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昔の新聞点検隊

皇居で見つかった謎の人骨16体

板垣 茂

拡大1925(大正14)年6月30日付東京朝日朝刊7面。画像をクリックすると大きくなります。主な直しだけ朱を書き入れています。現在の朝日新聞の表記基準で認めていない漢字の音訓や、当時は入れていなかった句点を入れる等については、原則として記入を省いています

【当時の記事】

発掘された白骨は十六体
黒板博士宮城前を調査 人柱ではない――と語る

宮城正門脇の二重櫓下から発掘された人骨に就て宮内省では帝大の黒板勝美博士に依嘱して史実及び考証学上からこの人骨を研究する事となり、同博士は廿九日午後二時内匠寮の鹿児島事務官に案内されて現場に至り二時間に亙って詳細に調査を遂げた、去る二十五日の宮内省からの発表によると人骨八体、貨銭廿八個、土器三個を発掘した事になってゐるが博士が実地に調査したところによると発掘された人骨は実に十六体である事が判った、宮内当局者は二十三日以後発掘されたものは人夫等が秘密にしてゐたのであると云ってゐるが十六体の人骨は何れも粉末に近いもので頭蓋骨、脊骨、歯などが比較的原形を存してゐるばかりのもので種々の状況から推して年代も寛永以前の人骨と推定される

築城の時の死亡者を葬ったものか

博士はやぐら下の地形、土じょう、骨格、貨銭、土器等を資料として考証学的見地からは左の如く語った

「問題の人骨発掘の真相を確かめる為現場に行って各方面から観察して見た 今まで伝へられたところには種々の誤伝があった 又真相と全く異った事も沢山ある 第一発掘されたのは十六体で立姿してゐるなど云ったが実は皆横臥して居りその状態も乱脈なものである 発掘された場所は自然土中二尺から四尺五寸位の深さの所である 発掘された所は元は沙面でその上に八九尺の盛土がして一方は石垣が積まれてある、さてその骨が何であるかは問題だが人柱とはどうしても考へられない 第一数が多すぎるしその埋葬方法があまり粗末である ここが築城以前墓地であったとも考へられる節があるが、自分は種々の点から考へて江戸築城の際過って死んだ者の亡がらを一箇所に集めて葬ったものではないかと思ふ 丁度やぐらの下から出る所を見るとあるひは人柱の故事にちなんでここに埋めたとも考へられる ただ墓場とすれば土葬なら何かその形跡があるはずであり火葬なら骨がこんなにまとまってゐる訳がない さうして見るとやはり過失死者を簡単に葬ったものと考へられる なほ今日自分が見たところではたしかにまだまだ沢山埋められてゐる模様である」

(1925〈大正14〉年6月30日付東京朝日朝刊7面)

【解説】

 月遅れのお盆も近づいてきたし、納涼も兼ねて……というわけではありませんが、今回は大正末期の皇居で起こった怪事件をお伝えします。当時は関東大震災からまだ2年後で、元は江戸城だった皇居も各所の櫓(やぐら)や門などが壊れ、当時の宮内省が修理に追われていました。二重橋の奥の土手上にある伏見櫓もその対象でしたが、工事のため基礎部分を掘ったところ、6月11、12の両日に4体の古い人骨が見つかりました。23日にも4体の人骨が出土したので大騒ぎとなり、宮内省は東京帝国大学の教授で文学博士の黒板勝美氏に調査を依頼します。29日に黒板教授が現地で確認したところ、実際には倍の16体分あると分かった――というのがこの記事です。

拡大11~12日の4体に続き、さらに4体が見つかったことを報じる記事=1925年6月25日付東京朝日夕刊2面
 とりあえず現代の校閲記者の目でチェックしてみましょう。

 いきなり本文冒頭に現れ、見出しにも取られている「宮城」(きゅうじょう)。漢字の意味から皇居のことだろうと類推はできますが、現在ではまず聞かない言葉です。実は太平洋戦争までは普通に使われた名称でした。1888年の明治宮殿完成の際に出された宮内省告示という、れっきとした根拠がありましたが、終戦後の1948年に廃止されたため、以後は一般的に「皇居」と呼ばれています。

拡大二重橋と伏見櫓。石垣は土手の上と下それぞれに積まれている
 現在呼ばれている「伏見櫓」ではなく「二重櫓」と書かれているのも気になります。なぜかは分かりませんが、この事件を扱う一連の記事を追っても同じ表現でした。二重橋の奥にあるから二重櫓なのか?と考えましたが、本丸に残る「富士見櫓」は当時の記事に「三重櫓」と書かれているので、外見を表しているようです。京都にあった豊臣秀吉の伏見城から移築されたという言い伝えが「伏見櫓」の由来とか。

 次に「帝大」。東大の前身、東京帝国大学のことですが、帝大は一つではなかったはず……と調べてみると、当時は既に京都、東北、九州、北海道の各帝大も創設済みです。東京帝大は元々ただの「帝国大学」だったのが、1897年の京都帝大創設の際に「東京帝国大学」と改称されました。記事が書かれた時代ではやはり「東京」があった方がよいでしょう。

