メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

昔の新聞点検隊

新島襄、セイロン島に上陸! ~アラービー・パシャを訪問~

広瀬 集

朱画像拡大1884(明治17)年7月6日付 朝日新聞朝刊1面。画像をクリックすると大きくなります。主な直しだけ朱を書き入れています。現在の朝日新聞の表記基準で認めていない漢字の音訓や、当時は入れていなかった句点を入れる等については、原則として記入を省いています
【当時の記事】

○目今洋行中の京都同志社々長新島襄氏が曩に印度洋渡航の際錫蘭島へ寄港し彼の埃及に叛旗を揚げて数戦の後軍敗れ力尽て終に英兵の為めに擒にせられ当時錫蘭なる孤島に遠竄せられたるアラビーパシャに面唔の機を得て親しく其謫愁を慰められしにアラビーパシャは深く其好意を感謝し且云へる様 予罪を獲て此遠島に流竄せられしより無限の幽愁を誰あって慰むる者なく国人すら音信絶てあらざりしに豈に図らんや千里外の日本人即ち足下の為に訪問せられ且厚き慰藉を辱せんとは実に肝銘に余りありと 夫よりアラビーパシャは珍しき異邦人に遇ひける喜しさに種々日本の制度情態などを問ひ談兵事に渉りし時日本国の兵員は幾何ありやと問ひければ新島氏之に答へて吾邦の常備兵は十万あり 然れども政府は猶其不充分なるを思ひ近時兵制を改革し頻りに陸海軍を拡張せりと云はれしにアラビーは覚えず手を拍て其強大なるを称賛し且深く之を羨めるの色ありし云々 と此頃新島氏より其社友に寄せられたる書信に見えたりと京都滋賀新報に見えしが亦近頃の一奇談といふべし

(1884〈明治17〉年7月6日付 朝日新聞朝刊1面)

【解説】

 前半のハイライト、会津戦争が繰り広げられているNHKの大河ドラマ「八重の桜」。今後、舞台は騒乱の時代から明治の世へと移り、主人公・山本八重の2度目の結婚後が描かれていくことになると予想されます。少しフライングになってしまいますが、そのお相手、新島襄が登場する記事を今回は取り上げました(「ネタバレ」になるかもしれません、ドラマを楽しみにしている方はご注意を!)。

 まずは当時の記事を見てみましょう。新島が1884(明治17)年、欧州・米国を回ったときの話です。途中で寄港した英国領のセイロン島(現・スリランカ)で、エジプト民族主義運動の指導者だったアラービー・パシャ(アフマド・アラービー、1841~1911)と面会したことを報じる記事です。アラービーは革命を遂げられず、エジプトへの関与を強めていた英国によってセイロン島に流されていました。

 文中の表記は「アラビー・パシャ」で統一されているのに、最後の1カ所だけ「アラビー」と略しているのが気になります。最初だけ「アラビー・パシャ」で後は略すか、全部そろえるかのどちらかでしょう。

 初出に「錫蘭(セイロン)島」とはっきり島名を出しているのに、次に「錫蘭なる孤島」と伝聞的な書き方をしているのも違和感がありますね。2度目も素直に「錫蘭島」で良いでしょう。

 新島は、なぜ遠く離れたエジプトの指導者のことを知っていたのでしょうか。朝日新聞の紙面データベースで「アラビー」と入力して検索したところ、1882年から83年にかけて26件もの記事がヒットしました。

 たとえば1882年7月16日付の紙面には、アラービーの一連の反乱による緊迫したエジプト情勢の概略をまとめた記事が載っています=記事①。この頃のエジプトは、欧州諸国に対し膨大な債務があり、英仏によって財政を管理されている状態でした。軍の大佐だったアラービーは当初アラブ人兵の地位向上を訴えていましたが次第に指導者的立場となり、この記事によれば「兵力を以て王に迫り、立憲政体を立て国会を開設(招集?)」することなども要求するようになっていきます。

拡大記事① エジプト情勢をまとめた記事=1882年7月16日付朝日新聞朝刊2面

拡大記事② アレクサンドリアの陥落を伝える記事=1882年7月22日付朝日新聞朝刊2面
 「各国政府より派遣せし諸省の長官(外国人)を放逐」して、1882年にはアラブ人による民族主義内閣を成立させ、自らは軍事大臣に就いて地中海に面したアレクサンドリアに要塞(ようさい)を築くなどしました。民衆の間でも外国人排斥運動が起き始めます。

