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昔の新聞点検隊

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拡大1935(昭和10)年10月8日付東京朝日新聞朝刊11面。画像をクリックすると大きくなります。主な直しだけ朱を書き入れています。現在の朝日新聞の表記基準で認めていない漢字の音訓や、当時は入れていなかった句点を入れる等については、原則として記入を省いています
【当時の記事】 

関根名人制覇の秘話 不思議な駒の威力 向ふ所敵なし! 花田八段兜を脱ぐ

将棋の名人が世に秘めた奇しき「駒」の風流話――十三代名人関根金次郎翁(六八)は家宝として錦の袋に入った不思議な将棋の駒を秘蔵してゐる 「この駒の進む所敵なし」といふ伝説に飾られた駒こそは名人が諸国遍歴の苦業時代から常に肌身離さず大切なマスコットとして秘愛してゐたもので現在では古いお弟子さんでも殆ど見た事がないといはれる珍品である、その駒がはからずも幾十年振りで再び陽の目を浴びて名人の「無敵手合せ」に昔の伝奇的威力を振ふ事になった

◇…日本将棋連盟主催で坂口塚田両六段の昇段披露祝賀会が芝浦の「いけす」で開かれた六日の夜だ、関根名人はお弟子さんの昇段を心から喜んで花田八段と珍しく盤を交へた 「今日はお芽出度い日ぢゃ」と名人は懐中から色褪せた錦の袋を取出してパラパラと古ぼけた駒を並べた、「ホウ、珍しい駒で―」と首を曲げた強豪花田八段は名人と香落で対局したがアッサリうっちゃられて了った 「花田君、これが例の駒だよ!」と哄笑した名人の手元には飴色にくすんだ黄楊の駒が大きくクローズ・アツプされてゐた

◇…明治卅五年の秋だ、当時三十四歳で七段の腕前の関根名人は枯葉を踏みしめながら寂しい越後路をトボトボ将棋の武者修業に歩いてゐた、新潟から小さな船でヤッと辿り着いたのが山形県酒田港だ、土地の豪農で当時奥州切っての指し手といはれた竹内丑松六段方に「草鞋」を脱いだ関根名人は例の無鉄砲な調子で早速、酒を二、三升ペロリと平らげると家人尻目に遊郭に繰込んだ

呆気にとられた竹内六段は「無礼千万な田舎棋士奴!」と憤慨してゐると翌朝、ケロリと舞戻った名人は前夜とは打って変って棋盤に対座すると神の如き妙手、また妙手、冑を脱いだ竹内六段は「この人こそかねて自分が探し求めてゐた名人である」と忽ち心服して持出したのが錦の駒袋だ

これは曽祖父から家に伝はる秘宝で、将来名人たる人に手渡して呉れと書き遺されてゐる、貴方こそその名人です

といはれて差出されたのが黴の生えた、古い黄楊の駒だ、成程、代代将棋の名家を誇った竹内家の先祖が丹精をこめて作っただけに雪の中に育った木目の細かい黄楊の柾目は布で拭くとしっとり落着いた飴色のいふにいはれぬ名駒の面影がある 「有難く頂戴仕ります」と関根名人は身すぼらしい服装にも錦の駒袋だけはしっかり懐に押へながら再び草鞋をはいて他流試合の遍歴の旅に上った

◇…春秋幾星霜―関根名人の向ふ所に敵はなかった 「あの駒を使ふと承知しねえゾ」と賭事師から脅かされながら遂に大正八年、十三代名人の覇業を成し遂げた

名人になってから十数年、あの駒は秘蔵して一度も使はなかった、ところがね、私も年を取るし名人の地位もその中八段の優勝者に譲るので一つ昔に返って落着いて指し度い気になった