 黒板教授の談話に移ります。しゃべったままを書いたためか、全体的に分かりにくい文章です。特に発掘場所を説明した箇所がよく理解できません。「発掘された場所は……の所である発掘された所は」と、同じ言葉が繰り返されているせいでしょう。どちらか一方を抜くか、違う表現にするかして、整理してもらいましょう。

 直後の「元は沙面でその上に八九尺の盛土」にも首をかしげます。「沙」は砂のこと。二重橋のあたりは築城時に埋め立てられた「日比谷入江」に面していたので砂地があったのかもしれませんが、櫓はかなり高い所にあり、そこまで砂が関係するのか疑問です。「沙面」を「斜面」の間違いと考えるとどうでしょう? これもよく分からない「自然土」という表現が、「盛土」をかぶせられる前の斜面のことなのではないかと思えてきます。石垣が「一方」だけに積まれているのも、斜面だからではないでしょうか。

 「八九尺」も、「八十九尺」(約27メートル)と「八から九尺」(約3メートル)のどちらなのか……。石垣が水面から櫓までびっしり続くのではなく、水面と櫓の土台部分それぞれに積まれている現状からすると、3メートルが正解のように思えます。当時は「十」の有無で書き分けていたのかもしれませんが、「八から九尺」などとすれば紛れがありません。

 こうして「築城時の事故による死者」という結論を一応出した黒板教授ですが、色々な可能性を検討して迷っているようでもあり、確信には至っていない印象です。わずか2時間の調査ですから仕方がないのかもしれませんが、実際のところ、これらの人骨はどうしてここに埋まっていたのでしょうか?

拡大人骨は増上寺に運ばれ、丁重に供養された上で葬られた=1925年7月3日付東京朝日夕刊2面
 都市史研究家の鈴木理生さんは、著書「江戸の町は骨だらけ」の中で、太田道灌が築いた小さな江戸城の周囲にはいくつもの寺があったと指摘します。徳川の江戸城は、それらの寺をすべて立ち退かせて拡大していきますが、墓の下の遺体も一緒に移転していったわけではない、というのです。しかもその墓は、後に江戸城の堀となる谷筋を利用した「人捨て場」のような粗末なものでした。黒板教授はそうした昔の風習を知らなかったため、「埋葬方法があまり粗末である」ことにこだわって、事故で死んだ者を隠すように埋めた跡、と判断してしまったというわけです。

 昔の人の、なかなかワイルド、というかドライな遺体観にはため息が出ますが、同時に私は、16体の骨が人柱(ひとばしら)ではなかったことに心底ホッとしました。なにしろ人柱とは、土木や建築の難工事の成功を祈り、神の心を和らげるために人を生き埋めにすることなのですから……。

【現代風の記事にすると…】

人骨は16体 「人柱ではない」 黒板教授、皇居を調査

 皇居・二重橋奥の伏見櫓(やぐら)付近から発掘された人骨について、宮内省は東京帝大の黒板勝美教授(古文書学)に調査を依頼した。29日午後2時、黒板教授は同省内匠寮の鹿児島事務官に案内されて現場に到着、2時間にわたり詳細な調査を行った。

 25日の宮内省の発表では人骨8体、古銭28個、土器3個が発掘されたということだったが、教授の調査の結果、人骨は16体あることが分かった。宮内省の当局者は「23日以降に発掘されたものは作業員が秘密にしていた」と話すが、16体の人骨はいずれも粉末に近い状態。頭骨、背骨、歯などが比較的原形をとどめるばかりなので、数え間違えたのだろう。そのような状況から、寛永年間(3代将軍家光の頃)以前のものと推定される。

築城時の死者を葬った?

 教授は、伏見櫓付近の地形、土壌や、発掘された骨、古銭、土器などから考証し、次のように語った。

   ◇

 問題の人骨発掘の真相を確かめるため、現場に行って各方面から観察した。その結果、今までに伝えられた話には色々間違いがあると分かった。まず人骨の数が違っていたし、立った姿で埋まっているなどと言われたが、実際は皆横になっていて、乱雑な状態だった。

 現場のあたりは、元々斜面だった所に3メートル近く盛り土をして、一方に石垣を積んである。人骨が出たのは自然土の部分の深さ60~130センチくらいの位置。骨は人柱とはどうしても考えられない。数が多過ぎるし、埋葬方法があまりに粗末だ。

 ここが築城以前に墓地だった可能性もあるが、築城の際に事故で亡くなった人の遺体を1カ所に集めて葬ったのではないか。ちょうど櫓の下から出るところを見ると、あるいは人柱の故事にちなんでここに埋めたとも考えられる。

 ただ、墓場だとすると、土葬ならその形跡があるはずだし、火葬なら骨がこんなにまとまっているわけがない。そうしてみると、やはり事故の死者を簡単に葬ったものと考えられる。なお、今日私が見たところでは、まだまだたくさん埋められているようだ。

(板垣茂)

 ※次は20日に更新します。13日の更新は休ませていただきます。

当時の記事について

原文どおりに表記することを原則としますが、読みやすさの観点から

  • 漢字の旧字体は新字体に
  • 句点(。)を補った方がよいと思われる部分には1字分のスペース
  • 当時大文字の「ゃ」「ゅ」「っ」等の拗音(ようおん)、促音は小文字に

等の手を加えています。ご了承ください