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昔の新聞点検隊

東京タワーは見た! よみがえる徳川の将軍たち

板垣 茂

拡大1958(昭和33)年8月12日付東京本社版夕刊5面。画像をクリックすると大きくなります。主な直しだけ朱を書き入れています。現在の朝日新聞の表記基準で認めていない漢字の音訓や、当時は入れていなかった句点を入れる等については、原則として記入を省いています
【当時の記事】

薄茶色の衣類みえる
将軍秀忠の墓発掘進む

東京芝公園の徳川二代将軍秀忠の墓を発掘している総合調査団(代表藤島東大教授)は、十二日から秀忠の遺体調査に着手した。寝棺のフタが腐って棺の中に崩れ落ちているため、期待していたより遺体の保存は悪く、薄茶色になった衣類の下に崩れた骨があるものと推定され、ハレ物にさわるように丁寧な発掘作業が続けられている。

この朝、墓の前では徳川家の当主徳川家正氏出席のもとに秀忠将軍の法要が行われた後、遺体の調査に取掛った。いままで掘ったのは地上から約一メートル、大きな石材を取除いた下に、二メートル四方の石材が組立てられ、その中にヒノキ造りの一メートル四方の木棺が浮び上ったが、三百三十五年前に葬られたこの木棺の一辺はまったく痛んでいなかった。

秀忠将軍の遺体は東向きに座っていたものらしいが、上のフタが崩れ落ちて形はなく、いまのところ薄茶色の衣類が見えているだけだ。衣類は綿入れで、絹のアヤ(綾)またはリンズ(綸子)らしく、この下の骨が現れるのは十三日になる見込みだ。墓の構造はきわめて質素、やはり戦国時代の名残りが続き、墓を飾る風習はまだなかったのだろうと調査団はみている。

(1958〈昭和33〉年8月12日付東京本社版夕刊5面)

【解説】

 徳川将軍家の菩提寺(ぼだいじ)だった東京・芝の増上寺には、かつて豪華な霊廟(れいびょう)が本堂の左右に立ち並び、戦前は国宝に指定されていたほど立派なものでした。しかし1945年、2度の空襲でほとんどが焼失してしまいました。

拡大①「寝棺」としたのは記者の思い込みか、調査団の早合点か=1958年8月10日付東京本社版夕刊3面
 戦後10年過ぎても廃虚のままだったその土地を、持ち主の徳川家が西武鉄道に売却するため、地下の遺体を1カ所にまとめて改葬することになりました。

 今回取り上げる記事は、58年7月から始まった改葬に伴い専門家たちが行った発掘調査のうち、2代将軍秀忠の墓の様子を報じたものです。この年の末に完成した東京タワーが見守るなか、調査はさらに14代将軍家茂や、その正室だった皇女和宮らの墓にも及んでいきます。

 それでは、この記事がいま出稿されたばかりのつもりでチェックしてみましょう。

 まず、調査団代表がいきなり「藤島東大教授」と名字だけになっていますが、初出の人名はフルネームで書くことにしています。この発掘を取り上げた最初の記事が2日前に出ており=画像①=、そちらの前文に「藤島亥治郎東大教授らの手で調査されている」とあります。今回も下の名前は入れてもらいます。

 そのすぐ後に出てくる「寝棺」。後半に「遺体は東向きに座っていたものらしい」とあるのと矛盾します。「座棺」ではないかと記者に確認してみましょう。

 おそらく、最初の記事が見出しに「寝棺の調査に期待」とうたったのに引きずられ、次の記事でもうっかり「寝棺」と書いてしまったのでしょう。

 

拡大②意外と扱いが小さい和宮の墓の発掘=1959年2月6日付東京本社版朝刊9面
 ちなみに、秀忠に続いてさらに2人の将軍の墓も発掘された後の翌年2月の記事=画像②=は、和宮のひつぎについて「これまでの座棺と異なり寝棺だが」と書いています。

 「三百三十五年前に葬られた」かどうかは秀忠の没年が分かれば確認できるので調べてみます。日本史教科書や百科事典によると1632(寛永9)年に亡くなっています。そしてこの記事が書かれたのは1958年……あれ? 計算が合いません。326年前になります。335年前なら没年を1623年として計算したことになりますが、この年は秀忠が3代家光に将軍職を譲った年です。記者は秀忠が亡くなるまで将軍だったと思い込み、この年を没年と判断したのかもしれません。

 そして「木棺の一辺はまったく痛んでいなかった」。「一辺」という表現が分かりにくく、もっと具体的に書いてもらいたい気がしますが、木棺のふたが落ちて本体のふちが見えている状態を言おうとして苦心したのかもしれません。また、「痛んでいなかった」は今なら「傷んでいなかった」とします。当時は使い分けのルールがありませんでしたが、今は「足がいたむ」など感覚的に痛い場合は「痛む」、今回のように傷つく、悪くなる場合は「傷む」としています。

