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昔の新聞点検隊

拡大1889(明治22)年11月23日付東京本社版朝刊4面。画像をクリックすると大きくなります。主な直しだけ朱を書き入れています。現在の朝日新聞の表記基準で認めていない漢字の音訓や、当時は入れていなかった句点を入れる等については、原則として記入を省いています

【当時の記事】

●歌舞伎座開場

同座は前にも記したる通りいよいよ一昨廿一日を以て開場したり 当日は予て絵番附欄外に「満員」と断り置きたる如く一切通常の見物を謝絶し場内は都て朝野の紳士新聞記者及び同座に縁故関係の人々のみを招待して充満せしめたり 扨場内を一覧するに旧劇場の構造を改めたる処少なからず マヅこれまでに無き三階の桟敷を新に設けまた向正面の桟敷を少しく近めて東西の桟敷同様上等の場所となし尚また下桟敷の前に新高といふ場所一側を増し平土間の間には小溝の如き往来を造りたる抔は尤も著るしき改良の構造といふべし 都て桝敷は三百廿五ありて例の立見連の場所とも云べきは三階桟敷の後ろ及び向正面桟敷の後となり運動場は劇場の表二階に設けありてここに飲食店其他簪屋等の出店あり 詳しくは一度御見物のこととして之を略す 扨また同日午後五時半頃に至り福地座長舞台幕外に於て諸来賓に対し挨拶あり 尚簡単に演劇改良の目的を以て同座を建築したる趣旨を演べ次で此度はホンの舞台ならしの為め有ふれたる演劇を興行する由を披露し夫より始めて開場し二幕目丹前風呂二階の場、呉服橋内桝形の場、小石川伝通院の場、四幕目両国広小路の場、町奉行白洲の場、大切六歌仙所作事までを演じて打出したるが初日乍ら評判囂ましきは按摩玄碩の松助。また一手専売無類との評は水戸黄門の団十郎。相変らず手器用にして居るは河童の吉蔵の菊五郎。其他六歌仙は団十郎、左団次、権十郎、家橘菊五郎、高福といふ顔揃ひにて久し振の大芝居面白いことなりし 尚惣幕出揃ひの上は一日見物の上例の駄評を試むべし

(1889〈明治22〉年11月23日付東京本社版朝刊4面)

拡大4月に開場する新しい歌舞伎座=2月19日、東京都中央区銀座4丁目
【解説】

 新しい歌舞伎座が4月2日に開場します。伝統の桃山様式の華麗な唐破風(からはふ)の屋根と白壁に映える赤い欄干は、改築前の外観そのままです。

 歌舞伎座はそもそも、東京日日新聞の主筆も務めた福地源一郎らにより、歌舞伎の近代化を目指した演劇改良運動の一環として、現在地(当時は東京市京橋区木挽町)に建てられました。その後、火災や戦災などで幾度となく建て替えや改築を繰り返すことになるのですが、今回は最初の歌舞伎座の開業初日の様子を紹介した記事を取り上げます。

 記事にはありませんが「初代」の外観は洋風、内部は純日本風の3階建ての大劇場で、照明には当時としては最新技術の電灯を使っていました。また、歌舞伎座の座紋である鳳凰丸(ほうおうまる)は、この時から使われていたようです。記事には劇場内部の説明から演目、劇評まで書いてあります。

 開業は1889(明治22)年11月21日。初日は325の座席すべてが招待客で埋まったようですが、「朝野の紳士……のみを招待して充満せしめたり」とは、ものではないので「充満」はどうでしょうか。「官民の招待客で満員」ぐらいにしたいところです。

 明治の記事ですから、現在とは言い回しや表現も異なりますが、文の終わりに付ける句点「。」が一部にだけが使われていたり、「うしろ」は「後」「後ろ」が混在したりしています。今なら「。」をすべての文の切れ目に入れます。また、漢字の送り仮名などは「朝日新聞の用語の手引」で統一していて、「うしろ」は「後ろ」としています。

 さて、その後の歌舞伎座の歴史を松竹発行「歌舞伎座百年史」などで簡単に振り返ってみましょう。記事に登場する最初の歌舞伎座は老朽化が進んだことに加えて、1911(明治44)年3月に帝国劇場がオープンしたことから、同7月には建て替えに着手。土台や骨組みを残して純日本式の宮殿風に改築されました。

