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昔の新聞点検隊

拡大1879(明治12)年2月20日付大阪朝日朝刊2面。画像をクリックすると大きくなります。主な直しだけ朱を書き入れています。現在の朝日新聞の表記基準で認めていない漢字の音訓や、当時は入れていなかった句点を入れる等については、原則として記入を省いています
【当時の記事】

○昨十九日午後七時十分西区五小区阿波座堀通四丁目●●番地▼▼▼▼二階より出火焼失三戸拽崩二戸同八時卅分鎮火 出火の原は下女▲▲が手誤ちより起りし由 委細は明日

(1879〈明治12〉年2月20日付 大阪朝日 朝刊2面)

【解説】【現代風にすると…】

【解説】

 明治時代の新聞を読んでいると、いまの紙面とは受ける印象が大きく違うことに驚かされます。記事の文章の表現の変化もさることながら、レイアウトのしかたも現在の紙面と違うからです。今回取り上げたのも、今では見られなくなった手法の一例。現在なら通常、記事を置かない囲み線の外側である欄外に、原稿をレイアウトする「欄外記事」です。

 現在の新聞の欄外には日付や号数、ページ数や面名などが掲載されていますが、記事は置かれていません。基本的には余白になっていて、ニュースを伝えるために紙面の一部として使われることはまずないでしょう。

 ただ、明治から昭和初期にかけて、欄外記事は朝日新聞以外でも新聞各社で広く使われた一般的な手法でした。

 なぜ欄外まで紙面の一部として使ったのか。そこには技術的な制約の中で、なんとかその日に起きた出来事をその日の紙面の中におさめようとする紙面作りの知恵と工夫がありました。

 当時の新聞は、鉛などからできた活字を組み合わせて文章の形にし、それをまとめて型に入れて紙面の元となる版を作る、という方式で印刷されていました。

拡大1927年4月1日付東京朝日夕刊1面。欄外記事廃止の社告
 そのため、いったん決めたレイアウトを変更して後から記事を入れようとすると、活字の組み替えに手間と時間がかかりました。発生時刻の遅い大きな事件があったら、その記事を入れるために、印刷の工程に支障が出てしまうかもしれません。

 そこで、突発的な事故などの場合、欄外の余白の部分に記事を入れれば、紙面製作の工程に影響を出さずに紙面に掲載できる、というわけです。

 朝日新聞社の社史によると、欄外は創刊当時から記事スペースとして使われていました。原則としてホットニュースを入れる場所だったので、レイアウトを担当する整理部記者には、血気盛んな若手記者が配され、深夜・早朝の突発事件に備えるのが常だったといいます。

 欄外記事が消えることになったのは、技術革新の結果でした。1927(昭和2)年に東京朝日の社屋が東京・京橋区滝山町(現在の銀座)から、有楽町に移転。その新社屋には米国の新しい高速度輪転印刷機を入れることになり、同時に欄外記事も廃止されることになりました。

 それまでの欄外記事用の鉛版は平面の棒状でよかったのですが、高速度輪転機で欄外に印刷するためには、その鉛版も半円形に作らねばならなくなります。そんな手間をかけるよりも、欄外の記事を欄内に収容した方が効率がよい、と判断されたようです。

 27年4月1日付夕刊から欄外記事を廃止することになりました(右上の画像が欄外廃止を知らせる記事)。ただ実際には、東京本社の紙面では3月6日付から欄外記事は消えていました。3月5日から、印刷が有楽町の新社屋で行われていたからです。

 欄外記事の廃止によって、新聞1段の行数は4行増え、朝夕刊12ページで1日578行、年間で約20万7千行増加となりました。紙幅が広がり、載せられる広告が増えたため、広告増収にもつながったようです。

拡大1893年4月7日付東京朝日朝刊1面。欄外に一度掲載された衆院補選の結果を再掲している。傍線部分には「前号欄外再録」とある
 欄外は、単に最新ニュースだけでなく、限られた紙面に、より多くの記事を盛り込むためにも利用されていたようです。突発的な事故の他、選挙の結果や、野球のイニング表や相撲の星取といったスポーツの詳報、米の相場や株価などがその対象でした。いずれも詳細がわかるのが遅いわりには重要だ、という価値判断がなされていたのでしょう。

 また、一度載せた欄外記事を、翌日の紙面で再度欄内に掲載するということも行われていました(左の画像)。

 冒頭に紹介した原稿でも、詳細は「明日(伝える)」としています。しかし、翌日の紙面には詳細が掲載されていませんでした。その後も続報が紙面に載ることはなかったようです。結局詳細が明らかにならなかったのでしょうか。

拡大1900年6月23日付東京朝日朝刊1面。「欄外を看よ」の注
 未来のことで「絶対」はないというのが新聞づくりの鉄則。「委細は明日」という文言を削るか、「詳細は明日掲載の予定」などとしたほうがよいのでは、と提案してみます。

 1900年6月には、「欄外を看(み)よ。重要事項数多し」という注が欄内に登場しました(右の画像)。実際に重要な情報が掲載されていたのでしょうが、「だったら欄内に入れた方がいいよね……」という気がしてしまいます。

 同じような感想を持つ人は当時もいたようで、ジャーナリストの宮武外骨はエッセー集「つむじまがり」(1917年)で、本来枠内に入れるべき記事を余白に組み込むことを「愚劣の習慣」と批判しています。

 一方で、新聞に関する書籍「新聞読者眼」(1919年)では、緊急事件に注目する人はこの欄外を必ずチェックしている、として、「要するにノドは最新記事の、而(しか)も重要なものが時に現はれる特殊領域と承知して居らねばならぬ」とされています。違いのわかる大人という感じでしょうか。

 ちなみに「ノド」は「書物の各ページの背に近い部分。また、とじ目の余白。新聞のページの境の余白部分」(日本国語大辞典)のこと。今では新聞社内でもあまり聞かない使い方です。

 活字を組んだ後、他の部分をいじらずに紙面を作ることができるようにするために生まれた欄外記事。いまの目から見ると、不自然な分、欄外にある記事は他の原稿よりも目を引くようになっています。

 新聞の作り方は、技術の進化に合わせて鉛版からオフセット印刷、さらにデジタル紙面へとどんどん変わっています。事情が変わると、求められる製作上の工夫もどんどん変わっていくのが新聞の面白いところです。

 時間の制約が生んだ苦肉の策が、結果的に面白い表現となった欄外記事。「続きは朝日新聞デジタルで」の時代に読み返してみるのも面白いかもしれません。

 【当時の記事】【解説】【現代風にすると…】

拡大1920年5月12日付東京朝日朝刊5面。野球の経過を欄外に掲載している
拡大左の記事の欄外部分


1918年3月7日付東京朝日朝刊4面。原稿が欄内から欄外へと続いていて、さらにその続きは5面に掲載されている
拡大左上の記事の欄内部分

【現代風の記事にすると…】

■大阪・西区で火事、5軒焼ける 19日午後7時10分ごろ、大阪市西区五小区阿波座堀通4丁目の▼▼▼▼さん方2階から出火し、住宅3軒が全焼、2軒も被害を受けた。同8時30分ごろ消火された。警察の調べによると、出火当時、家政婦の▲▲▲▲さんが火を使っていたという。

(市原俊介)

当時の記事について

原文どおりに表記することを原則としますが、読みやすさの観点から

  • 漢字の旧字体は新字体に
  • 句点(。)を補った方がよいと思われる部分には1字分のスペース
  • 当時大文字の「ゃ」「ゅ」「っ」等の拗音(ようおん)、促音は小文字に

等の手を加えています。ご了承ください