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昔の新聞点検隊

球宴で完封勝利! 昭和の大エース 沢村栄治

桑田 真

拡大1937(昭和12)年11月21日付大阪朝日朝刊4面。画像をクリックすると大きくなります。主な直しだけ朱を書き入れています。現在の朝日新聞の表記基準で認めていない漢字の音訓や、当時は入れていなかった句点を入れる等については、原則として記入を省いています
【当時の記事】

凱歌まづ東軍へ
沢村の快投とヒット十六本 職業野球オールスター 東西対抗試合 第一日

大阪朝日新聞社会事業団主催・同情週間義金募集の日本職業野球オール・スター東西対抗争覇試合第一日は甲子園野球場で二十日花々しく火蓋を切った、午後一時半、我が国球界に記念すべきこの争覇戦を意義づける開会式が執り行はれ、朝日新聞社会事業団常任理事本社岡野取締役、職業聯盟松方副総裁の挨拶あり終って試合は午後二時三十五分池田(球)、川久保、横沢、二出川(塁)四君審判、東軍の先攻に開始された、この日好天に恵まれ観衆は万を超えてメインスタンドを埋める盛況であったが第一回戦は14-0で先づ東軍の勝利に帰した、なほ第一日のファインプレー賞(阪神電鉄寄贈)は第六回裏西軍の二、三、四番打者堀尾、山下好、景浦を三振に討取った好投と全試合を通じて西軍走者に三塁を踏ましめなかった東軍沢村投手に授与された

東 111 020 054=14
西 000 000 000=0

【試合評 芥田武夫】東軍が先発投手として沢村を起用したるは予想されたところでありかつ当然のことといひ得るが西軍が若林、西村、景浦、鈴木らの投手をさし置いて球力の弱い古谷を起用したることは第一戦に必勝を期する方策としては何人も首肯し難い冒険といへよう

(中略)

しかして東軍沢村投手の好調は無人の境を往くが如く第六回の如きは堀尾、山下好、景浦を三者連続三振に斃すほどであった、これに加へて東軍内野の堅陣は水も漏さぬ見事なもので無失を記録し中でも水原、苅田高橋は美技続出しその正確さ、鋭さは全く驚嘆すべきものがあった

(後略)

(1937〈昭和12〉年11月21日付大阪朝日朝刊4面)

【解説】

 16日に開催される大リーグのオールスター戦に、レンジャーズのダルビッシュ投手とマリナーズの岩隈投手が選出されました。また、19日から始まるプロ野球のオールスターには、日本ハム・大谷、阪神・藤浪の高卒ルーキー2選手が選ばれました。海を渡った日本選手の活躍や、甲子園をわかせた2人の直接対決はあるのかなど、年に一度の「球宴」に心躍るファンも多いことでしょう。

 今回は1937年11月に開催された、日本プロ野球草創期の「オールスター戦」を取り上げます。「日本職業野球連盟」が創設され、リーグ戦がスタートして2年目のこの年、大阪朝日新聞社会事業団の主催で東西対抗戦が開催されました。会場は甲子園球場。東軍は東京巨人、東京セネタース、ライオン、イーグルス、西軍は大阪タイガース(今の阪神の前身)、名古屋金鯱(きんこ)、阪急(オリックスの前身)、名古屋(中日の前身)の各4チームでした。ちなみに当時は1リーグ制で春季、秋季の2季に分かれていました。優勝決定戦で秋優勝のタイガースが春優勝の巨人を下し、日本一になっています。2リーグ制になった51年以降、オールスターは夏に開催されていますが、東西対抗戦はシーズン終了後の11月に行われました。

 記事を校閲していきましょう。この試合で大活躍したのは、巨人のエース沢村栄治投手。記事では「澤村」と書かれています。当時は字体についての決まりがありませんでしたが、今の新聞では常用漢字表の字体「沢村」に統一しています。

拡大①東西対抗戦の各選手の成績を入れたテーブル。今と違って投手の細かい成績がありません
拡大②昨年のプロ野球オールスター第3戦のテーブル=2012年7月24日付東京本社版朝刊25面


 見出しの「澤村の快投」はその通りなのですが、もう一工夫を提案してみます。現代のオールスター戦では、一人の投手が投げるのは3回まで。沢村は9回を投げきり、三塁を踏ませない文句のつけようのないピッチングでした。「沢村が完封」のように、完封勝利という快挙を見出しに取りたいところです。

 また、「堀尾、山下好、景浦を三振に討取った」とありますが、「討つ」は武器で攻撃するという意味合いが強いので今なら「三振に打ち取った」とします。

 今回の記事の近くには各選手の成績表(通称「テーブル」)=右の画像①=も載っています。今の紙面でも同様のテーブル=右の画像②=を載せていますが、載せている内容は少し違いますね。打撃成績は細かく載せているのに対し、投手成績がおおざっぱです。今回のように投手に注目して読んでいる時は特に、今のテーブルの方が分かりやすいですね。

