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昔の新聞点検隊

為替レートは100円=20ドル!

上田 孝嗣

拡大1932(昭和7)年12月1日付東京朝日夕刊1面。画像をクリックすると大きくなります。主な直しだけ朱を書き入れています。現在の朝日新聞の表記基準で認めていない漢字の音訓や、当時は入れていなかった句点を入れる等については、原則として記入を省いています
【当時の記事】

為替全く悪化し 遂に廿弗を割る
国際政局と円貨不安の大勢
正金も傍観に立到る

正金銀行の売出動と銀行間取引の翌日申告命令に二十ドル関門割れの危機を辛うじて脱れたかに見えた為替相場も、内外市場における円安気分に抗し得ず三十日に至り内地市場も遂に対米二十ドルの大関門割れを現出するに至った(中略)

上海の日米クロスは三十日に至るも寄付は十九ドル七十四セントと依然好転せざる有様に、内地市場は銀行間に積極的に買ひ手なきにもかかはらず一斉に売り懸念に支配せられ、寄付はノミナルながら対米二十ドル丁度売りであったが、正金銀行も独り相撲となるをおそれて積極的に売り進まず自然の相場に放任したので市場は気配一段と軟化し、正午前には一般が対米十九ドル八分七売りとなり、買手は二十ドル八分一ながら大勢は全く廿ドルの大関門を割ってしまった(中略)

本回の為替低落は前回の二十ドル台割れの危機の場合と異り内外共に大したドル買、円売りがないことで主因は国際聯盟における日本の国際政局が案外に悪いこと、日本の円貨不安は依然たるものあり 従って種々の人為的維持策を弄するとも為替相場に反撥力極めて弱いと見られること等の円安人気にあると思はれる(後略)

(1932〈昭和7〉年12月1日付東京朝日夕刊1面)

【解説】

 日本銀行の大幅な金融緩和などで、為替レートは約4年ぶりに1ドル=100円を超える円安水準になりました。自動車などの輸出産業を中心に業績が急回復し、リーマン・ショック後のデフレに長らく苦しんだ日本経済にも明るい兆しが見え始めてきたようです。為替レートは輸出中心の日本経済に大きな影響を与えているのです。

 今回は昭和初期の為替相場の記事を取り上げます。1932(昭和7)年の記事で為替レートが対米20ドルに更新したことを伝えています。記事を今の校閲記者の視点から点検していきましょう。

 まず、記事中の「対米20ドル」ですが日本円でいくらなのかがわかりません。当時は「100円当たり対米○○ドル」でしたので、「100円=20ドル」としておきましょう。「1ドル=○○円」という現在の表現にあわせれば「1ドル=5円」ということになります。また、見出しで為替の「悪化」としていますが、今の記事なら円安に向かっているのか、円高に向かっているのかを明記するでしょう。

拡大関東大震災後、100円=49ドル台突破を報じた記事=1927(昭和2)年3月5日付東京朝日夕刊1面
 それから一つの記事の中で表記がばらついているのも気になります。見出しや記事の「廿弗」「二十ドル」「廿ドル」は「二十ドル」にそろえましょう。「買ひ手」と「買手」、「(立)到る」と「至った」もどちらかにそろえたいところです。

 指摘はこのぐらいにして記事に戻りましょう。

 記事の32(昭和7)年は五・一五事件が起こり、時の首相、犬養毅が暗殺されるという暗い時代の幕開けの年でした。ただ、経済的には、金解禁と世界恐慌というダブルパンチに見舞われた日本経済が回復しつつあった時期でもあるのです。当時の経済の主力は繊維産業でしたが、円安が進んだうえ、不況下で進めたリストラの効果もあって、輸出競争力が増して業績が回復していったのです。

 この道筋をつけたのが、犬養内閣で大蔵大臣(現・財務相)を務めた高橋是清でした。緊縮財政を進め、金解禁を実施した前政権から政策を一転、金輸出を再禁止することで結果的に割高に固定されていた為替レートを是正したのです。記事は100円=20ドル(1ドル=5円)をめぐる攻防を取材していますが、27(昭和2)年3月の為替レートは100円=49ドル(1ドル=約2円)でしたから、円は5年で半値以下に下落したのです。また、現在は禁止されていますが、日本銀行に国債を直接引き受けてもらうことで金融を緩和し、それによって得た資金で経済対策を打ったのです。

 金融緩和に成長戦略……。アベノミクスと似ていると思った人も多いでしょう。

 「戦前まで振り返ってみて言わねばならんことは、日本は、デフレーションからの脱却をやってのけた数少ない国のひとつであったという事実です。(略)彼は、まさに、いま私たちがしていることをやって日本を救いました。大胆な金融緩和と財政出動がデフレーションのスパイラルを止めました」

 今年4月、「アベノミクスとは何か」と題して、麻生太郎財務相がワシントンで行った演説の一説です。ここでいう「彼」こそが、高橋是清なのです。

拡大正貨(金貨及び地金)計3億円の現送を報じた記事。欧米の銀行への流出により兌換(だかん)の維持が困難となります=1931(昭和6)年12月3日付東京朝日朝刊4面

 ただ、高橋財政によりもたらされた日本の成長は、回復が遅れた諸外国と経済摩擦を起こし、関係を悪化させることになりました。各国は植民地を含んで自国の経済圏を囲い込むようになります。

 記事でも触れられていますが、国際連盟などで日本は政治的にも孤立化を深め、太平洋戦争の遠因ともなったとされています。高橋自身も、自身の政策で経済がやや過熱気味になってきたとして、政策の転換の一つとして、軍事費縮減に乗り出したところ、軍部の反発を買って二・二六事件で命を落とすのです。

 80年前の歴史を繰り返すようなことなく、世界経済との協調を図りながら、デフレ脱却を実現させてほしいと思います。

【現代風の記事にすると…】

為替、円安進み ついに20ドル割る 横浜正金銀も静観

 円安が進む為替相場は、横浜正金銀行のドル売り出動と銀行間取引の翌日申告命令で100円=20ドルの大台割れを辛うじて免れたかに見えたが、30日、国内市場もついに20ドルを割った。(中略)

 30日の上海市場では寄り付き19.74ドルと依然円安が続いた。国内市場では銀行間に積極的に買い手がいないにもかかわらず一斉に売り懸念に終始した。寄り付きは名目値で20ドルちょうど。正金銀行も独り相撲となることを恐れて積極的にドル売りをせず、相場の成り行きに任せたため、一段と円安に傾いた。同日正午前には売りは19ドル8分の7となり、買い手の値は20ドル8分の1ながら、大勢は20ドルの大台を割ってしまった。(中略)

 今回の円の下落は、前回の20ドル割れの危機の時とは異なり、国内外ともに大きなドル買い、円売りがない。国際連盟での日本の国際関係が悪化していることや、円不安が依然解消されていないことから、為替維持策を講じても効果は極めて小さいとみられている。(後略)

(上田孝嗣)

当時の記事について

原文どおりに表記することを原則としますが、読みやすさの観点から

  • 漢字の旧字体は新字体に
  • 句点(。)を補った方がよいと思われる部分には1字分のスペース
  • 当時大文字の「ゃ」「ゅ」「っ」等の拗音(ようおん)、促音は小文字に

等の手を加えています。ご了承ください