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昔の新聞点検隊

シャンプー中の女が無賃乗車!? 「洗髪」女の正体は

拡大1930(昭和5)年12月9日付東京朝日7面。画像をクリックすると大きくなります。主な直しだけ朱を書き入れています。現在の朝日新聞の表記基準で認めていない漢字の音訓や、当時は入れていなかった句点を入れる等については、原則として記入を省いています
【当時の記事】

洗髪の美人が百五十マイルただ乗り
宇都宮、栃木と乗回し 大詰は裁判所で籠抜け

八日午後六時頃、薄暗い東京区裁判所の守衛室に一人の円タク運転手が

「若い女に百五十マイルも乗り回された揚句の果に、裁判所で籠抜けされてしまひました」

と泣くに泣かれぬ顔つきで訴へ出た、この男は日本橋区浪花町浪花タクシー方運転手●●信一郎(二五)で同朝午前六時頃王子駅付近で一組の男女を乗せたのが始まり

男の方は町屋火葬場前で降りたが、女は途中三河島であるカフェーに少し立ち寄ってから宇都宮刑務所に行けと命じた

(略)その女は洗ひ髪で大柄の花模様のコートに紫のショール、二十歳位の小柄なすごい美人で、自動車のバックミラー(鏡)に写ったところで見ると右の眼の下に三寸位の切傷があった

宇都宮刑務所に着くと

「これは違った、女囚のゐる栃木町の栃木支所に行ってくれ」

といふので改めて栃木まで三十円の約束をして同所に着くと十五分ほどして出てき、同町の後藤といふ家具店に一度立ち寄って今度は日比谷の裁判所に行けといふ 少し変だとは思ったが美しい婦人でありそれに何しろ不景気の師走に三四十円の収入になるのでホクホクいい気持でドライヴし午後四時頃東京区裁判所供託局前に車を止めた

すると女は「百円札だから検事さんに崩してもらってくるから」とサッサと慣れた調子で囚人自動車入口から裁判所内に入ったまま遂に出てこない

(略)朝の六時から十二時間、百五十マイル、三十五円をフイにし運転手さんきつねにつままれたやうにボンヤリしてしまった

丸之内署にも届出で、一体女の正体は何者で何のための悪戯か、なぞの怪美人捜査中

(1930〈昭和5〉年12月9日付東京朝日朝刊7面)

【解説】

 「洗髪の美人が150マイルをただ乗り」――この見出しを見て、シャンプー中の女性がタクシーを乗り逃げした姿を想像してしまったのは、私だけではないでしょう。でもこの記事は1930年、今から80年前の記事。そう、これは髪を洗うことを指す「せんぱつ」ではなくて「あらいがみ」と読むのです。日本国語大辞典(小学館)で調べてみると、「洗った髪を結わないで、そのまま解きさげたもの」という意味でした。

 1930年というと、ハイヒールに洋装、短い髪というハイカラないでたちのモダンガール(モガ)が流行した時代。「毛断(モダン)嬢」という当て字まで使われており、髪の短い女性は珍しくなかったのでは?と思うのですが、まだまだ和装で髪をまとめて結い上げている女性が主流だったのでしょう。特に長い髪をさらりと下ろしている人は少なかったから、逃げた女の特徴として、こんな見出しが付いたんでしょうね。

拡大1935年4月25日付東京朝日朝刊6面に載ったシャンプーの広告。下の方に小さく「日本髪なら一回分 洋髪・少女方なら二回分」などとある
 もとはといえば、シャンプーの記事を取り上げるつもりでした。液状シャンプーの初登場が1930年、花王石鹼(現在の花王)がシャンプーを発売したのが32年。それを伝える記事はないものかと探していたところ、この150マイルをただ乗りした「洗髪」女性の記事と出会ったのです。せっかくなので今回は少し寄り道させてもらうことにしました。

 さて、髪を下ろした女はいったい何をやらかしたのでしょう? さっそく読み進めていきましょう。午後6時、薄暗い東京都内の裁判所の守衛室に円タク運転手がやってきました。泣くにも泣けない、悔しそうな表情で「若い女に150マイルも乗り回され、揚げ句の果てに裁判所で逃げられてしまった」と訴えているそうです。

 円タクとは「1円タクシー」の略で、1円均一で大都市を走っていたタクシーのこと。1924(大正13)年に大阪で走り始め、2年後に東京にも登場しました。台数の増加や不景気のため交渉次第で割引もされたそうです。後に現在のように距離ごとに料金が変わるメーターが採用され、実際には1円均一の期間は短かったのですが、「円タク」の名称はしばらくタクシーの通称として残ったのです。

 どうやら円タク運転手は、乗客の女に長距離を走り回らされた末に、お金を払ってもらえずに逃げられたようです。東京の王子駅から客の指示通り宇都宮に行き、栃木町(現在の栃木県栃木市)を経由して東京・日比谷に戻っており、その距離はなんと150マイル! キロに換算すると240キロ。新幹線の東京-長野間に相当します。

 これだけの距離を乗り回したとなると時間も相当かかるはず。当時は道路も現代のように舗装されていないでしょうし、乗客は車酔いなどしないのでしょうか。謎が深まります。

 当時は距離を表す時はマイルが普通だったのかもしれませんが、現代はメートルの方が読者にはわかりやすいので、ここでは「240キロ」としてもらうことにします。見出しも合わせて「240キロ」に。また、この見出しには「宇都宮、栃木と乗回し」とありますが、発着点を書かないとどれぐらい走り回らされたかが読者に伝わりません。ここは「東京-栃木を乗り回し」にしてはどうか、と見出しを付ける編集者に提案してみます。