 「試合評」では、沢村のピッチングもさることながら、東軍打線の16安打や内野の見事な守備も絶賛されています。三塁手の水原茂(巨人)は引退後、巨人・東映・中日の監督を歴任して日本シリーズを5回制覇したことでも知られています。

 一方、大敗を喫した西軍は投手起用を批判されています。先発した古谷は名古屋金鯱の主力投手でしたが、この試合では東軍打線を抑えることができませんでした。この年の覇者・大阪タイガースの強力な投手陣から、若林、西村、景浦らを先発させるべきではなかったか、というわけです。

 この試合の主役は何と言っても完封勝利の沢村です。9回を投げて被安打6、奪三振7。160キロ近いと言われた速球と、打者の視界から消えるほど落ちたというドロップ(カーブ)が武器でした。第2、3戦でも登板しており、実力、人気両面で絶対的な存在だったことがうかがえます。

拡大東京ドームそばにある「鎮魂の碑」。沢村をはじめ第2次世界大戦で亡くなった選手の名前が刻まれている
 沢村は1917年、三重県生まれ。京都商業に進学して春(33、34年)、夏(34年)の甲子園に出場しました。(甲子園での活躍などについては2011年8月16日更新の「伝説たちの甲子園1 沢村投手の短い夏」をご覧下さい)

 甲子園に出たころにはすでに全国に知られた存在で、登板しないと「沢村を出せ」とヤジが飛び、試合後にグラウンドへ観客がなだれ込んだといいます。在学中の34年に全日本に選ばれ、来日した大リーグ選抜と対戦。ルー・ゲーリッグやベーブ・ルースらから三振を奪い、敗れたものの9回を1失点に抑えた試合もありました。同年末に中退して大日本東京野球倶楽部(現在の巨人)の旗揚げに参加し、17歳でプロ生活をスタートさせました。

 東西対抗戦があった37年の春季は24勝4敗、防御率0.81という驚異的な成績をマーク。巨人の優勝に貢献して最優秀選手に選ばれました。秋季は9勝6敗、2.38と成績を落としましたが、東西対抗戦に選ばれた選手の中でも、観客がいちばん見たかったのは沢村だったに違いありません。

拡大年間を通じて最も活躍した投手に与えられる沢村賞。昨年はソフトバンクの摂津投手が受賞した=2012年10月30日付東京本社版朝刊27面
 球界を代表するスターだった沢村ですが、戦争の影から逃れることはできませんでした。37年の暮れと41年、召集を受けます。2度とも復帰したものの過酷な兵役で体を壊し、球威を失って成績は急降下しました。44年初めには巨人を解雇され、戦況の悪化を受けてリーグ戦は中止に。失意のなか再び出征しますが、輸送船が米軍の攻撃を受けて台湾沖に沈み、27歳でかえらぬ人となりました。

 プロ実働5年で63勝22敗、防御率1.74。もし、平和な時代に全盛期を迎えていたら、せめて3度目の徴兵を受けていなかったら――。歴史に「たられば」は禁句ですが、一野球ファンとして、そう思わずにはいられません。現在も、シーズンで最も活躍した投手に贈られる沢村賞に、その名を残しています。

【現代風の記事にすると…】

沢村完封 東軍16安打で圧勝 プロ野球オールスター第1戦

 プロ野球オールスター東西対抗戦(大阪朝日新聞社会事業団主催・同情週間義金募集)は20日、甲子園野球場で第1戦が行われた。

 午後1時半からの開会式の後、午後2時35分に東軍の先攻で試合開始。審判は球審が池田、塁審が川久保、横沢、二出川の4氏。好天に恵まれ、1万人を超える観客がメーンスタンドを埋め尽くした。

 試合は14-0で東軍が勝利。ファインプレー賞(阪神電鉄寄贈)は東軍の沢村に贈られた。6回に西軍の2番堀尾、3番山下好、4番景浦を3者連続三振。試合を通じて西軍に三塁を踏ませず、完封勝利を挙げた。

 東軍 111 020 054=14
 西軍 000 000 000=0

沢村が西軍打線を寄せ付けず 東軍堅守も光る

 東軍が先発投手として沢村を起用したのは予想通りだった。だが西軍が古谷を先発させた采配には疑問が残る。先手必勝と考えたら若林、西村、景浦、鈴木らを先発させるべきではなかったか。

 (中略)

 東軍の沢村のピッチングは誰も到達できないレベルだった。6回は堀尾、山下好、景浦と西軍の主軸を3者連続三振に切って取った。加えて内野陣は鉄壁の守備で無失策。三塁水原、二塁苅田、遊撃高橋は美技を連発し、正確さと鋭さが光った。

 (後略)(芥田武夫)

(桑田真)

当時の記事について

原文どおりに表記することを原則としますが、読みやすさの観点から

  • 漢字の旧字体は新字体に
  • 句点(。)を補った方がよいと思われる部分には1字分のスペース
  • 当時大文字の「ゃ」「ゅ」「っ」等の拗音(ようおん)、促音は小文字に

等の手を加えています。ご了承ください