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昔の新聞点検隊

拡大1930(昭和5)年11月17日付東京朝日朝刊2面。画像をクリックすると大きくなります。主な直しだけ朱を書き入れています。現在の朝日新聞の表記基準で認めていない漢字の音訓や、当時は入れていなかった句点を入れる等については、原則として記入を省いています
【当時の記事】

待望のガス出づ 今暁一時十五分、一同大喜び

首相の容体は腹中にたまってゐるガスさへ出れば腹膜炎併発等の心配も薄らぎ病状に重大な関係をもつものとして塩田博士外係医師を始め一同の希ってゐたところであるが十七日午前一時頃松倉博士が病室にいり静かに病状を診てゐると首相もパッチリと目を覚ましたかと思ふと同一時十五分に至り相当な量のガスを二度排出した、この喜ばしい症状に枕頭に詰めてゐた夏子夫人始め一同が非常に歓喜し令息巌根氏までが廊下をあちらこちら歩きながらニコニコうれしさうにしてゐた この結果首相の病状に好結果をもたらすものと見られ尚これに続いて排出される望みも出来たわけで一同やうやく愁眉を開いた

 (1930〈昭和5〉年11月17日付東京朝日朝刊2面)

【解説】

 おならは人前でするのはできれば避けたいし、したとしても隠しておきたいもの。今回は周囲が注目する中でおならをしたことを、3段の大きな見出しで報じた記事を取りあげます。

 その前にまずは記事の点検を。見出しの「暁」は今なら「未明」などとするでしょう。暁だと明るくなってきたころを思い浮かべます。広辞苑(6版)によると「暁」は「現在では、やや明るくなってからを指すが、古くは、暗いうち、夜が明けようとする時」。意味が変わってきているのですね。

 記事3行目の「病室にいり」も今ではあまり聞かない言い方です。「病室に入(はい)り」とする方が一般的ですね。

拡大① 浜口首相が襲われたことを伝える紙面=1930年11月15日付(発行は14日)夕刊1面

 記事に戻りましょう。

 おならについて書かれたのは、当時首相だった浜口雄幸(1870~1931)。

 1930年11月14日、浜口は岡山での陸軍演習を視察するため、多くの人に囲まれて東京駅のホームを歩いていたところ、右翼青年に銃撃されました=画像①。銃弾はへその近くから骨盤に食い込みました。

 倒れた浜口は、当初は「男子の本懐である」などと受け答えしていたものの、内出血がひどく重体。帝国大学(今の東京大学)付属病院に運び込まれ、当時外科の第一人者だった塩田広重医師の執刀で腸を約30センチも切除、縫合する大がかりな手術をしました。

 冒頭の記事は事件から3日後。「おなかのガスが排出されれば、手術が成功して腸がちゃんと働き始め、回復に向かっているという兆候だ」として首相のおならが心待ちにされていたのでした。

 現職首相の生死に関わる一大事。決して笑いごとではなく、国民の重大な関心事だったために3段の大きな見出しがついたのでした。

拡大② 東京駅には今も浜口首相が銃撃された場所を表すタイルが埋め込まれ(手前右)、近くの柱に説明板がある
拡大③ 「浜口首相遭難現場」の説明板

 浜口は高知県生まれ。帝国大学を卒業後、大蔵省に入り、煙草専売局長官などをへて1915(大正4)年、衆院議員に初当選。蔵相、内相などを務めた後、27(昭和2)年に立憲民政党が結成されると、その初代総裁になりました。

 1929年7月、田中義一内閣の総辞職を受けて第27代首相になると、緊縮財政や金解禁で財政立て直しを図りました。軍事費の削減も図り、30年4月には海軍の反対派を抑えてロンドン海軍軍縮条約の調印にこぎつけます。日本の補助艦保有量は米国の7割弱とする条約でした。

拡大④ 葬儀の日、浜口前首相の死を悼む人々で日比谷公園が埋まった=1931年8月30日付(発行は29日)東京朝日夕刊1面
 これに対し海軍反対派は「浜口内閣の行為は統帥権の干犯だ」と非難します。「統帥権」は軍隊の最高指揮権のこと。当時の大日本帝国憲法では、統帥権は天皇の大権に属し、内閣が関与する国務から独立しているとされました。統帥権は軍の編成にも及ぶものだから、内閣が軍縮条約に調印したのは天皇の大権を侵害している、というわけです。

 軍だけでなく、当時の2大政党の一翼を担った立憲政友会も一緒になって浜口内閣を非難します。

 浜口が東京駅で襲われたのはそんなときでした。現場で取り押さえられた右翼青年は、統帥権干犯問題を銃撃の理由に挙げました。

 冒頭の記事によると、銃撃事件から3日後の30年11月17日午前1時15分、2回の「相当量」のおならがありました。家族を始め関係者一同が喜びました。浜口が著した「随感録」によると、「歓声は病室の内外に湧いた」そうです。

 その後、浜口はいったん退院したものの、回復しきらないうちに国会に出席・登壇するなどの無理を重ねて再び体調が悪化。4月に内閣総辞職をし、以後療養に専念しましたが、8月に亡くなりました。享年61。

 葬儀は8月29日、日比谷公園で行われました。謹厳実直、清廉な人柄で人気があり、いかつい顔つきとひげから「ライオン宰相」と親しまれた浜口。当日は「参拝者が雪崩をうって尽きず」約15万人もが参列したそうです=画像④

拡大⑤ 現在の日比谷公園
 浜口の死後、軍事費は増加の一途をたどります。急進派青年将校らが政治家を襲う事件も相次ぎ、1932(昭和7)年5月15日には犬養毅首相らが射殺されました(5・15事件)。さらに36(昭和11)年2月26日には首相官邸が襲われ、高橋是清蔵相らが殺されました(2・26事件)。日本では次第に軍部の発言力が強まり、軍部独裁政治、そして太平洋戦争へと突き進んでいくのです。

【現代風の記事にすると…】

首相に回復の兆し 未明にガス排出、家族ら喜ぶ

 銃撃されて手術を受けた浜口雄幸首相は、17日午前1時15分、相当な量の腹中のガスを2度にわたって排出した。手術から順調に回復していることを示すとみられ、これに続いて排便もされる望みも出てきた。

 17日午前1時15分ごろ、首相は相当な量のガスを2度排出した。手術を執刀した塩田広重医師らは「腹中にたまっているガスが出れば腹膜炎併発などの心配も薄らぐ」としており、関係者はその時を心待ちにしていた。喜ばしい症状に、付き添っていた夏子夫人、次男の巌根氏ら家族も大喜び。巌根氏はじっとしていられず、廊下を笑顔で歩き回った。

 事件から沈痛な表情で付き添っていた家族や関係者は、首相の容体に回復の兆しが出てきたことで、ようやくほっと一息ついた。

(山村隆雄)

当時の記事について

原文どおりに表記することを原則としますが、読みやすさの観点から

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