昔の新聞点検隊
(2012/12/11)
【当時の記事】
私しゃ憂うつです 半身不随の公衆電話君
私は公衆電話です、名前は「本所公衆三一」と申します、皆さん御覧下さい この暑い日中に私は下半身を土の中に埋もれてぢっと醜い姿を町の人々の前にさらしてゐます
◇
こんなになった原因はといへば私の目の前にかかってゐる福島橋さんが今年の五月新装した時の地盛の際に私だけが取り残されてしまったからです
それから以来私のかたはらを通る人々は哀れな私の姿を見ては色々なことを聯想するのです、たとへば北国で育った人達は、雪に埋もれた故郷の冬を思ひ浮べて涙したり、感受性の強い舞台監督は素晴らしい表現派の舞台装置を思ひついて頰笑んだり――するのです
◇
だがみじめなのは雨の日です、私の体は全く雨水の中にぐっしょりとつかってしまひます、然し町の人達は私を見捨てもせずに尻はしょりで、すねまでぬらして電話をかけます
聴いてゐる人はこのお気の毒な相手の人のことはちっとも知らないでゐるだらうと思ふと本当に我身を忘れて同情したくなります
◇
――かうして雨の日も風の日も働きをやめない私をなぜお役所では見捨て居るのでせう
「逓信省にお金がなければ貸してやらう――」
と近所の酒屋さんではいってゐます 私は本当に憂うつです、私はそのため二六時中かうして首をかしげて考へてゐます
(1929〈昭和4〉年9月4日付 東京朝日 夕刊2面)
【解説】
今年、携帯電話の人口普及率(全人口に対して契約数が占める割合)が100%を超え、「1人1台」の時代になりました。その影響もあり、1985年のピーク時に約93万台あった公衆電話は2011年に約25万台にまで減少。しかし東日本大震災で帰宅難民があふれた首都圏で、公衆電話の前に長蛇の列ができたことはまだ記憶に新しいところです。停電や規制で携帯電話がつながらない中、優先的に通話ができた公衆電話はその価値を見直されました。
1890(明治23)年、日本で電話通信が始まります。まだ自分の家に電話をひく人は少なかったため、ひろく利用できるよう東京と横浜に「電話所」がおかれました。しかし初めはわずか16カ所で、まだ身近な存在とはいえませんでした。
電話所へ出かける不便さを取り除くべく、公衆電話が登場します。1900(明治33)年のことです。東京の新橋、上野駅で始まり、同じ年にボックス型も生まれます。当時はまず相手の電話番号を交換手に伝え、お金を入れてつなげてもらう方式でした。もっとも、いまのような自動収納装置ではなく、料金を入れると5銭硬貨は「チーン」、10銭硬貨は「ボーン」という音がし、交換手はそれを聞いて接続時間を決めていたそうです。
「公衆電話」の名称が生まれたのは1925(大正14)年。それまでは「自働電話」と呼ばれていましたが、「ダイヤル自動方式」ができてまぎらわしくなったためといいます。正岡子規は絶筆となった随筆「病牀(びょうしょう)六尺」の中で、「自分の見た事のないもので、ちょっと見たいと思ふ物」として、活動写真(映画)や浅草水族館、ビアホールなどと並んで「自働電話」を挙げています。
さて今回取り上げる記事は、ある公衆電話の独白という、斬新な形式です。現代の紙面を扱う校閲記者にとっては扱い慣れない文体だけに、心して点検に臨みましょう。
まず見出しの「半身不随」が気になります。「不随」は体が思うように動かないこと、自由がきかないこと。公衆電話はもともと動かないものですし、外的な要因によって動けないことを「不随」と言うのは違和感があります。公衆電話を擬人化した娯楽記事ではありますが、だからこそ病気やけがで体が不自由な読者は不快に感じるでしょう。「土に埋もれた公衆電話」などの代案を出すことにします。
「それから以来」は重言ですね。「それから」か「以来」のどちらかにするか、「それ以来」としてもらいましょう。
時代を感じる表現も見つけました。「尻はしょり」は着物の裾をまくって、端を帯にはさむこと。「尻からげ」とも言います。当時は着物が普段着だったのだなあと、改めて感じます。洋服を着る人が多い現代なら「裾をまくって」などと書くところでしょうか。
