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昔の新聞点検隊

あの手この手で初招致! 1940年幻の東京五輪

広瀬 集

1936(昭和11)年8月1日付 東京朝日新聞号外拡大1936(昭和11)年8月1日付 東京朝日新聞号外。画像をクリックすると大きくなります。主な直しだけ朱を書き入れています。現在の朝日新聞の表記基準で認めていない漢字の音訓や、当時は入れていなかった句点を入れる等については、原則として記入を省いています。記事画像は加工しているものもあります

【当時の記事】

オリムピック東京大会! 抑へ難し、四年後の興奮
スポーツ精神の華 歴史的な劇的感激篇
東京決定の委員会 ベルリン本社支局三十一日発

各国委員の出揃ふのを見た議長ラツール伯は厳かに右手に鈴を持って三十一日午後の会議の再開を宣した、愈東京かヘルシンキかを決める関ケ原となった、各国委員の顔も今日は特にひき締って見えたが副島、嘉納の両代表の顔は共に連日不眠の奮闘にひどく面やつれして見える

(中略)

愈 日、芬が雌雄を決する投票の順序となり、女事務員が呼ばれて会議室に這入ってくる、そして各国委員にそれぞれ東京とヘルシンキと別々にタイプされた白紙二枚と封筒を配った、此時ラツール伯は頃合を見計らって立上り厳そかに「之から投票に移ります、どうか適当だと思はれる都市を書いてある紙を一枚だけ無記名のまま封筒の中に入れて下さい」といへばそれまで静かだったこの委員会も急にざわめき出し、中には日本に好意を示す国等はわざわざ副島、嘉納両代表の眼の前で東京と書いた用紙を入れる者さへあった、ラツール伯も日芬両国が同点となった時のキャスチング・ヴォートとして間違ひもなく東京と書いたものと思はれる一枚の用紙を封筒に入て机の上に置く、支那の王正廷氏のみは自分は小国に味方するがオリムピックは東洋で開かなければならぬといふ前日の総会でも述べたと同じ理由で遂に棄権した、其間にあって杖を引きながら老体を総会に運んだ米国のガーランド氏は刻々に移りゆく情勢をノートに取って副島氏にみせるなど日本のため大いに味方してくれる、又風邪を引いて寝こんでゐたイタリーのボナコッサ伯が投票前に駆けつけて日本のために投票する、やがて英国のバーレー卿が立会人となって開票が始まった、バーレー卿の右手が日本、左手がフィンランドだ、刻々に迫る情勢に日芬両代表の顔は悲喜交々、日本に同情するバーレー卿も日本と出るとニッコリ笑って我が両代表の顔を見る、最後に近づいてバーレー卿、嘉納、副島伯等の顔も晴れやかに遂に卅六対廿七といふ九票の差を以て我が日本に!我が東京に! 凱歌が挙ったことが判った、ああ!遂に東京が勝ったのだ、するとそれまで悄然としてゐたフィンランド代表クロギウス氏が急に立ち上って我が両代表の前に進み寄り「お目出度う」と固い握手をする 此スポーツ・マン・ライクなシーンを見た各国委員は感激して忘れて立ち上り、万歳!万歳!と叫んで大騒ぎ、遂にオーストリー代表シュミット博士は新聞記者や招致委員の渦巻くドアーの所に消えて唯一声「東京!」と大声で怒鳴った、最後に嘉納代表は立って「日本はオリムピック精神に忠実に立派に次の大会をやって見せます」と挨拶すれば再び万歳!と拍手の嵐に包まれここに国際オリムピック総会は終了した

(1936〈昭和11〉年8月1日付 東京朝日新聞 号外)

【解説】

 2020年東京五輪。開催決定から1カ月以上経ちましたが、五輪の関連記事は相変わらず元気。1964年の東京五輪を念頭に置いた「2回目の東京五輪」「2度目となる開催」といった表現も見られます。でもこれが「東京招致の成功は2度目」だったら……校閲記者は待ったをかけます。1940(昭和15)年に開催するはずだった「幻の東京五輪」があるからです。

