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昔の新聞点検隊

姫路城は「ピサの斜塔」!?

板垣 茂

1941(昭和16)年1月26日付東京本社版朝刊7面拡大1941(昭和16)年1月26日付東京本社版朝刊7面。画像をクリックすると大きくなります。主な直しだけ朱を書き入れています。現在の朝日新聞の表記基準で認めていない漢字の音訓や、当時は入れていなかった句点を入れる等については、原則として記入を省いています

【当時の記事】

国産〝ピサの斜塔〟 傾く姫路城
しかも堅固な建築法

我が国城廓建築の最高峰として、旧規模を現存する海内無双の名城と称される姫路城に対する文部省並に姫路市の「姫路城保存調査事業」は去る昭和十三年まで三年間の調査に引続き昭和十五年から二年半の計画の下に実際調査に入ったがその第一年を終らうとする最近に至り、この名城こそ建築技術の進んだ現代でも尚不思議な技巧で組み立てられた堅牢無比の名建築であることが、数字的資料蒐集の結果判明した

〝何しろ築城技術の黄金時代たる関ケ原役後に出来た城だけにその巧みさは驚くばかりだ〟と調査担当者も云ったゐる、その驚嘆の焦点となってゐるのは、天に聳えてゐる地階とも七重の天守が、然もピサの斜塔の様に傾斜しながら日本の建築法でも極端に荒っぽい、簡単な構造で成り立ってゐてそれが風にも地震にも平然、殆ど心配ない結果を示してゐることである

大天守は現在全体が東南方向に一尺四寸傾斜してゐるが、この天守の二本の心柱は地上から最上階の床まで七十尺余通りこれが一尺数寸傾斜してゐる、そして天守の構造たるや普通の建物よりも簡単で、例へば枘の組合せや切欠等をせず、簡単な仕口や継手で後世の支柱とか添柱、方杖が実に多い有様、構造的には実に弱い筈なのである、そこで今回行った、調査は先づこの傾斜が慶長十四年に出来てから五十年間、即ち今から約二百五十年前の貞享頃までに現在の三分の二が傾斜してしまひ、あと三分の一の傾きはその後五倍の年月に少しづつ傾斜したことが判明したのである、その結果現在から将来にかけ、この傾斜は余りないことが判り、傾斜はしてゐても相当安全な状態にあることが判明したわけだ

 (後略)

(1941〈昭和16〉年1月26日付東京本社版朝刊7面)

【解説】

 日本の城と言えば誰もがその姿を思い浮かべ、日本初の世界遺産に登録されて20年になる国宝・姫路城。その天守が傾いている上に構造がシンプル過ぎて心配だが安全だという、妙に楽天的で「本当か?」と言いたくなる記事です。おかしい箇所がないか、チェックしてみましょう。

姫路城大天守(右)と小天守=2004年9月拡大いずれも姫路城大天守(右)と小天守=2004年9月
 ざっと読んだだけで気付くのは、2段落目の「……と調査担当者も云ったゐる」。もちろん、「云ってゐる」に直してもらいます。他に誤字、脱字は見当たりませんが、3段落目に江戸時代の年号を示した上で「○年間」「○年前」と経過年数を書いているのが気になります。合っているのか計算してみましょう。

 「慶長十四年」は池田輝政が姫路城を完成させた年で西暦1609年、「貞享」は1684~88年に相当します。この間は75~79年間。記事で「五十年間」としているのが怪しくなります。一方で貞享を「今から約二百五十年前」としているのは、この記事の載った1941年からさかのぼると257~253年前になるのでOK。ですが、実は「五十年間」が正しくて、「貞享」の方が間違っている可能性もあります。どちらかが違うのではないかと筆者に確認しましょう。「その後五倍の年月」も、「五十年間」と「二百五十年前」双方が正しくて初めて成り立つ表現なので、直してもらわなければなりません。

 この段落には普段あまり聞かない建築用語もいっぱい出てきます。「枘」(ほぞ)は二つの木材をつなぐために一方の端に作った突起、「切欠」(きりかき)はその逆で穴や溝、「仕口」(しくち、しぐち)は木材を直角か斜めに接合すること、「継手」(つぎて)は同じ方向に継ぎ足すこと、「方杖」(ほうづえ)は柱と梁(はり)が交わる角に斜めに入れて補強する木材のことです。