暴ばれん坊の昔を偲ばせる関根名人は七日午後、自宅の座敷で例の錦の駒を丁寧に拭き拭き語る

昨夜久し振りで使って見たら勝ったよ、ワッハハハ、今の将棋指しは楽になったがねエ、俺の若い頃はスッカラカンで全国を足で指して歩いたもんだ、歩かなければメシが食へないし上達も出来なかった、考へて見ると俺の一生を支配したこれは不思議な駒だよ【写真は駒を見る関根名人】

(1935〈昭和10〉年10月8日付東京朝日新聞朝刊11面)

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【解説】 

 この冬はいつにも増して寒さが厳しくなっていますが、将棋の世界はタイトルをめぐる熱い戦いの季節を迎えています。第38期棋王戦は3日に第1局があり、第62期王将戦は来週第3局が行われます。第71期名人戦の挑戦者はA級順位戦の最終9回戦を前にまだ決まらず、プレーオフの可能性もあります。七つのタイトル戦には含まれませんが、今月9日には朝日杯の準決勝・決勝もあります。王将戦・棋王戦は挑戦者もタイトルホルダーというとても豪華な顔合わせです。

拡大1917年に対局する関根(左)とライバルの阪田三吉。中央は関根の前の名人・小野五平=関根家から寄託、千葉県野田市の関根名人記念館展示
 さて、将棋のタイトルで最も歴史があるのは名人位ですが、今回はその名人位を終身の名誉職からタイトル戦によって獲得する実力制に変えた、最後の名誉職名人・関根金次郎にまつわる伝説です。

 当時の名人位については、昨年5月の本コーナー「こっそり名人になってました?!」()をご参照ください。家元による世襲制が行き詰まり、初めて家元外から推薦によって就位したのが12世名人・小野五平で、小野の死後、やはり推薦によって13世名人になったのが関根です。

 当時は死ぬまで名人という終身の「一世名人」制で、小野が大変長寿だったため(89歳)、関根は名人就位のころには盛りを過ぎていた、と同情的に評されることもある人物です。

 ではいつも通り校閲していきましょう。まず見出しの「制覇」という言葉が気になります。「制覇」は「競争者を負かして権力をにぎること。また、競技などで、優勝すること」(広辞苑第6版)。当時の名人位は実力制ではありません。もちろん名人に推薦されるには実績も伴っていなければなりませんが、名人位を直接自力で獲得することはできません。「名人就位の秘話」などでどうかと提案します。

 記事本文の最下段にある「覇業」も同様です。「覇業」は「覇権(優勝者としての資格、覇者としての権力)を制すること」(同)ですので、これも当時の名人については適当ではありません。やはり「就位」などにするのがよいでしょう。

拡大関根が練習用に使った駒=関根家から寄託、関根名人記念館展示
 1段目の「マスコット」は、現在は団体や催事のシンボルとなる動物やキャラクターを示すことが多いですが、もとは「幸運をもたらす人または物」という意味でした。今回はこちらの意味なので間違いではありません。しかし現代ではラッキーアイテムというよりもファンシーなキャラクターと取られかねないので、「幸運を呼ぶ駒」などと言い換えてはどうかと提案してみましょう。

 2段目の「坂口塚田両六段」は初めて出てくる人名ですのでフルネームにしてもらいます。3行あとの「花田八段」も同様です。それぞれ、坂口允彦九段、塚田正夫名誉十段、花田長太郎九段のことです。

 また、両六段を関根名人の「お弟子さん」としていますが、日本将棋連盟のホームページによると、両者とも師匠を花田としています。花田が関根の直接の門下のようですので、「お弟子さん」としてよいか念のため確認してもらいます。

 3段目からはこの駒が関根の手に渡った経緯が書かれています。「新潟から小さな船でヤッと辿り着いた」とありますが、「ヤッと」だとかけ声のようですね。ひらがなにしてもらいます。

 関根が竹内家を訪れた時期についてインターネットで検索すると、1904(明治37)年とするものしか出てきません。冒頭の「明治卅五年」「当時三十四歳」と食い違います。個人のサイトばかりですが、中にはこの駒を渡した竹内丑松が著した「将棋漫話」を根拠としているものもあるので、念のため確認してもらいましょう。

