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昔の新聞点検隊

 先週は新島襄がセイロン島にアラービー・パシャを訪ねた記事を紹介しましたが、今週は当時の朝日の記事で新島を追ってみましょう。いつもの記事点検は今週はお休みします。

拡大①新島が密航した函館の港の一角に、今は記念碑が立っている=2011年撮影
 新島はNHKの大河ドラマ「八重の桜」の主人公・山本八重の2度目の結婚の相手。ドラマではオダギリジョーさんが演じます。1843年生まれ。1864年に北海道の函館から米国へ密航し==、後にキリスト教に入信。大学も卒業して、1874(明治7)年、宣教師として日本に帰ってきます。幼名は七五三太(しめた)でしたが、米国時代に用いていた名前「ジョセフ」の略「ジョー」から、「襄」と名乗るようになったようです。

 キリスト教を下地にした米国の高等教育を身をもって体験した新島は、日本で同様の高等教育を展開することこそが近代化の道だと考え、私立大学の設立を志します。帰国後の1875年、京都府顧問だった山本覚馬らの協力を得て、京都に「同志社英学校」を開きました。「同志社」という名称は覚馬が考案したとも言われています。

拡大②同志社大今出川キャンパスで当時の雰囲気を今に残す彰栄館(1884年完成)
 この覚馬こそが、八重の兄ですね。八重は会津から京都に出てきて兄のもとで暮らしていて新島と出会い、1876年に結婚します。朝日新聞創刊の3年前でした。

 この年に、覚馬から格安で譲り受けた旧薩摩藩邸跡地に移転し、校舎を構えます。これが現在の同志社大・今出川キャンパスです。創建初期の1880~90年代完成の建物5棟は国の重要文化財に指定されており、今もキャンパスに当時の面影を残しています=

拡大③4行目に「新嶋氏」とある=1881年5月22日付朝日新聞朝刊2面
 データベースで検索した限りで、新島が登場する最も古い記事は1881(明治14)年5月22日付=。同志社主催の耶蘇教(=キリスト教)「大説教会」が数千人を集め大盛況だったこと、翌日には新島の私邸で教員・生徒らの「論議会」があったことを伝えています。

拡大④新島と八重が過ごした家は、今もそのまま残る。洋風建築に和が交じるモダンな建物。左下は職員や学生がよく集まったという応接間
 この新島邸は、京都御苑東側に現在もそのまま残る「新島旧邸」のことと思われます。大河ドラマ放映に合わせ、12月まで特別公開されています=(見学はインターネットかファクスで要予約。同志社大「新島八重と同志社」特設サイトに詳細があります。問い合わせは075-251-3042)。

 翌1882年ごろから、新島は「同志社大学」設立に向けて動き始めます。当時、「大学」は日本にただ一つ、東京大学のみでした。何もないところからのスタートは、多くの困難があったことでしょう。持病があった新島は、激務がたたってか体調を崩し始めます。1884年から85年にかけては、保養と寄付金収集、視察などを兼ねて欧州・米国に渡りました。

 その途中でセイロン島に立ち寄り、アラービーに会ったというのが先週ご紹介した記事でした。米国ではたくさんの寄付を集めたようで、朝日新聞は幾度か、そのことを報じています。

拡大⑤ノルマントン号事件について議論する京都での有志懇談会の様子を報じた記事=1886年12月7日付朝日新聞朝刊1面
 帰国後の1886~87年は仙台に設立された英学校の校長に就いたり、京都に看護学校を設けたりと、精力的に活動する様子が報じられています。中にはこのようなものもありました。

 1886年10月に和歌山沖で沈没し、英国などの外国人船員ばかりが助かって日本人乗客が多数死亡したノルマントン号事件は、国内に大きな議論を呼びます。京都で行われた有志懇談会には新島も出席。この事件だけで英国人全体を判断せず、裁判の最終結論が出るのを待とう、と冷静な対応を呼びかけています=。西洋事情に通じた新島ならではでしょうか。

 教育事業ばかりでなくこのような会合にも積極的だったとすると、その多忙ぶりはかなりのものだったと推測されます。

拡大⑥政財界の有力者が寄付を申し出たことを伝える記事。大隈、井上の他に青木周蔵、渋沢栄一らの名前も見える=1888年7月21日付東京朝日朝刊2面
 1888(明治21)年頃になると大学設立の機運も次第に高まってきました。

 当時の紙面にも「同志社英学校を私立大学校とするの企(くわだて)あるは世人の已(すで)に知れる所」とあり(2月19日付朝日新聞朝刊1面)、賛成する人も増えてきたようです。大隈重信、井上馨といったビッグネームも同志社を視察し、寄付をしています=

拡大⑦「新島氏の大学計画」。賛同者に勝海舟や後藤象二郎、榎本武揚の名前も見える=1888年11月7日付東京朝日朝刊2面
 同年11月7日付の紙面では、「新島氏の大学計画」として経緯や趣旨を簡単に紹介==した上で、「同志社大学設立の旨意」の付録をつけています=。この「旨意」は主要紙などに一斉に掲載され、たくさんの寄付金を集めることになります。今でも同志社大のサイトで「旨意」の原文や現代語訳を見ることができます。

拡大⑧「同志社大学設立の旨意」=1888年11月7日付大阪朝日朝刊付録

拡大⑨ 新島の逝去を伝える電報での一報の他に、詳報も伝えている=1890年1月24日付東京朝日朝刊1面
 しかし、さあこれから、という時の1889年秋頃、関東を訪れていた際に体調が悪化します。京都には戻らず、温暖な神奈川県の大磯で静養することとなり、八重も新島の元に駆けつけ看病をしますが、1890年1月23日、47歳で永眠しました=

 維新の志士たちとはまた違った形で日本の将来のために駆け回った生涯といえるかもしれません。

拡大⑩キリスト教を嫌う人々が、同志社を中傷する演説会を開いている、と伝える記事=1882年5月6日付朝日新聞朝刊1面
 明治時代はまだキリスト教への偏見も多く、新島の志を妨げようとする人々も少なくなかったようです=。寄港地のセイロン島でわざわざアラービーに会いに行ったのは、同じく既存の体制に立ち向かう者として共感を持っていたからかもしれません。

 同志社は1912年に専門学校令に基づいてようやく「同志社大学」の名称となります。そして、新島の死から30年が過ぎた1920年、大学令に基づく、関西地区で初の私立大となったのです。

 今や同志社大は屈指の私大、多くの学生が学び、キャンパスは活気にあふれています。新島が勝海舟に初めて面会した際、新島の目指す教育が日本全国に普及するには何年かかるかと勝に問われ、「およそ300年」と答えた、との逸話が残っていますが、現在の光景を見たら新島はどのような感想を抱くでしょうか。

 今回ご紹介したのは新島の人生のほんの一部。実際にはとても紹介しきれないような濃密な人生を送りました。大河ドラマがどのように表現するか、後半の見どころを一つ見つけたように思います。

(広瀬集)

 ※記事画像は修整しているものもあります。

当時の記事について

原文どおりに表記することを原則としますが、読みやすさの観点から

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