 ……記事の吟味はこれぐらいにして、当時の発掘の様子に戻りましょう。

 調査団の一員として人類学の観点から発掘に携わった鈴木尚・東大教授(当時)は、その著書「骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと」で、秀忠の遺体を「戦国武将の面影のこす毛深い将軍」と表現しています。骨から判断すると、のちの時代の将軍や大名に比べて意外と思われるほど筋肉の発達が良く、腕の毛とすね毛は黒々としていて、亡くなった時の54歳という年齢を感じさせないものだったそうです。2年前のNHK大河ドラマ「江」では向井理が秀忠を演じましたが、どうやら正反対のタイプだったようですね。

拡大③6代家宣の鋳抜門。現徳川家墓地の門に見立てられている
 増上寺徳川家墓地の改葬は60年1月までかかり、6人の将軍、5人の正室、5人の側室らの遺体が調査されて終わりました。遺体は改めて荼毘(だび)に付され、増上寺現境内の北西隅にまとめられました。現在、土・日・祝日に個人拝観ができます(拝観料500円)=画像③

 ……待てよ? 徳川幕府は15代続いたはず。残りの将軍たちはどこに眠っているのでしょう?

 ヒントは増上寺が芝公園になったように、明治の世になって広大な公園に変えられた、もう一つの菩提寺。

 そう、上野公園の寛永寺です。東京国立博物館の前に広がる噴水広場には元々、本堂である根本中堂が立っていました。今は博物館の隣や裏手にお堂が立ち並んでいます。

 

拡大④寛永寺の徳川家墓地の発掘は最近だった=2012年4月9日付東京本社版夕刊6面
 ここで二つの寺に葬られた将軍たちの名をまとめてみましょう。

 増上寺:2代秀忠、6代家宣、7代家継、9代家重、12代家慶、14代家茂

 寛永寺:4代家綱、5代綱吉、8代吉宗、10代家治、11代家斉、13代家定

 ……あれ? 3人足りない。うち1人はどこにいるのか気付く人は多いかもしれません。そう、栃木県の日光東照宮に眠るのは初代家康。あとの2人はどうでしょうか?

 実は3代家光も日光にいます。父の秀忠に反発して祖父家康をとても慕ったと言われ、父の造った東照宮を壊して現在の豪華なものに造り替えた人物ですが、日光に行ったことのある方には簡単でしょうか?

 そして残る1人は最後の将軍、15代慶喜。寛永寺にほど近い谷中霊園に眠っているのでした。

 

秀忠廟門 拡大2代秀忠の惣門。今はザ・プリンスパークタワー東京の敷地内だ
 ところで、江戸時代の人々に「会って」みたい方にお知らせです。上野の国立科学博物館では6月16日まで「江戸人展」が開かれています。寛永寺でも2007年から昨年にかけて「徳川将軍家御裏方霊廟」、つまり将軍の生母や正室、側室たちの墓が改葬されました=画像④

 その調査結果が同展で確認できますし、庶民の墓から出た遺骨もたくさん展示され、江戸時代の暮らしぶりがうかがえます。将軍正室から一般武家、町民に至る人々の頭蓋骨(ずがいこつ)から復元された生前の面影が印象的でした。増上寺の発掘成果にも触れているので、興味のある方はぜひご覧下さい。

【現代風の記事にすると…】

将軍秀忠の墓発掘進む 遺体の調査に着手

 東京・芝公園の徳川2代将軍秀忠の墓を発掘している総合調査団(代表・藤島亥治郎東大教授)は、12日から秀忠の遺体調査に着手した。ひつぎのふたが腐って中に崩れ落ちているため、期待していたより遺体の保存状態は悪かった。薄茶色になった衣類の下に崩れた骨があるものと推定され、腫れ物にさわるように丁寧な発掘作業が続けられている。

 この朝、墓の前では徳川家の当主徳川家正氏出席のもとに秀忠の法要が行われた後、遺体の調査に取り掛かった。今までに掘ったのは地上から約1メートル。大きな石材を取り除くと、その下に2メートル四方の石材が組み立てられており、さらにその中にヒノキ造りの1メートル四方の木棺があった。320年以上前に葬られたこの木棺の一辺はまったく傷んでいなかった。

 秀忠の遺体は東向きに座った状態で安置されていたようだが、上のふたが崩れ落ちているため、今のところ薄茶色の衣類が見えているだけだ。衣類は綿入れで、絹の綾織(あやお)り、または光沢のある綸子(りんず)らしい。この下の遺骨が現れるのは13日になる見込みだ。

 墓の構造はきわめて質素だった。戦国時代からあまり経っておらず、墓を飾る風習はまだなかったのだろうと調査団はみている。

(板垣茂)

当時の記事について

原文どおりに表記することを原則としますが、読みやすさの観点から

  • 漢字の旧字体は新字体に
  • 句点(。)を補った方がよいと思われる部分には1字分のスペース
  • 当時大文字の「ゃ」「ゅ」「っ」等の拗音(ようおん)、促音は小文字に

等の手を加えています。ご了承ください