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昔の新聞点検隊

松山城炎上!! 燃えた?残った?大天守

森 ちさと

拡大1933(昭和8)年7月10日付東京朝日朝刊11面。画像をクリックすると大きくなります。主な直しだけ朱を書き入れています。現在の朝日新聞の表記基準で認めていない漢字の音訓や、当時は入れていなかった句点を入れる等については、原則として記入を省いています
【当時の記事】

松山城大半焼失 加藤嘉明以来三百年の名城 放火? 天守閣助かる

【松山電話】 天下の名城として近く国宝に指定さるべく約束づけられた松山城本丸の天守閣西方小天守閣やぐら付近から九日午前一時頃発火し、猛火は連日の炎天にかはききったやぐらを包んでしまったのを同城の看守人江戸浅吉が発見し驚いて松山署に急報、同署では直に警鐘を乱打し全市の消防組を出動させ百三十二メートルの勝山上に警官隊、消防隊を繰だしたが、如何せん山上の事とて水の便なく猛火は同二時半に至り天守閣を全く包んだ、この頃漸くガソリンポンプ数台を山上に運びあげ消火につとめたが、火勢猛烈にして容易に鎮火せず全市の青年団、在郷軍人、松山連隊など総出動して死力をつくしての活動も効なく午前三時半にはさしもに堅固を誇った海内無二の美観松山城も大天守閣を残して大半は焼け落ち加藤嘉明の築城以来三百年の歴史を誇った城廓も哀れ残骸を石垣の上に止めるに至り五時半漸く鎮火した、原因は全く不明であるが発火の場所は全然火の気なき場所である事実から放火説が有力である

 (中略)

空から観た松山城の焼跡(九日本社新野機上より撮影、大朝社電送)

(1933〈昭和8〉年7月10日付東京朝日朝刊11面)

【解説】

拡大左から南隅櫓、小天守、大天守。大天守手前に見える櫓や塀は江戸時代の再建当時のもの。本丸広場から撮影
 今年もまた、渇水と大雨の両方に注意が必要な時期となりました。ちょうど80年前、そんな天気のせいもあって貴重な天守閣が燃えてしまった、という記事です。

 ではいつも通り校閲していきましょう。

 「発火」は、自然発火や実験などでの発火のイメージがありますので、火事の場合は「出火」を使うことが多くなっています。

 「勝山」は松山城が立っている丘です。地元や四国、関西などでは周知のことかもしれませんが、これは東京の紙面ですので、「松山城のある勝山山頂」などと言葉を補った方がよいでしょう。

拡大本丸広場から本壇と城下をのぞむ。当時の登城道を歩くとここまで30分
 全体を見ると、「鎮火した」までが2文で構成されています。緊迫感は伝わりますが、さすがに1文が長すぎます。当時はこのような長文は珍しくありませんでしたが、現代の新聞の文章としては読みにくいので、読みやすい長さに切ってもらいます。

 一番分かりにくくなっているのは、肝心の「何が燃えたのか」です。

 午前1時、「本丸の天守閣西方小天守閣やぐら」から出火、2時半に「天守閣を全く包んだ」あと、3時半に「大天守閣を残して大半は焼け落ち」たとなっています。しかしすべて火に包まれたはずの天守閣は、見出しで「天守閣助かる」。これでは、天守閣、小天守閣、大天守閣がどのような関係にあり、何が燃えたのか、よく分かりません。

 写真も掲載されていますが、焼けた部分は何の跡なのか、残っている建物は何なのか説明がないので、読者の理解の十分な助けになっていません。

拡大「当時の記事」の写真に、建物などの説明を入れてみました
 城郭の構造はとても特殊なものであり、言葉も専門用語になります。まして、松山城が具体的にどのような建物で構成されているのかは、少なくとも東京の読者のうちではほとんど知られていないと考えられます。