1936(昭和11)年8月1日付 東京朝日新聞 号外拡大1936(昭和11)年8月1日付 東京朝日新聞 号外
 1936(昭和11)年7月31日、ベルリン五輪の直前に開かれた国際オリンピック委員会(IOC)総会で、次の五輪開催地は東京と決まりました。今回の記事は、その時の号外です。欧米以外で開かれる初の五輪の招致成功。IOC委員による投票の様子を伝えるこのルポ調の記事をトップに、興奮を抑えきれない紙面になっていますね=右の画像

 ではまずいつもの校閲チェックから。「日、芬」が雌雄を決するとあります。日は日本と分かりますが、「芬」は見慣れませんね。答えはフィンランド。漢字で「芬蘭」とあてます。この時はフィンランドの首都ヘルシンキと東京で決選投票が行われたのでした。現在の取り決めでは、漢字一字で略せる国名は米、英などよく知られている主要国に限っているので、片仮名表記にしてもらいます。

 日本からは「副島、嘉納両代表(委員)」が出席しています。伯爵の副島道正(父は副島種臣)と、「柔道の父」とも言われる、嘉納治五郎です。嘉納は柔道を世に広めるとともに、日本のスポーツ発展に尽力した教育者でもありました。その嘉納に、1カ所だけ敬称がついていません。このように人名を並べるときに見落としがちなミスですね。「氏」を入れておきましょう。

◇     ◇     ◇

1930年12月4日付 東京朝日朝刊11面拡大別記事1 五輪を東京で開く構想が浮上したことを伝える記事=1930年12月4日付 東京朝日朝刊11面
 40年五輪の招致の話が紙面に初めて登場したのは、1930(昭和5)年末=別記事1。当時の東京市長・永田秀次郎らの発案でした。1940年は初代神武天皇が即位してから2600年の節目にあたるとされます。その祝賀の一環として招致しようという構想でした。翌31年10月には東京市会で、招致を市に求める建議が可決。しかしこの時の可決理由をみると「復興成れる」東京において五輪を開催することは、紀元2600年記念とともに、「帝都の繁栄」にもつながる、とあります。1923年の関東大震災から数年、復興してきた東京を盛り上げよう、という本音もあったようですね。東日本大震災からの復興をかかげる今回と、どこか通じる点があります。

1932年7月13日付 東京朝日夕刊2面拡大別記事2 東京駅を出発する嘉納と見送る永田=1932年7月13日付 東京朝日夕刊2面
 IOCに正式に立候補を表明したのが、32年のロサンゼルス大会に際して行われた総会の場。日本初のIOC委員である嘉納が永田の書状を持参します=別記事2。この時すでに数え73歳。当時は飛行機の国際線などない時代、約半月かけての船旅です。これ以降、嘉納は毎年のように世界各地で行われる総会に出向いては、招致運動に尽力します。

1933年11月21日付 東京朝日朝刊3面拡大別記事3 ウィーン総会から帰国後、東京開催の可能性について語る嘉納=1933年11月21日付 東京朝日朝刊3面
 32年総会で東京が候補地に名乗りをあげたとき、すでに9カ国の都市(ローマ、バルセロナ、ヘルシンキ、ブダぺスト、アレクサンドリア、リオデジャネイロ、ブエノスアイレス、ダブリン、トロントまたはモントリオール)が立候補していました。ただでさえ出遅れた東京、さらに欧米からは遠いし夏は暑いしで、当初は見込みが薄かったようです。帰国した嘉納も「望みはあるがこっちのものとなったとはまだいへない」と少々弱気でした。

1934年12月7日付 東京朝日朝刊3面<拡大別記事4 ローマに建設中の競技場やテニスコートを紹介する記事。周囲には彫刻がずらり=1934年12月7日付 東京朝日朝刊3面
 翌33年のウィーン総会でも「出発する時はほとんど駄目だと思ってゐた」嘉納、総会後は活動のかいあってか欧州にも賛同者が出てきて「自信を得て来た」というものの、ローマを最も警戒しています=別記事3。ローマはイタリア首相ムソリーニも招致に力を入れており、豪壮な競技場なども造りつつありました=別記事4

