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昔の新聞点検隊

東京に28センチの大雪!? 交通網寸断で大混乱

加勢 健一

1936(昭和11)年2月5日付東京朝日朝刊11面拡大1936(昭和11)年2月5日付東京朝日朝刊11面。画像をクリックすると大きくなります。主な直しだけ朱を書き入れています。現在の朝日新聞の表記基準で認めていない漢字の音訓や、当時は入れていなかった句点を入れる等については、原則として記入を省いています
【当時の記事】

白魔の蹂躙・帝都を闇に化す
果てなき“空襲”今暁に及ぶ
四十九年来の暴風雪
凄愴、雷電を加へて狂乱
全市の動脈停止す

 立春を控へて帝都は四日午後から四十九年来の大吹雪に襲はれた、帝都を濛々たる白一色に包んで一間先も見えぬ白銀の都と化してしまった稀有の大吹雪は夜に入るも歇まず雷鳴稲妻の凄みを添へ、これがため全帝都の交通は半身不随に陥り空前の大混乱を来した 市内各所は停電、夜に入って大吹雪の中に釘づけになった市電は六百台に達し、列車もまた大遅延、省線電車も午後十時に運転停止、バスも円タクも立往生、一方郊外電車は宵の中に発車を停止し円タクも殆ど街上より影をかくした、劇場、映画館は閉場となっても観客が去らず、興行者側に対して「泊めてくれ」と悲鳴を揚げ、許可を警視庁に求めて来るといふ未曽有の大吹雪……午後十時半には送電が危険になって中止されたので全市は殆ど全く暗黒と化し街々は白い廃都のやうに鎮まり返ってしまった、この通信、交通各機関の全面的麻痺に当面して逓信局、鉄道局では善後方策もつかず手をこまねいて吹雪の鎮まるのを待ってゐる状態であるが、東京市土木局では先づ街々の除雪対策を樹て五日未明を期して二万人の人夫を動員して当ることになった

(1936〈昭和11〉年2月5日付東京朝日朝刊11面)

【解説】

 暑さが続いた今夏、高知県四万十市では8月に観測史上最高の41.0度を記録し、東京都心でも最低気温が30度を下回らない「超熱帯夜」を初めて経験しました。2カ月後の10月、今度は北海道帯広市で昨年より33日も早く初雪を観測。大型で強い台風26号は伊豆大島を襲い、大雨で発生した土石流が甚大な被害をもたらしました。

 猛暑、雨、風と、人々の生活を次々とおびやかす天変は、気候変動の影響によるものでしょうか。季節はもうすぐ本格的な冬。次は寒さや雪に備えなければなりません。今回は、昭和初期の東京であった「49年ぶりの大雪」を報じる記事をとりあげ、過去に学ぼうと思います。

 それでは現代の校閲担当者の視点から記事を読んでみましょう。まず文章全体に目を通してみると、いったい何センチの積雪があったのかが分かりません。紙面ではこの文章と別稿で、気象台の「藤原博士」の談話として「28.5センチの積雪があった」ことを伝えています。気象に関する記事はデータが第一。文章の出だしに積雪量を明記するよう提案します。

1936年2月5日付東京朝日付録1面拡大49年ぶりの大雪の様子を写真で伝える紙面=1936年2月5日付東京朝日付録1面
 表現面では「全帝都の交通は半身不随に陥り」が気になります。たとえとして病気や障害を引き合いに出すのは不適当です。また、現代の表記では「悲鳴を揚げ」は「悲鳴を上げ」と、「鎮まり返って」は「静まり返って」とします。「廃都のように」はやや古めかしい印象なので「ゴーストタウンのように」としておきましょう。「人夫」も同様に「作業員」とします。

 未曽有の大雪だったことはよく分かりますが、見出しにずらりと並ぶ「白魔の蹂躙(じゅうりん)」「空襲」「狂乱」は大げさな感じがします。脚色せず、出来事そのものに焦点を当てたいところです。

 さて、都心が大雪に見舞われたのは1936(昭和11)年2月4日のこと。昼すぎから降り出した雪は風と雷を伴って激しくなり、午後9時の時点で積雪は28.5センチに達します。猛吹雪で視界が奪われ、電車は変電所のトラブルや架線切断などで全面的に運行を停止。東京駅には足止めを食らった乗客があふれ、ホームや待合室、駅長室まですし詰め状態になりました。一方、吹雪の影響を受けなかったのは地下鉄です。地上の電車やバスをあきらめた人々が続々集まり、未明まで運転を続けたようです。