 現在の紙面では、大きな火災や事故があった場合、より分かりやすくするために地図や建物の見取り図などを掲載しています。今回も作成するべきではないかと提案します。松山城の公式サイトに分かりやすい地図があるので、これを参考にして作るのがよいでしょう。

拡大左から大天守、筋鉄門、小天守。北隅櫓2階から撮影
 松山城は「連立式天守」という形をとっています。一般的な天守閣のイメージにあたる大天守の他に、小天守、隅櫓(すみやぐら)があり、これらを長屋形式の櫓などでつなぐという構成です。また、本丸のうち天守と付随する門などがある部分は「本壇」といい、さらに8メートルも高い石垣の上にあります。

 この時に燃えたのは、小天守、南北の隅櫓、小天守と南隅櫓をつなぐ多聞櫓、南北の隅櫓をつなぐ十間(じっけん)廊下、大天守と小天守の間にある筋鉄(すじがね)門の上部など。大天守とその東側にある三つの門や北東隅の天神櫓など、本壇の東半分は残りました。

 見出しの「天守閣」と本文の「本丸の天守閣」は大天守を指しており、「天守閣を全く包んだ」は実際に燃えたというよりも、周りの建物が燃えて火に囲まれていたということでしょう。

 写真の上半分にうつっている残った建物が大天守です。現在城を訪れた時にまず見える正面(南)からではなく、燃えてしまった西側から撮影されています。

拡大松山城が国宝に指定されたことを伝える記事=1935年5月14日付東京朝日朝刊3面
 「大半焼失」とありますが、大天守の東側は残りましたし、本壇以外の本丸の櫓や門はやはり無事でした。水の事情が今よりも厳しかっただろう当時、なんとかそこまでで被害を食い止めた消防隊などの奮闘を考えると、「松山城が大半焼失した」とするのはますます言い過ぎだったのではないかと感じてしまいます。

 大天守などが残ったおかげで、2年後の1935(昭和10)年5月13日、松山城は無事国宝に指定されました(1950年の文化財保護法施行により重要文化財指定)。その後、戦災でいくつかの門が焼失するなどしましたが、戦後次々に木造で再建されていきました。これは、この火災の直前、国宝指定のため国の調査が行われており、詳細な報告書が残されていたために可能となったものでした。小天守や各櫓も1968年に再建され、江戸時代からの貴重な現存天守である大天守と並んで美しい姿を見ることができます。

【現代風の記事にすると…】

松山城で火災 小天守など焼失

 9日午前1時頃、松山市丸之内の松山城天守付近から出火しているのを、同城の見張り番が発見し松山署に通報した。同5時半に鎮火したが、近々国宝に指定される予定だった同城の建築物のうち、小天守、南北隅櫓(すみやぐら)などが焼失した。大天守は難を逃れた。

 出火したのは連立式天守と呼ばれる構造の、西側の櫓付近。連日の猛暑のため木材が乾き、櫓はすぐに火に包まれてしまったという。全市の消防団や警官隊なども出動したが、松山城は標高132メートルの勝山山頂にあるため水の便が悪く、同2時半には天守の西側すべてに火が回った。ポンプ数台を山上に運び上げ、青年団や陸軍松山連隊なども出動して消火にあたったが火勢は収まらず、同3時半には小天守、南北隅櫓、多聞櫓も焼失。同5時半になってようやく鎮火した。

 出火原因は不明だが、櫓付近は通常火の気のない場所であり、放火の可能性も含めて同署が調べている。

 松山城は江戸時代中に築かれた貴重な「現存天守」の一つ。1784(天明4)年、落雷により天守のすべてが焼失した後、1854(安政元)年に再建されたものだった。

(森ちさと)

 

当時の記事について

原文どおりに表記することを原則としますが、読みやすさの観点から

  • 漢字の旧字体は新字体に
  • 句点(。)を補った方がよいと思われる部分には1字分のスペース
  • 当時大文字の「ゃ」「ゅ」「っ」等の拗音(ようおん)、促音は小文字に

等の手を加えています。ご了承ください