 駒の制作者についても、インターネットでは多くが「祖父」としています。時期と同様「将棋漫話」が根拠になっているようなので、こちらも一緒に確認してもらいます。

 なお、関根の出身地にある野田市立せきやど図書館(千葉県)で「将棋漫話」を調べてみたところ、時期は1904年、制作者は祖父としていました。また、関根の奔放さは有名な話で、竹内もあぜんとはしたものの憤慨していた様子は文章からはうかがえません。読み物として劇的にするために、記事は少しおおげさにしているようです。

 最後に、5段目で名人就位の年を大正8(1919)年としていますが、将棋連盟のホームページや就位当時の記事によると1921年のようです。これも確認が必要です。

 さてこの「無敵の駒」。この駒の文字は竹内が書いているので、この書体の駒は竹内の雅号から「淇洲」と呼ばれていますが、関根がこの駒で連戦連勝だったため、官軍の錦の御旗になぞらえて「錦旗」とも呼ばれたそうです。でも本当に無敵だったのでしょうか。

拡大関根が晩年に使った旅行用の籠=関根家から寄託、関根名人記念館展示
 現代の名棋士・羽生善治3冠の通算勝率は7割2分ほど。戦後の年間最高勝率記録は1967年度、中原誠16世名人の8割5分4厘5毛。この時でさえ8回負けています。

 ことの真偽を確かめるため、野田市にある関根名人記念館にきいてみました。

 「無敗ということはないと思いますよ。関根自身は『大事な対局の時に使った』とは言っています」(記念館責任者の松尾師孝〈みつよし〉野田市土木部長)。宿命のライバル・阪田三吉との対局も負け越していますし、やはりそんなにうまくはいかないと考えるのが自然でしょう。

 しかし、棋譜にもどんな駒を使ったかは書き残されていませんから、どんな対局で使われたのかも分からないとのこと。この駒を使った時だけは本当に勝っていたのかもしれません。

 この駒は、関根のあと2人の手を経て、行方不明になってしまったと言われています。伝説は伝説のまま、楽しむことにいたしましょう。

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【現代風の記事にすると…】 

関根名人就位の秘話 不思議な駒の威力 向かうところ敵なし! 花田八段完敗

 将棋の名人が世に秘めた、不思議な駒のお話――関根金次郎13世名人(67)は、家宝として錦の袋に入った不思議な将棋の駒を秘蔵している。「この駒の進むところ敵なし」という伝説の駒で、名人が諸国遍歴の修業を重ねていたころから肌身離さず持ち歩き、幸運を呼ぶ駒として大切にしてきた。現在は古い弟子でもほとんど見たことがないという。その駒がはからずも数十年ぶりに表舞台に出て、名人の手合わせに伝説的威力をふるった。

     ◇

 6日、坂口允彦、塚田正夫両六段の昇段披露祝賀会(日本将棋連盟主催)が東京・芝浦の料亭「いけす」で開かれた。両氏の師匠・花田長太郎八段は関根名人の弟子であり、孫弟子の昇段を喜んだ名人は、花田八段と珍しく盤を挟んだ。

 「今日はおめでたい日じゃ」と名人は懐から色あせた錦の袋を取り出して、古ぼけたあめ色のツゲの駒を並べた。「ほう、珍しい駒で」と首をかしげた花田八段は名人と香落ちで対局したが、あっさりうっちゃられてしまった。「花田君、これが例の駒だよ!」。名人は大声で笑った。

     ◇

 1904(明治37)年の秋、当時36歳で七段だった関根名人は、将棋の武者修業に赴いた新潟から船で山形県酒田市に向かった。悪天候に見舞われ、やっとたどりついた先は竹内丑松六段方。竹内六段は酒田の豪農で、当時東北きっての指し手と言われた人だ。名人はいつもの無鉄砲な調子で、早速酒を2、3升平らげると、家人を尻目に遊郭に繰り込んでしまった。

