れ、続く内戦を経てソビエト連邦が誕生したのが1922年。こんな激動の時代のただ中に、ボカチロフさんは生まれました。ソ連成立後もすぐに国情が安定したわけではなかったでしょう。父親は生まれて間もない彼女を置いてニュージーランドへ渡り、国籍を変えてまで新たな職を得ています。

 記事ではこの「国籍を変える」ことを「帰化」と表記していますが、現在は原則使わないようにしています。「帰化」は「君主の徳に感化され、服して従う」というのが本来の意味で、現代ではなじまない部分があるためです。

 また、記事が書かれた時代はソ連成立から10年も後。ですから、何度も登場する「ロシア」はすべて「ソ連」としてもらいましょう。

 さて、少女が暮らすのは、ロシア中南部に位置するノヴォシビリスク(今の紙面では、ノボシビルスクという表記をしています)。シベリア地方の中心都市で、夏は気温が30度を上回る一方、冬には零下40度まで下がることもある厳しい土地です。ここを旅の始まりに、目指すは父親のいるニュージーランド。今であれば飛行機でひとっ飛びですが、当時はそうもいかなかったでしょう。

 まず向かったのが、日本海に面した極東のウラジオストク。記事では「ウラジオ」なんて乱暴な略し方をしていますが、きちんと書きたいところです。移動には、ロシアを横断するシベリア鉄道を使ったのでしょうか。ノボシビルスクから距離にして実に約6千キロ、5日間もの道のりです。

拡大敦賀に到着したボカチロフさんを紹介した記事=1933年12月4日付東京朝日朝刊11面
 ウラジオストクからは船に乗り換えます。ニュージーランドへ直接向かう航路はなかったようですね。日本統治下にあった北朝鮮の清津に立ち寄った後、日本へ向かいます。少女が乗り込んだ「天草丸」は福井・敦賀とウラジオストクを結ぶ連絡船。もともとロシアの船でしたが、日露戦争時に日本軍が拿捕(だほ)したものだそうです。当時、日本の要人がこの船を使って大陸へ渡る記事がいくつも掲載されています。

 今回の記事は清津を出たところで終わっていますが、続報によると、清津出港から2日後には敦賀に到着。天草丸の甲板に立つボカチロフさんの写真が記事に添えられています=画像

 長い旅路、いろいろな思いが込み上げてきたのでしょう。「港に着いて青い眼に涙を一杯浮べて」いたそうです。港では熱烈な歓迎を受け、人形や果物、パン、ミルクなどを抱えきれないほどプレゼントされました。しかし、感傷に浸っている暇はありません。慌ただしく次の目的地である長崎へ向かったと書かれています。

 残念ながら、少女に関する続報はこれを最後に途絶えてしまいました。ニュージーランドへは何週間、あるいは何カ月もの旅になったはずです。今となっては、その後を知るすべはありません。

 「母をたずねて三千里」のマルコは多くの人に支えられ、成長し、母親との再会を果たしました。ニュージーランドを目指した少女も、旅の途中でいくつもの出会いを重ねたことでしょう。無事に父親のもとにたどり着き、泣きじゃくる顔が目に浮かぶようです。

【現代風の記事にすると…】

「父親に会いたい」
ソ連からニュージーランドへ 少女一人旅

 ソ連の少女が、父親の住むニュージーランドを目指して一人旅を続けている。

 少女は、ソ連・ノボシビルスク出身のガリナ・ボカチロフさん(11)。母親はボカチロフさんを出産後すぐに亡くなり、父親も革命で揺れる国内から脱出。生まれたばかりの彼女を親戚に預けてニュージーランドへ渡り、現在は赤十字で働いている。

 父親は渡航後に国籍を変更したため帰国が難しく、ボカチロフさんがニュージーランドへ向かうにも旅券の取得などに大金が必要で、2人はこれまで一度も会えずにいた。ボカチロフさんからの帰国を促す手紙に、父親は何日も泣き明かしたという。

 そんな事情を知った国際赤十字が、ボカチロフさんを父親のもとへ送り届けようと動いた。在ソ連日本大使館も計画に賛同し、少女がノボシビルスクからウラジオストクに行けるよう大田為吉大使が手配し、ウラジオストクでは渡辺理恵総領事が少女の世話をしたという。

 1日、ボカチロフさんを乗せた欧州アジア連絡船「天草丸」は清津に寄港した後、同日午後7時に福井・敦賀へ向かった。日本に着いた後は、長崎から英国領事館の協力を得て、ニュージーランドに向かうという。

(永川佳幸)

当時の記事について

原文どおりに表記することを原則としますが、読みやすさの観点から

  • 漢字の旧字体は新字体に
  • 句点(。)を補った方がよいと思われる部分には1字分のスペース
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