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昔の新聞点検隊

元祖「エースで4番」 景浦将

桑田 真

拡大1935(昭和10)年9月26日付東京朝日朝刊3面。画像をクリックすると大きくなります。主な直しだけ朱を書き入れています。現在の朝日新聞の表記基準で認めていない漢字の音訓や、当時は入れていなかった句点を入れる等については、原則として記入を省いています

【当時の記事】

秋のリーグ戦
後半奮起も及ばず 早大立教に惜敗す 堂々たる景浦の投球 5-4

早立野球第一回戦は二十五日午後二時七分から神宮球場で野本(主)片田、長沢、梶上(塁)四君審判、早大先攻で開始、五対四で立教先勝す、閉戦四時三十七分

◇…立教景浦投手の球速変化に意を注ぐ投球は益々堂に入り不幸後半疲れて救援を仰いだが第五回迄は大過なき投球振を示した、立教はこの間に早大の新人近藤投手を攻めてリードすべきであり、然も第一、二回に亘り無死の走者を出し好機を迎へたが孰れも走塁を誤り機を逸した 景浦君の場合は三塁コーチャーの指し図で本塁を衝いたのであるからその責はコーチャーの負ふべきものであったが第一回寺内君の無死に於ける二盗は余りに大胆に過ぎ第一回早大竹谷君の本塁猪突と共に好走者を自負する人々にとっては珍らしい軽率なランニングと見受けられた

◇…所が立教は第五回高野君の危機打者起用に成功しこの二塁打に依り一点を先取、近藤君をノックアウトした上、更に救援に起った若原君のカーヴを狙ひ、杉田、黒田、景浦君などよく打ち三点を加へ断然優勢を示した

(中略)

◇…早大はこの大量の負越を見た後漸く奮起し例により相手にとっては底気味の悪い打力を発揮して六、七、八回の三回に亘り七本の安打を連続しヂリヂリと得点を恢復し同点に漕ぎつけ試合は前半の単調を破り後半は変化多き場面を展開した

拡大早―立戦テーブル
◇…立教が第九回景浦君の疲労を慮り塩田君を救援せしめたことは真に機宜を得た作戦で好調の小島君に対し狙ひ過ぎて選ばれ塁に出したがその盗塁を封じ九回の早大の攻撃を完全に抑へたのは殊勲であった

◇…立教は以上の如き早大の追撃にあって危険に瀕したが第八回の中頃遂に坪内中堅手の再三にわたる悪守備に断念し、代って出場せる寺内君の二塁打と杉田君のこの場合絶対的正攻法とも見られるバントがあった後黒田君の遊撃右を破る一撃により遂に巨豪を屠り得た

(後略)(久保田高行)

 早 立

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 0 4
 1 0

 1 0
 2 0
 0 1A
 ―――
 4 5

(1935〈昭和10〉年9月26日付東京朝日朝刊3面)

【解説】

 前々回(7月16日公開)の「球宴で完封勝利! 昭和の大エース沢村栄治」で紹介した記事に、こんな記述がありました。「西軍の二、三、四番打者堀尾、山下好、景浦を三振に討取った(沢村の)好投」「西軍が若林、西村、景浦、鈴木らの投手をさし置いて球力の弱い古谷を起用したることは……」。「4番景浦」が、投手としても扱われています。

 景浦将(まさる)選手は、大阪タイガースのエース級の投手であり、4番打者でもありました。投手としての武器は重いストレート。打っては長くて重いバットを振り回し、豪快なホームランが持ち味。大事な試合の前には、そのバットにお神酒(みき)を吹きかける――。1973年から続く水島新司の人気野球漫画「あぶさん」の主人公・景浦安武のモデルの一人と言われています。今回は、草創期のプロ野球で投打に名を残す景浦の足跡をたどってみます。

 景浦は1915(大正4)年、松山市生まれ。地元の強豪・松山商に進み、32年の春の甲子園で優勝。夏も準優勝を果たします。卒業後は東京六大学の立教大に進学。今回取り上げる記事はその当時のものです。景浦は5番ピッチャーとして先発しています。

 それでは記事をみていきましょう。まず「第一回寺内君の無死に於ける二盗は余りに大胆に過ぎ」という部分ですが、読み進めていくと「第八回の中頃遂に坪内中堅手の再三にわたる悪守備に断念し、代って出場せる寺内君の二塁打」と書かれていることに気づきます。寺内は8回からの出場なので、1回に盗塁に失敗したのは坪内のはずです。

 終盤に追い上げた早大打線についての「相手にとっては底気味の悪い打力を発揮して」という表現はどうでしょうか。しぶとさを発揮した打線の立教からみた怖さを言おうとしたにせよ、少々悪い印象を与えます。「しぶとい打撃で」としてもらいましょう。さらに最後の「遂に巨豪を屠り得た」。「屠(ほふ)る」は辞書を引くと「敵を打ち負かす」という意味もありますが、「きり殺す」というのが基本的な意味のことばです。大学野球の記事にはふさわしくないので、「ついに強豪を破った」で十分です。