 このような状況に業を煮やした英国は、軍事介入を決意。この記事の数日前に英国がアレクサンドリアを攻撃したところから、戦いは始まりました。10日ほど遅れて、朝日も同所の陥落を報じています=記事②

拡大記事③ 投降時の様子を報じる記事=1882年10月19日付朝日新聞朝刊1面
 英軍の攻撃にアラービーは連敗。9月にはカイロも押さえられ、アラービーは捕らえられます。アラービーは降参する際、自ら「吾(われ)はアラービーなるぞ」と名乗り出た、と伝え「刀折れ力尽きてなお、その胆力が動じないのは称賛すべきだ」とする記事が載っています=記事③。こんな伝聞の短行記事をわざわざ1面に載せるあたり、アラービーの動向が日本でもかなり注目されていたことが推察できます。海運の大動脈であるスエズ運河付近の出来事であることと、欧州の列国に立ち向かう構図が日本と似ていたからでしょうか。

拡大記事④ セイロン島に流されることを報じる記事=1882年12月24日付朝日新聞朝刊1面
 もちろん、セイロン島に流されることも報道済み=記事④。日本を発つ1年ほど前にこれだけ新聞に出ていれば、新島がアラービーを知っているのも納得ですね。なお、これら一連の騒乱はエジプト初の民族主義運動「ウラービー(アラービー)革命」または「アラービー・パシャの乱」などと呼ばれています。世界史の授業で学んだ方も少なくないでしょう。アラービーの鎮圧を機に、エジプトはしばらくの間、完全に英国の支配下に置かれることになります。

 ところでこの面会の様子については、新島が残したメモが残っています。

 訪問日は1884年の4月29日。アラービーは背が高く太り気味、顔はふっくらしていて「笑うとすばらしく気持のよい相好」。通訳を介しながらも、たまに「ブロークンな英語で」急にしゃべり出し、新島の答えに満足すると「ヴェリ・グッド」と返すのだそうです。メモには、日本について質問されたこと、エジプトのことは話題にしたくない様子だということ、コーランを持っていると答えたら喜ばれたこと、訪問をとても感謝され帰り際にはサインまでくれたこと、なども書かれていました(「新島襄全集10」、同朋舎出版)。

 今回の記事とあわせて読むと、より想像がかきたてられますね。

 しかしアラービーの話が中心になってしまいました。せっかく新島が登場しているのに、彼を取り上げないわけにはいきません。来週は、新島が出てくる当時の朝日の記事を探しながら、彼の人生を見てみることにしましょう。

【現代風の記事にすると…】

同志社・新島社長、エジプト民族運動指導者と面会、セイロンで

 現在訪欧中の京都・同志社の新島襄社長は、寄港したインド洋のセイロン島で、エジプト民族主義運動の指導者だったアフマド・アラービー氏(アラービー・パシャ)を訪ねていたことが京都新聞の報道で明らかになった。新島氏が社友に宛てた手紙にその時の状況が書かれていた。

 アラービー氏は、同国の軍人。2年前、民族主義内閣を成立させるなど革命を推し進めたが介入してきた英軍に鎮圧され、セイロン島に流刑となっていた。

 新島氏が不遇を慰めると、アラービー氏は深く感謝し、「この島に流されてからというもの、無限にも思えるこの深い悲しみを誰も晴らしてはくれず、祖国の人とも音信が途絶えていた。遠く離れた日本からあなたが私のために訪問し、慰めてくれるなどとは思いもせず、深く感動した」と話したという。

 珍しい外国人の訪問の喜ばしさからか、アラービー氏は日本の国情を尋ね、話は兵事にも及んだ。日本の兵員数を聞かれた新島氏が「常備兵は10万人、しかし政府はなお不十分として陸海軍を拡張している」と答えると、アラービー氏は手を打って称賛し、深くうらやんだという。

(広瀬集)

当時の記事について

原文どおりに表記することを原則としますが、読みやすさの観点から

  • 漢字の旧字体は新字体に
  • 句点(。)を補った方がよいと思われる部分には1字分のスペース
  • 当時大文字の「ゃ」「ゅ」「っ」等の拗音(ようおん)、促音は小文字に

等の手を加えています。ご了承ください