 竹内六段はあっけにとられていたが、翌朝けろりとした様子で戻った名人は前夜とは違って対局に臨み、妙手の連続。かぶとを脱いだ竹内六段は「この人こそかねて自分が探し求めていた名人だ」と心服し、錦の駒袋を差し出した。

 「これは祖父から家に伝わる秘宝で、将来名人にふさわしい人に手渡してくれと書き残されていた。あなたこそ、その名人です」

 中にはかびの生えた、古いツゲの駒が入っていた。名の知れた指し手でもあった祖父・伊右衛門氏が作ったその駒は、雪の中で育った木目の細かいツゲの柾目(まさめ)材で、布で拭くとしっとりとしたあめ色になり、名駒の雰囲気が漂う。

 「ありがたくちょうだいいたします」。質素な身なりの名人は錦の駒袋を懐にしっかりおさめて、再び修業の旅に出た。

     ◇

 それからいくつもの季節が過ぎ、関根名人は無類の強さを誇った。「あの駒を使うと承知しねえぞ」と賭け事師に脅されたりしながらも、1921(大正10)年、13世名人に就位した。

 「名人になってから十数年、あの駒は秘蔵して一度も使わなかった。ところがね、私も年を取るし、名人の地位もそのうち八段同士の対局の優勝者に譲るので、ひとつ昔に返って落ち着いて指したい気になった」

 かつての暴れん坊だった姿が垣間見えた関根名人は、7日午後、自宅で錦の駒を丁寧に拭きながら語った。

 「昨夜、久しぶりに使ってみたら勝ったよ、ワッハハハ。今の将棋指しは楽になったがねえ、俺の若いころはすっからかんで全国を足で指して歩いたもんだ。歩かなければ飯が食えないし、上達もできなかった。考えてみると、俺の一生を支配したこれは不思議な駒だよ」

【写真説明】駒を見る関根名人=7日午後

(森ちさと)

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読み物として劇的にするために、記事は少しおおげさにしているようです。

 最後に、5段目で名人就位の年を大正8(1919)年としていますが、将棋連盟のホームページや就位当時の記事によると1921年のようです。これも確認が必要です。

 さてこの「無敵の駒」。この駒の文字は竹内が書いているので、この書体の駒は竹内の雅号から「淇洲」と呼ばれていますが、関根がこの駒で連戦連勝だったため、官軍の錦の御旗になぞらえて「錦旗」とも呼ばれたそうです。でも本当に無敵だったのでしょうか。

拡大関根が晩年に使った旅行用の籠=関根家から寄託、関根名人記念館展示
 現代の名棋士・羽生善治3冠の通算勝率は7割2分ほど。戦後の年間最高勝率記録は1967年度、中原誠16世名人の8割5分4厘5毛。この時でさえ8回負けています。

 ことの真偽を確かめるため、野田市にある関根名人記念館にきいてみました。

 「無敗ということはないと思いますよ。関根自身は『大事な対局の時に使った』とは言っています」(記念館責任者の松尾師孝〈みつよし〉野田市土木部長)。宿命のライバル・阪田三吉との対局も負け越していますし、やはりそんなにうまくはいかないと考えるのが自然でしょう。

 しかし、棋譜にもどんな駒を使ったかは書き残されていませんから、どんな対局で使われたのかも分からないとのこと。この駒を使った時だけは本当に勝っていたのかもしれません。

 この駒は、関根のあと2人の手を経て、行方不明になってしまったと言われています。伝説は伝説のまま、楽しむことにいたしましょう。

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関根名人就位の秘話 不思議な駒の威力 向かうところ敵なし! 花田八段完敗