 この日の紙面は試合評や写真、テーブルはもちろん、ここでは省略しましたがイニングごとの経過も掲載されるなど、現在では見られないほど手厚く扱っています。当時は大学野球が大きな人気を誇り、中でも東京六大学は別格でした。1936年にプロ野球のリーグ戦が始まった後も、しばらくは大学野球の方が大きく扱われていました。

拡大1937年の巨人との優勝決定戦では、4番投手で出場するも打ち込まれて敗戦投手に=37年12月7日付東京朝日朝刊6面
 景浦は36年に立教大を中退し、大阪タイガースに入団します。「野球で金を稼ぐ」ことがよく思われていなかった時代。中退してのプロ入りには賛否両論あったといいます。

 しかし、1年目から守備では投手、三塁手、外野手をこなし、打っては4番打者として実力を発揮します。36年秋季は6勝0敗、防御率0.79でタイトルを獲得。37年以降は、タイガースに好投手が増えたため登板機会は減りましたが、リリーフで登板することもあり、しばしば「4番ピッチャー景浦」が見られました。打者としては37年秋季に首位打者、37年春季と38年春季に打点王を獲得。37、38年はチームを日本一に導きました。

 また、巨人のエース・沢村との対決はファンを魅了し「投の沢村、打の景浦」と称されました。36年の優勝決定戦第1戦で沢村から打った3ランホームランは、左翼席上段とも、場外の海まで飛んだとも言われ、後世まで語り継がれる一発でした。

拡大景浦の殿堂入りを記念したレリーフ=東京都文京区の野球殿堂博物館提供
 しかし、この時代の多くの選手と同様に、戦争のためプロ生活をまっとうすることはできませんでした。投手として実働4年で27勝9敗、防御率1.57。打者としては5年で打率2割7分1厘、25本塁打、222打点。2度の召集を受け、45年、フィリピンで戦死しました。29歳の若さでした。

 景浦が体現した「エースで4番」。アマチュア野球では珍しくありませんが、投打の分業が確立された現代のプロ野球ではなかなか見られない光景です。65年には、その功績が認められ野球殿堂入りを果たしています。

【現代風の記事にすると…】

立教サヨナラ勝ち 景浦好投 早大の猛追及ばず
東京六大学野球1回戦 

 早大対立教大1回戦は25日午後2時7分から神宮球場で行われた。審判は主審野本、塁審片田、長沢、梶上の4氏。早大の先攻で開始され、5-4で立教大が勝った。試合終了は午後4時37分。

 立教大・景浦は身上の緩急をつけたピッチングがさえた。後半は疲れから救援を仰いだものの、5回までは危なげない内容。立教はこの間に早大の新人・近藤投手を攻略してリードを奪っておきたいところだった。1、2回は先頭打者が出塁してチャンスを作ったが、走塁ミスで得点を挙げられなかった。景浦が本塁を狙ってアウトになった場面は、三塁コーチの判断ミス。1回無死1塁での坪内の盗塁失敗は無謀だった。一方の早大も1回に竹谷が本塁に突っ込みアウト。走塁巧者にしては軽率な走塁だった。

 立教は5回、代打高野の起用が当たった。二塁打で1点を先制し、近藤をノックアウト。さらに代わった若原のカーブを狙い、杉田の犠飛や黒田、景浦の安打で3点を追加。流れをつかんだ。

 (中略)

 早大は大量リードを奪われたことで奮起。しぶとい打撃で6~8回に7安打を集め、小刻みに反撃して同点に。単調だった前半に対し、後半は一転して変化に富んだ展開となった。

 立教は9回、疲労の見える景浦に代えて塩田をマウンドへ送り、これが成功。好調の小島には警戒して四球を与えたが、二盗を防ぎ、早大の反撃を断った。

 追い上げられた立教はその裏、守りでミスがあった坪内に代わって8回からセンターに入っていた寺内が二塁打で出塁。杉田が手堅くバントで送った後、黒田の遊撃右を破る安打でサヨナラ勝ち。強豪早大を破った。

 (後略) (久保田高行)

 早大 000 001 120|4
 立大 000 040 001|5

(桑田真)

 

当時の記事について

原文どおりに表記することを原則としますが、読みやすさの観点から

  • 漢字の旧字体は新字体に
  • 句点(。)を補った方がよいと思われる部分には1字分のスペース
  • 当時大文字の「ゃ」「ゅ」「っ」等の拗音(ようおん)、促音は小文字に

等の手を加えています。ご了承ください