 どうしても辞書を引いてしまいますが、この記事が書かれた当時の人たちには説明なしで理解できたのかもしれませんね。

1959年8月13日付東京本社版朝刊8面拡大昭和の大修理で用意された新しい心柱は運搬中に折れてしまう。取り換え前の心柱がそうだったように2本継ぎにすることになったが、結局そうしないと組み立てられないことが後で判明した=1959年8月13日付東京本社版朝刊8面
 白鷺城とも呼ばれる立派な城の天守が傾いていたという話は、知らない人にはショッキングで、この記事が初報のように思えるかもしれませんが、実は江戸時代から知られていたことをうかがわせる伝説があります。

 築城工事を命じられた大工の棟梁(とうりょう)は姫路城を完成させたものの、天守が傾いているように思えてならない。そこで妻を伴って天守に登ると「惜しいことに少し傾いていますね」と指摘されてしまう。棟梁はそのまま天守から身を投げた……という話です。

 実際には設計や組み立てのミスではなく、地盤沈下が原因だったことが調査で分かっています。また、「東傾く姫路のお城、花のお江戸の恋しさに」という歌もいつからかは分かりませんが伝わっています。

素屋根に覆われている姫路城拡大現在は大天守が箱状の素屋根にすっぽりと覆われている姫路城
 記事では「傾いていても安全」とされていて、その後も放置されたままなのかと思ってしまいますが、現在は真っすぐ立っています。1956年から8年間の「昭和の大修理」で天守が解体された際、傾きの原因だった地下の盛り土が礎石と共に取り去られ、岩盤の上に直接コンクリートの基礎が築かれたのでした。その際に心柱も1本だけ取り換えられています。

 それから半世紀、現在は「平成の保存修理」として化粧直しが5年計画で進行中です。しっくい壁の塗り直し、屋根瓦のふき直し、軒先の修復などが中心で、大天守は箱状の素屋根(すやね)にすっぽりと覆われています。その中に有料の見学施設が造られ、修理中の大天守を普段は立てない位置から見ることができます。来年1月には閉鎖されてしまうので、見学したい方はお早めにどうぞ。


【現代風の記事にすると…】

姫路城は「ピサの斜塔」? 傾いても安全な建築法

 文部省と兵庫県姫路市による「姫路城保存調査事業」が、1938年まで行われた3年間の調査に続き、40年から2年半の予定で進行中だ。これまでの調査で、姫路城は建築技術の進んだ現代でも不思議な技巧で組み立てられていて、非常に堅固であることが判明した。

 調査担当者は「築城技術の黄金時代だった関ケ原の戦い直後に出来ただけに、その巧みさには驚くばかり」と話す。なかでも一番の驚きは、地下1階、地上6階で外観5重の大天守が、イタリアのピサの斜塔のように傾斜しながら、日本の建築法でも極端に荒っぽい簡単な構造で立っている一方、強風にも地震にもほとんど心配が要らないという結果が出たことだ。

 大天守は全体が東南方向に約40センチ傾斜しているが、その中の2本の心柱は地上から最上階の床まで20メートル余りを貫き、30センチ以上傾いている。天守の構造は普通の建物よりも簡単で、木材は簡素な仕口や継ぎ手で組まれている。後世に加えられた支柱や添え柱などが実に多く、構造的にはとても弱いはずなのだ。

 一方、今回の調査では、完成した1609年から貞享年間(1684~88)ぐらいまでに現在傾いているうちの3分の2が傾斜し、残り3分の1の傾きはそれから現在までの約250年間に少しずつ進行したことが判明した。その結果、現在から将来にかけてはあまり傾斜しないと予想でき、傾いてはいても相当安全な状態だと分かった。

 (後略)

(板垣茂)

当時の記事について

原文どおりに表記することを原則としますが、読みやすさの観点から

  • 漢字の旧字体は新字体に
  • 句点(。)を補った方がよいと思われる部分には1字分のスペース
  • 当時大文字の「ゃ」「ゅ」「っ」等の拗音(ようおん)、促音は小文字に

等の手を加えています。ご了承ください