 将棋の名人が世に秘めた、不思議な駒のお話――関根金次郎13世名人(67)は、家宝として錦の袋に入った不思議な将棋の駒を秘蔵している。「この駒の進むところ敵なし」という伝説の駒で、名人が諸国遍歴の修業を重ねていたころから肌身離さず持ち歩き、幸運を呼ぶ駒として大切にしてきた。現在は古い弟子でもほとんど見たことがないという。その駒がはからずも数十年ぶりに表舞台に出て、名人の手合わせに伝説的威力をふるった。

     ◇

 6日、坂口允彦、塚田正夫両六段の昇段披露祝賀会(日本将棋連盟主催)が東京・芝浦の料亭「いけす」で開かれた。両氏の師匠・花田長太郎八段は関根名人の弟子であり、孫弟子の昇段を喜んだ名人は、花田八段と珍しく盤を挟んだ。

 「今日はおめでたい日じゃ」と名人は懐から色あせた錦の袋を取り出して、古ぼけたあめ色のツゲの駒を並べた。「ほう、珍しい駒で」と首をかしげた花田八段は名人と香落ちで対局したが、あっさりうっちゃられてしまった。「花田君、これが例の駒だよ!」。名人は大声で笑った。

     ◇

 1904(明治37)年の秋、当時36歳で七段だった関根名人は、将棋の武者修業に赴いた新潟から船で山形県酒田市に向かった。悪天候に見舞われ、やっとたどりついた先は竹内丑松六段方。竹内六段は酒田の豪農で、当時東北きっての指し手と言われた人だ。名人はいつもの無鉄砲な調子で、早速酒を2、3升平らげると、家人を尻目に遊郭に繰り込んでしまった。

 竹内六段はあっけにとられていたが、翌朝けろりとした様子で戻った名人は前夜とは違って対局に臨み、妙手の連続。かぶとを脱いだ竹内六段は「この人こそかねて自分が探し求めていた名人だ」と心服し、錦の駒袋を差し出した。

 「これは祖父から家に伝わる秘宝で、将来名人にふさわしい人に手渡してくれと書き残されていた。あなたこそ、その名人です」

 中にはかびの生えた、古いツゲの駒が入っていた。名の知れた指し手でもあった祖父・伊右衛門氏が作ったその駒は、雪の中で育った木目の細かいツゲの柾目(まさめ)材で、布で拭くとしっとりとしたあめ色になり、名駒の雰囲気が漂う。

 「ありがたくちょうだいいたします」。質素な身なりの名人は錦の駒袋を懐にしっかりおさめて、再び修業の旅に出た。

     ◇

 それからいくつもの季節が過ぎ、関根名人は無類の強さを誇った。「あの駒を使うと承知しねえぞ」と賭け事師に脅されたりしながらも、1921(大正10)年、13世名人に就位した。

 「名人になってから十数年、あの駒は秘蔵して一度も使わなかった。ところがね、私も年を取るし、名人の地位もそのうち八段同士の対局の優勝者に譲るので、ひとつ昔に返って落ち着いて指したい気になった」

 かつての暴れん坊だった姿が垣間見えた関根名人は、7日午後、自宅で錦の駒を丁寧に拭きながら語った。

 「昨夜、久しぶりに使ってみたら勝ったよ、ワッハハハ。今の将棋指しは楽になったがねえ、俺の若いころはすっからかんで全国を足で指して歩いたもんだ。歩かなければ飯が食えないし、上達もできなかった。考えてみると、俺の一生を支配したこれは不思議な駒だよ」

【写真説明】駒を見る関根名人=7日午後

(森ちさと)

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当時の記事について

原文どおりに表記することを原則としますが、読みやすさの観点から

  • 漢字の旧字体は新字体に
  • 句点(。)を補った方がよいと思われる部分には1字分のスペース
  • 当時大文字の「ゃ」「ゅ」「っ」等の拗音(ようおん)、促音は小文字に

等の手を加えています。ご了承ください