昔の新聞点検隊
(2013/09/17)
●犬の学校通ひ三年間
犬にも劣るとは能く云ふ文句なれど是は実に人間勝りの勉強家にて今日の学生諸君が聞かば別に咬附かれずとも耳の痛きを覚ゆべし 神田駿河台なる重野博士方の飼犬にて其名をジョンと云ふは一昨年の冬頃よりフト同区三崎町の大成中学校へ通ひ始め其後も何思ひけん雨の日風の日を問はず毎朝生徒の登校時刻には弁当こそ持たね同じやうに出校し放課時間を待って立帰る事一日も怠らず勧学院の雀の格で少しは英語でも囀づるかと思はるる程なれど旧臘の年末休暇には矢張登校せず新年となりて八日の授業始めになれば再び旧の如く出校して構内に遊び居るに人々奇異の思ひをなし流石は博士の犬なりとて専ら評判し居れりといふが其勉強の甲斐ありてか英語の一といふ字を覚えて人さへ見ればワンと云ふは妙なものなり
(1904〈明治37〉年1月12日付東京朝日朝刊5面)
【解説】
8月27日更新の「夏休みをボイコット!」で学校が大好きな子供たちの記事をご紹介しましたが、今回は学校が大好きな犬の話です。
今から109年前、東京・神田の学校に毎日通ってくる犬がいました。雨の日も風の日も生徒と同じ時間に登校し、校内で遊んで授業が終わると下校。ただ冬休みになると休み、年が明けて学校が始まるとまた学校に来たのだそうです。
さてこの記事、現代の校閲記者として読むと、いくつか気になる点があります。
まず冒頭の見出し。「学校通ひ三年間」とありますが、記事を読むと通い始めたのは「一昨年の冬」。ということは1902年初めごろですから、普通に考えると2年間です。
また、大成中学校の所在地が「同区三崎町」とありますが、この前に「○○区」という記述がなく、「同区」が何区なのか分かりにくいです。よく読むと、「神田駿河台」という地名があるので、「神田区」(今の千代田区の一部)のことでした。今なら「神田区三崎町」とするか、その前の地名を「神田区駿河台」などとするところです。
大成中学校は今の大成高校。1888(明治21)年創立の私立校です。戦後東京都三鷹市に移転しています。犬の飼い主「重野博士」は、歴史学者の重野安繹(やすつぐ)氏(1827~1910)の可能性が高そうです。
「勧学院の雀(すずめ)」は今ではあまり聞かない言い回しです。「勧学院の雀は蒙求(もうぎゅう)をさえずる」ということわざから来ています。「勧学院」は「大寺院の山内に設ける学僧養成の施設」(広辞苑)、「蒙求」は教科書として使われた中国の書物。「勧学院の雀はいつも蒙求を聞いているので、自然に覚えて蒙求をさえずるようになる」ということです。この記事では、「いつも英語の授業を聞いているので、この犬も少しは英語を話せるようになるかと思うほどだった」という意味になります。今なら似た意味の「門前の小僧」(元のことわざは「門前の小僧習わぬ経を読む」)の方が分かりやすいですね。
学校が好きな犬の話は、時々記事になっています。1952(昭和27)年には東京版で中学校の朝礼に参加するクロちゃんが写真つきで紹介されています=記事1。
1960年代には長野県の松本深志高校に犬がすみ着き、職員名簿にまで載ったそうです。この話は2003年に映画化されたので、ご存じの方も多いかもしれませんね。妻夫木聡さんや伊藤歩さんらが出演した「さよなら、クロ」という映画です。
昨年も新潟県五泉市の川東中学校の学校犬「黒子」が地域面で紹介されました=記事2。
ただ、今では犬だけで学校に通うことは、まず考えられません。全国の自治体の条例などで、犬の放し飼いは原則として禁じられています。また1950年施行の狂犬病予防法により、野良犬は自治体に捕獲されるようになりました。
狂犬病は犬から人に感染し、人が発症するとほぼ100%死亡するという恐ろしい病気。日本では犬へのワクチン接種などによって、1956年を最後に発生していません。このような国は世界的には少なく、厚労省検疫所のホームページによると、7月にも台湾で狂犬病の死者が出たそうです。
ところでこの記事、主人公のことが「犬」としかないのは、今から読むと物足りない気がします。犬と言っても犬種も大きさも様々。特徴をもう少し書き込んでほしいところです。
犬好きの筆者としては、記事冒頭の「犬にも劣る」はとても抵抗があります。犬を「愚かなもの」の例として挙げて、劣っていることを強調しています。当時としては当たり前の表現でしたが、最近はあまり聞かなくなりました。「飼い犬も家族」と考える人が増えたり、救助犬や癒やし犬(セラピードッグ)など、活躍の場が広がっていることもその一因でしょう。
2002年には身体障害者補助犬法が施行され、公共交通機関などは、身体障害者が盲導犬、介助犬、聴導犬を同伴して利用することを「拒んではならない」と明記されました。これも私たちの社会が犬を大事に扱うようになったことの表れと言えるでしょう。
放し飼いから家族、そして補助犬として掛け替えのない存在に。犬との接し方は時代とともに変わっていますが、人間の最も身近な動物という立場は、当分揺るぎそうにありません。
【現代風の記事にすると…】
●2年間学校に通う犬
「人間顔負けの勉強家の犬がいる」と聞くと、かみ付かれたわけでもないのに耳が痛くなる人がいるかもしれない。
東京市神田区駿河台の重野○○博士方の犬、ジョンは、一昨年の冬から同区三崎町の大成中学校に通い始めた。毎朝生徒の登校時刻に登校し、授業が終わるのを待って帰宅。雨の日も風の日も一日も休まなかった。
学校が冬休みに入ると登校せず、年が明けて8日に授業が始まると、また学校に来て敷地内で遊んでいる。
「さすがは博士の犬だ」と評判だったが、勉強のかいあって、英語の「1」という単語を覚えた。人をみれば「ワン」と言っているという。
(山村隆雄)
原文どおりに表記することを原則としますが、読みやすさの観点から
等の手を加えています。ご了承ください