 運転手の話では、無賃乗車をした女は先述の通り髪を下ろした洗い髪。大きな花模様が描かれたコートに紫色のショールというハイカラな服装で、年齢は20歳ぐらいの小柄な「すごい美人」――。

 さて、ここで校閲記者なら待ったをかける表現が一つ。「美人」とは運転手の発言そのままなのでしょうが、「美しい」の基準は人によって違います。話し言葉などの引用以外で、個人の主観に基づいて人の容姿を表すことは、現代の新聞ではめったにありません。後の文の「右の眼の下に三寸位の切傷」で女性の特徴はわかりますし、「美人」という表現は抜いてもらうことにしましょう。

 記事の最後には「丸之内署にも届け出(い)で、(略)なぞの怪美人捜査中」とあります。ここでも指摘を一つ。警察が女性を捜しているのはわかるのですが、何の容疑で女性を捜しているのかが書かれていません。無賃乗車だから詐欺容疑でしょうか。筆者に確認してもらうことにしましょう。

 しかし裁判所前で車を降りて乗り逃げするあたり、この女性もなかなか大胆です。運転手は「三十五円をフイにし」とありますが、公務員の初任給が75円ほどだったとされるこの時代。現代で換算すると10万円前後でしょうか。この年に始まった昭和恐慌の不景気の中、午前6時から10時間も走り回った運転手が気の毒です。いったいそのあとどうなったのか、と続報が気になります。

 2週間後、待ちに待った続報が掲載されました。女が東京の日比谷公園で逮捕されたことを伝えています。

拡大1930年12月24日付東京朝日朝刊7面

百五十マイルただ乗りの 洗髪美人の正体

去る八日、日本橋区浪花町タクシー運転手●●信一郎(二五)の自動車に乗り、宇都宮、栃木と百五十マイルをいい気持ちで乗り回して東京区裁判所で姿を消し●●運転手を完全に煙に巻いた洗髪の怪美人の行方につき丸之内署で捜査中であったが二十三日午後四時頃日比谷公園でのんびりと散歩中を同署員に捕へられた、この女は福井県今立郡××村××、▲▲の次女●●●●といふ 前科が二犯もある
◇…すごい女、ドライブとしゃれた動機はこれまた単純でスピード娘式な突飛さで子供の時から自動車にいやになる程乗って見たかったといふだけで係官の取調に対し「やっと念願がかなひました」としゃあしゃあしてゐるのにはさすがの係官もアッ気に取られた(略)

(1930〈昭和5〉年12月24日付東京朝日朝刊7面)

 

 この記事も「いい気持ちで乗り回して」「しゃあしゃあしてゐる」と、記者の想像で書かれたと思われる箇所が複数あります。今ならこのような先入観を含んだ書き方はしません。

 それにしても気になる乗り逃げの理由は「自動車にいやになる程乗って見たかっただけ」……。当時、それだけタクシーに乗るということが庶民のあこがれのぜいたくだった、ということでしょうか。

【現代風の記事にすると…】

東京-栃木間を往復、240キロをタダ乗り!
長い髪の女性が円タクから逃走

 8日午後6時ごろ、東京市日本橋区の「浪花タクシー」運転手●●信一郎さん(25)が東京区裁判所を訪れ、「乗客に240キロも走り回らされた上に運賃を払わず逃げられた」と届けた。逃げたのは髪の長い20歳前後の女だといい、丸之内署が詐欺容疑で行方を捜している。

 ●●さんによると、この日の午前6時ごろ、東京府王子町の王子駅付近で1組の男女を乗せた。男性は途中で降りたが、女は宇都宮刑務所に向かうように●●さんに指示した。(略)

 宇都宮刑務所に到着したところ、「間違えたので栃木町の(同刑務所)栃木支所に行ってほしい」と話したため、改めて栃木町まで30円を払うという約束をしたうえで同支所に到着。女は15分ほどで支所から出て来た後、町内の家具店に立ち寄ってから行き先を「日比谷の裁判所」と告げた。

 ●●さんは不審に感じたものの、売り上げ不振が続く中で30~40円の収入になるのがうれしく、女の指示通りに午後4時ごろ、東京区裁判所前で車を止めた。すると女は「100円札しか持っていないので、検事に両替してもらってくる」と裁判所に入り、そのまま出てこなかったという。

 走り回らされた時間は午前6時からの10時間、距離にすると240キロ、運賃にすると35円。丸之内署によると、●●さんは「キツネにつままれたようだ」と話し、ぼうぜんとしていたという。

 同署がこの女の行方を捜している。年齢は20歳前後で背は低め、右目の下に9センチほどの切り傷があったという。髪はまとめずに下ろしており、大きな花模様のコートに紫色のショールを身に着けていたという。

(梶田育代)

当時の記事について

原文どおりに表記することを原則としますが、読みやすさの観点から

  • 漢字の旧字体は新字体に
  • 句点(。)を補った方がよいと思われる部分には1字分のスペース
  • 当時大文字の「ゃ」「ゅ」「っ」等の拗音(ようおん)、促音は小文字に

等の手を加えています。ご了承ください