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昔の新聞点検隊

3万8千の焼死体/関東大震災(6)

拡大1923(大正12)年9月9日付大阪朝日朝刊7面。画像をクリックすると大きくなります。主な直しだけ朱を書き入れています。現在の朝日新聞の表記基準で認めていない漢字の音訓や、当時は入れていなかった句点を入れる等については、原則として記入を省いています
【当時の記事】

風吹けば骨片が舞上る
十重二十重に折り重って
一万五千坪に三万五千の死体
只一人助かった青年の実話

今度の大災禍で酸鼻の極を尽したのは何んといっても本所の被服廠跡に避難した三万五千人の焼死である、当局でも手の付けやうなく六日に至るも未だその儘になってをり異臭四辺に漲り悲惨とか惨憺とか云ふやうな形容詞を以てはとても言ひ現すことが出来ない、被服廠跡は約一万五、六千坪もあらうか、それが全部死体で覆ひ尽され殊に石原町停留所前に当る箇所は十重二十重に折り重なって焼死してゐる、道路に沿ふた小溝には死体を以て埋め尽され焼け斃れて老若男女の区別すら付かず、能く見ると中には小児を確と抱いたまま死んでゐる女もある、殊に表門のあたりは火勢猛烈だったと見え幾百の死体は全部骨片となり風に吹き捲られて骨粉が塵埃の如く舞上る、(中略)これだけ広大な空地だから絶対安全と決め老幼婦女は概ね此処に避難したのだが一時に四辺を猛火に包まれた上、安全地帯と考へただけに可なり沢山ここまで持ち出した荷物が手伝って大旋風起るや一堪りもなく瞬く間に三万五千の人々が焼き殺されたのである、其中に一人が、此処に避難してゐたが足や手の一部に火傷を負ったのみで助かった一人の青年がある、その話によると「避難したかと思ふと火はたちまち被服本廠の広場の周囲を取巻き逃げ道を失ったので自分は群衆の間をくぐって中央の方に座って居たが熱くてあつくてたまらぬので其の辺にたまってゐた僅かの水溜りに顔をつけて無我夢中そのまま気が遠くなった、火が鎮まってから氷をもって来て呉れる人があったので初めて気が付いて小高い処へ這ひ上ると其れは死骸が重なりあってゐたのだ」惨状は話や文章では迚も真実と思へない

(1923〈大正12〉年9月9日付 大阪朝日朝刊7面)

【解説】

 1923年9月1日に発生した関東大震災の記事の6回目。過去の記事もご覧下さい(①言語に絶する大混乱泥だらけの記者たちそのとき組閣の真っ最中だった首相暗殺? 揺れに揺れた続報流言飛語による惨劇 朝鮮人虐殺)。

 関東大震災の死者・行方不明者のうち、3分の1の人がまとまって亡くなった場所があります。10万5千人のうちの、3万8千人です。ものすごい数です。今回ご紹介する被服廠跡(ひふくしょうあと)が、その場所です。東京・両国国技館の近くにあり、今は「横網町公園」と呼ばれています。

 何があったのか。歴史をひもとく前に、しばし校閲。見出しに「只一人助かった青年の実話」とありますが、「只一人」はやめてもらいましょう。現場には4万近い人々が避難しており、ほかにも生存者がいる可能性があります。特に震災直後は情報が混乱しているので、断定してしまうのは危険です。

 文中に「三万五千の人々が焼き殺された」とありますが、自然災害なので「殺された」は違和感があります。適当な表現に変えるよう提案してみます。

  ◇  ◇  ◇

 ところで、現場となった被服廠ですが、何のことだか分かりますか? 記事中に説明がないところを見ると、当時の人には常識だったかもしれませんが、今の人々にはなじみがありませんね。

 「被服」は「着るもの」、「廠」は「壁仕切りのないだだっ広い建物、仕事場」のことです。多くの人が亡くなったのは、陸軍の軍服を作っていた建物の跡地でした。

 震災発生当時、被服廠の機能はよそへ移転し、いまの東京都の公園用地になっていました。空き地だったため、東京ドーム1個半ほどの敷地に、4万近い市民が避難してきたといいます。

突然起きた火災旋風

 震災発生から4時間後、予想外の事態が起きます。「火災旋風」が発生したのです。火災旋風とは、炎を伴った竜巻のこと。空高く巻き上がった炎が、広い範囲を一度に焼いてしまう現象です。

 広大な被服廠跡なら安全だと考え、多くの人々が家財道具を持って避難していました。そこへ近所からの炎が燃え移ったようです。当時、風速17メートルもの強風が吹いていたと伝えられています。火災旋風は4万近い人々を一気にのんでしまいました。

 一帯が完全に鎮火したのは、3日午前10時ごろだったそうです。地震発生からほぼ2日ですから、ものすごい火災だったことが想像できます。

拡大園内にある慰霊堂。いまでも祈りを捧げる人が絶えない=東京都墨田区の横網町公園
慰霊堂に祈り絶えず

 震災後、被服廠跡は整備され、「横網町公園」と名づけられました。園内には、犠牲者を追悼する慰霊堂と、被害と復興の様子を伝える記念館が設けられました。

 慰霊堂には、身元が分からない震災犠牲者の遺骨が安置されました。その後、東京大空襲(45年)で亡くなった身元不明者らの遺骨も納められました。

 慰霊堂には、今でも祈りを捧げる人の姿が絶えません。毎年、関東大震災が発生した9月1日と、東京大空襲のあった3月10日に、法要が営まれています。

 ちなみに、現在の「横網町公園」ですが、何と読むのでしょう。両国国技館の近くにあるので、「横綱(よこづな)」と誤読されることもあるようですが、正しくは「横網(よこあみ)」です。思い込んでしまうと怖いものですね。

【現代風の記事にすると…】

3万5千の焼死体 収容進まず/東京・被服廠跡

 関東大震災の被災地で特に被害が大きかったのが、東京・本所の陸軍被服廠跡(ひふくしょうあと)だ。避難者のうち、3万5千もの人が焼死した。震災発生から1週間。遺体の収容は思うように進んでいない。

 被服廠跡は公園用地となっている空き地で、5万平方メートルを超える。安全を求めて、多くの周辺住民が家財道具を持って避難。周囲から燃え広がった火が移り、炎を伴った竜巻である「火災旋風」が発生した。短時間のうちに、多くの人が火災に巻き込まれたと見られる。

 広大な敷地は一面、遺体で覆い尽くされ、山のように積み重なった所もある。焼け方がひどく、見ただけでは性別が分からないケースも多い。子どもを抱いたまま亡くなった人の遺体もあった。

 手足にやけどを負った生存者の青年によると、被服廠跡に避難してしばらくした後、周囲から火が燃え広がってきたという。

 「逃げ道がなくなったので、敷地内の中央部に移動した。炎の熱さがものすごかったので、水たまりを見つけて口をつけた。そこで気を失ってしまった」

 鎮火した後に救助され、初めて意識を回復したという。

(高島靖賢)

当時の記事について

原文どおりに表記することを原則としますが、読みやすさの観点から

  • 漢字の旧字体は新字体に
  • 句点(。)を補った方がよいと思われる部分には1字分のスペース
  • 当時大文字の「ゃ」「ゅ」「っ」等の拗音(ようおん)、促音は小文字に

等の手を加えています。ご了承ください