 歌舞伎座では幕が下りても300人が帰れず、観客席を翌朝まで開放。日比谷映画劇場では炊き出しのおにぎりが振る舞われました。東京市土木局は除雪にあたるため、作業員のべ2万人、トラック1100台を急きょ集めました。

 後日の紙面によると、この大雪による積雪は都心で31.5センチに達したといい、記録的な大雪だったことが分かります。

 実はそれから19日後の2月23日、都心はまたもや大雪に襲われます。積雪は36センチに達し、4日の記録をあっさりと更新。気象庁(当時は中央気象台)は1875(明治8)年に積雪量の観測を始めましたが、36センチは「観測史上3位」の記録となりました。

1936年2月24日付東京朝日朝刊11面拡大東京に35.5センチの積雪があったことを伝える紙面=1936年2月24日付東京朝日朝刊11面

 このときは、前回の大雪で交通網が寸断した反省から、東京鉄道局の局長が「いくら金をかけても延着、不通を出すな」と号令をかけ、総動員で除雪作業にあたりました。また、東京市内の主要20駅にある約300個の「転轍機(てんてつき=ポイントのこと)」が凍って動かなくなるのを防ぐため、総勢1500人で火をたき、お湯を沸かしてはかける作業を繰り返したと、翌2月24日付朝刊では報じています。

 同じ紙面で、当時「お天気博士」として有名だった中央気象台の藤原咲平(さくへい)博士(1884~1950)のインタビューが紹介されています。記者の「今年はずいぶん雪が積もるが、変じゃありませんか?」という問いに、「変じゃない、東京の2月は雪が降るのが本当で、降らない方が変なんだ」と答えています。

 東京都心では21世紀に入って以降、10センチを超える積雪は一度もありません。暖冬傾向にあると言われる近年から見れば、東京にこれだけの大雪が降るとは信じがたいことですが、昭和の初めごろは藤原博士の言葉どおり、まとまった雪が降るのはそう珍しくなかったのです。ちなみに「観測史上1位」はというと、1883(明治16)年に記録した46センチ。これが今後破られることは、まずないでしょう。

 積雪36センチを記録した1936年2月23日から3日後、戦前の日本を揺るがすあの「二・二六事件」が起こります。銃を持って闊歩(かっぽ)する反乱兵の姿は、解けきらない雪とともに人々の記憶に刻まれることになったのです。

 ところで気象庁の資料によると、「観測史上2位」は戦争末期の1945(昭和20)年2月22日に記録した38センチでした。ところがこの大雪、予報も含めて当時の紙面で報じられた形跡はなく、様子を詳しく知ることはできません。戦時中、気象情報は軍事機密とされ、天気予報などが国民向けに発表されることはなかったのです。

 気象庁OBの倉嶋厚さん(89)は、大先輩にあたる藤原博士について「災害を防ぐための予報という考えが藤原先生の根底にあった。今こそ、その根底を忘れてはならない」と語っています(2013年10月25日付朝刊)。人々の生活と密接に関わるお天気の情報。これがわれわれ国民に知らされない時代が巡ってくることは、二度とあってはなりません。

【現代風の記事にすると…】

都心で積雪28.5センチ 49年ぶりの大雪
交通網大混乱、電車など全面停止

 立春を控えた4日、東京は午後から49年ぶりの猛吹雪に見舞われ、都心で28.5センチの積雪を観測した。白一色に包まれた街は視界がきかず、雷鳴がとどろき、交通機関は大混乱した。

 夜には市電600両が路面に釘付けとなったのをはじめ、省線電車は午後10時に運行を停止、バスやタクシーも立ち往生した。劇場や映画館では終演後も帰途につけない観客らが主催者に対し「泊めてくれ」と悲鳴を上げ、警視庁に許可を求める事態となった。午後10時半ごろには市内の送電が止まった。街は闇に包まれゴーストタウンのように静まりかえった。

 通信・交通の大規模障害に対し、逓信局や鉄道局は対応策を見いだせずにいる。一方、東京市土木局は5日未明から2万人の作業員を動員して除雪に乗り出すことになった。

(加勢健一)

当時の記事について

原文どおりに表記することを原則としますが、読みやすさの観点から

  • 漢字の旧字体は新字体に
  • 句点(。)を補った方がよいと思われる部分には1字分のスペース
  • 当時大文字の「ゃ」「ゅ」「っ」等の拗音(ようおん)、促音は小文字に

等の手を加えています。ご了承ください