「二六時中」は、四六時中の間違い?と思ってしまいますが、こちらがもともとの表現です。「一日中」「終日」を表すことばで、昼と夜の時間をそれぞれ6等分していたころは「二六時中」でしたが、明治になって24時間制が導入されると「四六時中」が使われるようになりました。辞書を引くと、江戸時代には1杯12文のそばを「二六そば」と言ったり、1合12文で燗酒(かんざけ)を売る店を「二六店」「二六屋」と呼んだりしていたことがわかります。2×6=12は当時の日本人にとってなじみやすい数式だったのかもしれません。
公衆電話に話を戻しましょう。記事の写真をよく見ると、電話ボックスが現在とは違う形をしていることに気づきます。実はもともと、このような六角形が主流でした。四角形になるのは昭和に入ってからで、色も赤から薄ねずみ色へと変わります。当時は四角形のボックスがモダンに見えると評判だったようですが、現代から見ると六角形の方が新鮮ですよね。
公衆電話と切っても切れない関係にあるのが硬貨です。テレホンカードの登場は1982(昭和57)年まで待たなければならず、それまではいくらお金を持っていても、硬貨がなければ公衆電話は使えませんでした。経済状況などによって硬貨の重さや大きさが変わると、公衆電話も対応する必要が出てきます。
1920(大正9)年、新しい5銭白銅貨がつくられました。当時の公衆電話ではこの硬貨が使えなかったため、逓信省と大蔵省で対応策が話し合われます。「旧5銭白銅貨と同じ形の金属をつくって、切手のように売る」などの案も出たようですが、最終的には電話機自体をつくりかえることで決着しました。
これは硬貨の大きさが変わったために起きた問題でしたが、材料が変わることもありました。1940(昭和15)年、戦争で銅やニッケルが不足したため、硬貨はアルミニウムでつくるようになります。公衆電話にとっては困った事態になりました。重さが半分以下になり、前述の「チーン」「ボーン」という音が交換手に聞こえづらくなったのです。アルミ硬貨の使用を禁止するわけにもいかず、交換手は利用者を信用するほかありませんでした。
さらに1944(昭和19)年になると、アルミに代わって錫(すず)が使われます。大きさもさらに小さくなって、5銭用の投入口に10銭を入れることになりました。このころ、公衆電話の料金は全国一律で10銭になります。
「日本の電話」(1967年、朝日新聞社編)によると、硬貨の変化は公衆電話に大きな影響を与えるため、戦後、電電公社(現NTT)は「10円玉の大きさや重さをかえるときは、前もって相談してほしい」と大蔵省に申し入れていたそうです。大蔵省も、「よほどのことがない限り、10円玉はつくりかえない」と決めたといいます。
テレホンカードなどを持っていなければ、公衆電話に硬貨が必要なのは今も同じ。ICカードの普及で「財布いらず」になりつつある昨今、災害時などに備えて財布を少し重くしておくのもいいかもしれません。お近くの公衆電話が健在かどうかも、できれば確認しておきましょう。
【現代風の記事にすると…】
私は憂鬱です 土に埋もれた公衆電話
私は公衆電話の「本所公衆31」と申します。皆さんご覧下さい。この暑い日中に、私は下半身が土に埋まった姿を町の人々にさらしています。
◇
こうなってしまったのは今年の5月、私の目の前にかかっている福島橋さんの改装工事をするときでした。土で地面を盛り上げるのですが、私だけ取り残されてしまったのです。
それ以来、通りかかる人たちは哀れな私の姿を見て色々なことを連想するようです。北国で育った人たちは、雪に埋もれた故郷の冬を思い浮かべて涙する。感受性の強い舞台監督は、すばらしい表現派の舞台装置を思いついてほほ笑む。
◇
だけど雨の日はみじめです。私の体は雨水にぐっしょりとつかってしまいます。しかし町の人たちは私を見捨てず、尻はしょりですねまでぬらして電話をかけます。
電話の向こう側では、こちらがびしょぬれで電話をかけていることはちっとも知らないでいるだろうと思うと、自分のことを忘れて同情したくなります。
◇
――こうして雨の日も風の日も働く私を、なぜ役所は見捨てるのでしょう。
「逓信省にお金がないなら、貸してやろう」と近所の酒屋さんは言います。私は本当に憂鬱(ゆううつ)です。四六時中首をかしげて考えています。
(森本類)
原文どおりに表記することを原則としますが、読みやすさの観点から
等の手を加えています。ご了承ください