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昔の新聞点検隊

特ダネ競争はハト次第

拡大1937(昭和12)年11月21日付 東京朝日夕刊4面。画像をクリックすると大きくなります。主な直しだけ朱を書き入れています。現在の朝日新聞の表記基準で認めていない漢字の音訓や、当時は入れていなかった句点を入れる等については、原則として記入を省いています
【当時の記事】

可憐な〝空の聯絡員〟 上海戦線 本社報道陣に活躍

【上海にて園田特派員】第一線の戦況と忠勇なるわが将士の奮闘ぶりを一刻も早く銃後の国民に伝へたい――最前線にある従軍記者がどんな苦境にあってもまづ考へることはこの報道の一念だ 上海戦線といへば自動車で自由に駆け廻り短時間のうちにニュース蒐集ができるやうに想像されてゐるやうだが、これは上海市だけのことで一歩辺鄙な戦線に入れば前線までは自動車道路から近くて二千メートルも離れてゐるので前線からのニュース報道には一方ならず悩まされてゐたがこんど本社の報道陣には〝〝可憐な空の戦士〟伝書鳩が登場、活躍してゐる、ある記者は○○攻撃中の○○部隊につき○○○の塹壕の中で戦況を認め午後二時第一便を二羽に託したが銃砲弾の十字火のなかを翔ぶのだし、然も戦地での訓練を受けたといへ実戦に従ふのは此日が最初でいはば初陣だ 原稿をくくりつけた二羽を箱から抱き出せば轟く銃砲声にも恐れず飛立った、わづか五十メートル足らずの前方の支那陣地からはこれを眺めてたまげたらしく、鳩に向ってボンボンと発射をしてゐたが、勇敢なわれらの使者は悠々と二回、戦場の上空を鮮やかに旋回、上海の方角を認めるや、やがて中空に姿を没した

つづけて第二便を午後三時に放したが、いづれも五里の間を三十分足らずで飛翔し上海の本社支局鳩舎に帰りつき見事初陣の殊勲をたてた

(1937〈昭和12〉年11月21日付 東京朝日夕刊4面)

【解説】

 今回はその昔、報道機関で活躍していた鳩(はと)の話です。取材現場で書かれた原稿や写真のフィルムを新聞社に運び、「伝書鳩」「通信鳩」などと呼ばれていました。

 冒頭の記事は、日中戦争(1937~45年)の現地取材で、伝書鳩が活躍する様子を伝えたもの。文中の「2千メートル」は今なら「2キロ」とするところでしょうか。「〝〝可憐な空の戦士〟伝書鳩」のくだりは、「〝」が一つ多いので削ってもらいます。

拡大今回紹介した記事は、多くの写真と共に掲載された=1937年11月21日付東京朝日夕刊4面

 伝書鳩は帰巣本能を利用したもので、もともと軍隊で使われる「軍鳩」として出発しました。

 ノンフィクション作家の黒岩比佐子さんが記した「伝書鳩 もうひとつのIT」(文春新書)によると、鳩は古代ローマ時代から伝令に使われていたようです。プロイセンとフランスの普仏戦争(1870~71年)で目覚ましい活躍をし、オーストリアやイタリアなど欧州各国で導入されました。

 日本でも19世紀末から軍が研究を開始。通信や交通手段が途絶した関東大震災(1923年)で有用性が認められ、多くの報道機関が鳩係を置いて訓練するようになりました。

 鳩の脚や背中には、長さ数センチの「筒」が取り付けられています。記者たちは数羽の鳩を籠に入れて現場に行き、取材が終わると原稿やフィルムを丸めて筒に入れ、空に放ちました。

 「朝日新聞社史」によると、朝日と伝書鳩の付き合いは1893(明治26)年に始まります。陸軍の軍鳩に着目した東京朝日が飼い始め、2年半後に初めて実用化。井上馨が韓国から帰国したことを伝え、大阪朝日の記事には「此報は東京朝日新聞社にて久しく飼馴らしたる伝書鳩を品川より使用して得たるもの」と明記されました。

 どれだけの伝書鳩を飼っていたのか。正確なことは分かりません。ただ、東京朝日の創刊50周年を伝える1938(昭和13)年の紙面にこんな記事がありました。

 その当時の東京朝日の設備と陣容を記したもので、「伝書鳩総数 四百五十羽」「一日平均使用 五十三羽」「一日飛翔距離合計 二千四百十四キロ」とあります。単純計算すると、その日の「出番」の鳩は、平均で45キロ飛んでいたことになります。すごいですね。

◇   ◇   ◇

 戦後、通信手段の発達で活躍の機会は減りますが、山岳地帯や離島など交通事情が悪い場所では、伝書鳩は欠かせない存在でした。しかし、その時がやってきます。

 朝日新聞東京本社では1961(昭和36)年、約200羽が街の愛鳩家に引き取られて廃止。朝日新聞全体でも66年、大阪本社を最後に姿を消しました。

 東京本社で伝書鳩が廃止されて半月後。「ハトと暮らした37年 さよなら座談会」という見出しの記事が、夕刊に載りました。鳩の働きぶりが特ダネの運命を左右することもあっただけに、記者や鳩係の様々な思いが載っています。印象的なものを紹介して、今回の話は終わりにします。


 「エサをやり過ぎてもダメですね。ハラがいっぱいになるから巣に帰ろうとしないんだ。だから各社一緒のときは他の社にマメを食わせられないよう警戒したもんです」
 「とにかくハト係は締め切り時間が迫ってくると気が気じゃないですよ。写真部からは『まだか、何時に飛ばした』ってせめられるし……屋上へ上がって血マナコで捜す。チラッと見えるとすぐ写真部へ電話して……」
 「見えた、といっても上を回ってて、なかなか降りなくてね(笑い)」
 

拡大東京で伝書鳩が廃止されて半年後、記者や鳩係の思いを特集した=1961年5月14日付東京本社版夕刊3面

【現代風の記事にすると…】

従軍記者の思いのせ 上海でも伝書バト活躍

 最前線の戦況と兵士たちの奮闘ぶりを、一刻も早く伝えたい。こんな従軍記者の思いを翼にのせ、伝書バトが上海戦線でも活躍している。

 ある日の午後、記者は塹壕(ざんごう)の中で戦況を伝える記事を書き、2羽のハトに託して空に放った。約50メートル先の中国軍から射撃を受けながらも、上空を旋回して方角を定め、上海支局に向けて飛び立った。1時間後に第2便を放したが、どのハトも約20キロ離れた支局まで30分足らずで到着した。

 上海といっても、どこでも車で容易に移動できるわけではない。郊外の戦線では、道路から数キロ離れている所もあり、原稿や写真を届けるのに苦労する。なくてはならない相棒だ。(上海=園田○○)

(高島靖賢)

当時の記事について

原文どおりに表記することを原則としますが、読みやすさの観点から

  • 漢字の旧字体は新字体に
  • 句点(。)を補った方がよいと思われる部分には1字分のスペース
  • 当時大文字の「ゃ」「ゅ」「っ」等の拗音(ようおん)、促音は小文字に

等の手を加えています。ご了承ください