 しかし1921(大正10)年10月に漏電で焼失してしまいます。そこで鉄筋コンクリートを使用した「不燃構造で和風意匠を持つ劇場」として生まれ変わることに。関東大震災で工事が一時中断しましたが、1924年12月に完成。奈良朝の典雅壮麗さと桃山時代の豪華絢爛(けんらん)さをあわせもった設計が注目されました。

拡大「三代目」歌舞伎座の開場を知らせる記事=1925年1月2日付東京本社版朝刊7面

 その建物も1945(昭和20)年5月に空襲で焼けおちてしまうのです。戦後、焼け残った基礎部分や側壁の一部を利用して、戦前の外観を思わせるデザインで建て替えられました。それが3年前まで「現役」だった歌舞伎座で2002(平成14)年には「登録有形文化財」になりました。

 記事に戻りましょう。開業初日はまず座主である福地源一郎があいさつし、それから演目が上演されたようです。

 開場時の演目は狂言「俗説美談黄門記」と、所作事(歌舞伎舞踊)「六歌仙」です。黄門記は水戸光圀役を九代目市川団十郎がつとめました。ほかには五代目尾上菊五郎、初代市川左団次、小団次、福助、秀調、家橘、松助、源之助、新蔵、中村寿三郎、八百蔵ら明治の名優たちがそろって顔をそろえました。観劇料は上等桟敷で4円70銭でした。

拡大新しい歌舞伎座は、改築前の外観を引き継いだ劇場の上に39階建てのオフィスビルがそびえる=2月24日、東京都中央区銀座4丁目
 「惣幕出揃ひの上は……」とあるのは団十郎、左団次の掛けもち出演と裏方の不慣れが重なり、幕間が延びて狂言が出そろわなかったことをいっているようです。後日談ですが、予定通りの演目をそろって観劇できたのは9日目の29日のことだったとか。

 「初代」歌舞伎座では団十郎、菊五郎、左団次が「団菊左」と称され、ここを舞台に明治の黄金時代を築きました。「五代目」となる新しい歌舞伎座は、坂田藤十郎、坂東三津五郎、中村吉右衛門、尾上菊五郎、坂東玉三郎、松本幸四郎、中村橋之助ら豪華な出演者が一堂に会して幕を開けます。

 開業を待たずに勘三郎、団十郎と現代の歌舞伎界を代表する2人が相次いでこの世を去りましたが、父団十郎の代役を務める市川海老蔵をはじめ、染五郎、猿之助、中村獅童ら実力派中堅・若手も育ってきています。悲しみを乗り越えて、新歌舞伎座でも一時代を築いてほしいと願います。

【現代風の記事にすると…】

●歌舞伎座が開場

 歌舞伎座は以前の記事通りいよいよ一昨日21日をもって開場した。当日はかねて絵番付欄外に「満員」と断り書きがあったように、通常の観客を断って、場内はすべて官民の来賓や報道陣、歌舞伎座の関係者の招待客だけで満員御礼の状態だ。

 さて場内を見渡すと、これまでにはない3階席が設けられている。また向こう正面の客席を少し舞台よりにして、東西に広がる客席同様、上席とするなどした。座席数は325席で、立ち見席は3階桟敷の後ろと、向こう正面席の後ろあたり。運動場は劇場の表2階にあり、2階に飲食店のほか、かんざし屋などの店が並ぶ。

 午後5時半。福地源一郎座長が舞台の幕外に出て、「演劇改良運動を目的に歌舞伎座を建築した」などとあいさつ。いよいよ開幕だ。

 「俗説美談黄門記」2幕目の丹前風呂二階の場、呉服橋内桝形の場、小石川伝通院の場、4幕目両国広小路の場、町奉行白州の場、そして最後に歌舞伎舞踊「六歌仙」が披露された。初日で評判がいいのは、按摩(あんま)玄碩の松助。また「光圀役はこの人でなくては」との評は水戸黄門の団十郎。相変わらず役をそつなくこなすのは河童(かっぱ)の吉蔵の菊五郎。そのほか六歌仙は団十郎、左団次、権十郎、家橘、菊五郎、福助と大物ぞろい。久しぶりの大芝居は面白い。

 この日はかなわなかったが、すべての演目がそろうようになったら、まる一日かけて観賞してみてはいかが。

(上田孝嗣)

当時の記事について

原文どおりに表記することを原則としますが、読みやすさの観点から

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  • 当時大文字の「ゃ」「ゅ」「っ」等の拗音(ようおん)、促音は小文字に

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