1935年2月11日付 東京朝日夕刊1面拡大別記事5 副島、杉村両委員の説得でムソリーニからローマ開催見合わせの同意を得たと報じる1面トップ記事=1935年2月11日付 東京朝日夕刊1面
 別記事3では嘉納が、ムソリーニを直接説得することをほのめかしています。五輪招致の基本は、都市による招致。国家のトップと直接交渉するなんて、現在だったらまさかの出来事です。ところがそのまさかが、実現したのでした。嘉納と同じくIOC委員を務めていた外交官の杉村陽太郎が、34年に駐イタリア大使に就任。ムソリーニと接触を重ねながら、35年2月、杉村が副島を伴ってムソリーニに面会し、東京開催の意義を説明したり、44年五輪はローマを応援することを提案したりして、辞退の約束をとりつけたのでした=別記事5。40年五輪の開催地を決めるオスロ総会の直前のことです。

1935年3月2日付 東京朝日朝刊13面拡大別記事6 開催地決定が1年延びた事を伝える記事。「日本嫌ひ」のラツールが杉村に文句をつけている場面が報じられている=1935年3月2日付 東京朝日朝刊13面
 ところが新たな問題が発生します。イタリアの委員がムソリーニの意向をはねつけ、決選投票出馬を強行しようとします。記事にも「如何に独裁者でもオリムピックを拘束する権能なく」(1935年3月1日付東京朝日朝刊3面)とあるように、政治とスポーツは別もの。ここまで努力してきたイタリアの委員も引き下がれなかったのでしょう。そこで杉村らはムソリーニからの電報を急きょ調達し、改めてイタリアの委員を強硬に説得。ようやく辞退の確約を得ます。すると今度はこの行為が、IOC会長・ラツールらの不興を買いました。翌年のベルリン総会まで、開催地決定を1年延ばされてしまいます=別記事6

1999年1月25日付 朝日新聞東京本社版 夕刊1面拡大別記事7 ソルトレークシティー冬季五輪招致に際して大規模な買収疑惑が浮上、関与したIOC委員が追放となることを報じる記事=1999年1月25日付 朝日新聞東京本社版 夕刊1面
 そこで嘉納らがとった次の手段は、そのラツール会長の懐柔です。なんと日本に招いてしまいました。名目上は招待ではなく個人的な旅行だったようですが、候補都市に会長が行くなど今では考えられません。98年末に発覚した大規模な買収スキャンダル=別記事7=を契機に、現在は候補地関係者とIOC委員の接触が制限されています。投票の前に「評価委員」が1度視察に訪れるのみで、その際も過度な接待や贈り物は禁止となっています。

1936年3月28日付 東京朝日朝刊11面拡大別記事8 ラツールの東京訪問の感想を伝える記事。25年前の来日時との変化に驚き、「妨げとなるべき何物も」無く、「予期以上」に満足した、とある=1936年3月28日付 東京朝日朝刊11面
 当時はそのようなことは無いので、ここぞとばかりの大歓迎。36年の3月19日から4月9日まで、東京のみならず京都や奈良にも連れて行ったり、昭和天皇にも会わせたり。かくいう朝日新聞も歓迎会を行っていました。接待の効果はともかく、実際に自分の目で東京を見、また招致関係者とも意見を交わしたラツールは、帰国する頃にはすっかり東京派に。別記事8では、「一点の不満もなし」の見出しでラツールの感想を伝えています(ただし、ここまで態度が急激に変わったのは、日本に近づきたいヒトラーの圧力も裏にあったからではないか、という説もあります)。

1936年6月24日付 東京朝日夕刊2面拡大別記事9 出国直前にロンドンの立候補情報が入り、「困ったことになった」と見出しをつけて嘉納の様子を伝える記事=1936年6月24日付 東京朝日夕刊2面
 ここまでくればもう安心、あとはもう一つの候補地ヘルシンキを上回るのみ。今も昔も変わらぬ「票読み」記事などが出始めたころ、最後のハプニングが起こります。6月、大都市中の大都市、ロンドンが急きょ立候補を表明したのでした。これもまた、立候補締め切り日が設定されている現在との相違点ですね。ちょうど嘉納が最後の招致運動のため欧州に向かう直前だったようで「七十七の戦士」嘉納も「憂色を浮べ」ながら旅立ちます=別記事9

 結局このロンドンの立候補は、副島や、すっかり日本びいきになったラツールの説得によってなんとか撤回させることに成功。そして総会では、最後の演説で嘉納、副島が初のアジア開催の意義を熱弁、今回の記事の投票へと進んだのでした。この時のIOC総会の映像が、朝日新聞デジタルの東京五輪コーナーにあるのでぜひご覧下さい(朝日新聞デジタルへのログインが必要です)。

 このように、あの手この手を尽くして勝ち取った五輪でしたが、その後の日中戦争の拡大などで開催権を返上することになってしまいます。38年7月、嘉納が亡くなった2カ月後のことでした。ヘルシンキが代替地になるものの、これも第2次世界大戦の影響で中止。

 これらの経緯はこちらの記事もご参照ください。

 ラツールは、東京決定後、国の介入で国威掲揚的な様相になっていくことに懸念を示していたそうです。2020年大会は、いつの間にかアベノミクス第4の矢などとも言われていますが、政治とはほどよい距離を保ちつつ純粋にスポーツの魅力を楽しめる大会としても成功することを期待したいですね。

【現代風の記事にすると…】

オリンピックは東京に あふれる4年後への興奮
大舞台決定の委員会、歴史的な感動劇 IOC総会ルポ

 31日午後の国際オリンピック委員会(IOC)総会。委員がそろうと、議長のラツールIOC会長は鈴を鳴らして会議の再開を宣言した。

 東京かヘルシンキか。いよいよ1940年五輪開催地が決まる。各委員の表情がいつにも増して引き締まるなか、副島道正、嘉納治五郎両委員の顔はともに連日不眠の奮闘でひどくやつれて見える。

 (中略)

 投票となり、会議室に入ってきた事務員が各委員に2枚の紙と封筒を配る。紙にはそれぞれ「東京」「ヘルシンキ」とタイプされている。

 「これから投票に移ります。開催地にふさわしいと思う都市名が書いてある紙だけを、無記名のまま封筒の中に入れて下さい」。ラツール会長がそう呼びかけると、それまで静かだった場内も急にざわめき出し、中にはわざわざ副島、嘉納両氏の目の前で「東京」の紙を入れる、日本に好意的な委員もいた。

 ラツール会長も同点となった時のキャスチングボートとして、おそらく東京と書かれているであろう紙を封筒に入れ、机の上に置く。王正廷委員(中国)だけは、「自分は小国に味方するが五輪は東アジアで開くべきだ」という前日の総会でも述べたとおりの理由で棄権した。高齢ながら杖をつきつつ総会に出席したガーランド委員(米国)は日本に協力的だ。刻々と移りゆく情勢をノートにとって副島氏に見せている。風邪を引いて寝込んでいたボナコッサ委員(イタリア)も駆けつけて日本のために投票した。

 そして開票。立会人のバーレー委員(英国)の右手が挙がれば東京、左手ならヘルシンキだ。当のバーレー氏は日本びいき、東京が出るとにっこり笑って日本の両委員を見るが、刻々と変わる情勢に日本、フィンランドの各委員の表情は忙しい。しかし最後に近づくにつれ、嘉納、副島両氏の顔が晴れやかになっていく。開票終了、36対27。9票差で開催地に選ばれたのは東京だった。

 一瞬の静寂の後、落胆していたフィンランドのクロギウス委員が急に立ち上がった。日本の両委員の前に歩み寄り「おめでとう」と声をかけ、固い握手をした。このスポーツマンシップに各委員は感激し、立ち上がって「万歳!万歳!」と祝福。シュミット委員(オーストリア)が新聞記者や招致委員がひしめき合うドアに向かい「東京!」と大声で知らせ、嘉納氏が「日本はオリンピック精神に忠実に立派に次の大会をやってみせます」とあいさつした。再び拍手の嵐に包まれるなか、IOC総会は幕を閉じた。

(広瀬集)

当時の記事について

原文どおりに表記することを原則としますが、読みやすさの観点から

  • 漢字の旧字体は新字体に
  • 句点(。)を補った方がよいと思われる部分には1字分のスペース
  • 当時大文字の「ゃ」「ゅ」「っ」等の拗音(ようおん)、促音は小文字に

等の手を加えています。ご了承ください