昔の新聞点検隊
(2013/11/26)
大蔵省内 将門塚の発掘に就て
将門の遺跡として多少歴史家にも重きを置かれて居る、大蔵省構内池畔の将門塚を発掘中だといふ報告に接して、実は意外の感に打たれた、縦し坂谷蔵相が熱心なる将門宗であったにしろ、由緒ある古蹟を専門家の立会をも経ずして、素人了簡に攪乱するは甚だ以て宜敷ない、のみならず後世に誤りを伝ふる虞もあるので、現場の模様をも見、併せて其の目的をも確めんものと、昨日担任の●●工学博士を大蔵省に訪ふた、折しも氏は博覧会へ行かれた留守で、■■技師が代って左の如く答へられた
「実は今朝の新聞紙を見て驚いた、今度の発掘は古蹟を調査するといふ目的ではない、其の場所へ新に二基の紀念碑を建る考へで、ホンの地均をしたに過ないのです、最初より塚を調るのが目的であったなら、仰の如く専門家をも聘し、又新聞社の方々を御招き申して、立会って頂かなければならない、元々右の様な事情であった為め、何の考へもなく手を付けた所が、大袈裟の墳墓発掘呼はりをされたので、実は驚いて居る所であります」と左も迷惑気に語られた
(中略)
現場の模様を見るに、従来将門塚と称へられて居た五輪塔は、傍へ取除けられ、其下を八尺に六尺ほど長方形に一丈余も掘下られてあった、層は上部六尺程は積土であったが、其下は青黒色の泥土になって、其内より石塊三箇と木片数箇を発見された、併し之は極めて新しいもので、酒井雅楽頭当時に池の水捌でも造った残部らしく、将門の遺跡に付ては毫も関係はないらしい
(中略)
兎もかくも遺蹟を発掘したのは評判の如く事実であった、古来より伝設のある場所といひ、比較的新しいものではあるが、五輪塔の残部が現存して居る場所を、専門家の手をも待たずして素人了簡にいぢくり廻したのは、何にしても面白からぬ事ではあるまいか、世間伝ふるが如く大蔵省官吏が物好半分に、将門の塚を発掘したと言はれても仕方がなからうと思はれるのだ。(一記者)
(1907〈明治40〉年5月31日付東京朝日朝刊5面)
【解説】
皇居にほど近い東京・大手町のビルの谷間に、「将門塚」と呼ばれる一角があります。平安時代中期の武将で、新皇と称して関東の独立を宣言した平将門(たいらのまさかど)の首が葬られていると伝わる場所です。
将門は現在の茨城県で討たれ、その首が京都に送られてさらされたが、宙を飛んで関東に戻ってきたと言います。そんな伝説があるせいか霊力の強い神様としておそれられ、江戸総鎮守の神田明神も将門が祭神で、元はこの首塚付近にありました。
今回の記事はそんな将門の塚を大蔵省(現在の財務省)のお役人が、学者も呼ばずに掘ってしまったというものです。1940年に霞が関に移転するまで大蔵省は大手町にあり、将門塚はその敷地内に取り込まれていました。お役所の庭ではありましたが、今はない池もあって広かったようです。
それでは校閲してみましょう。
まず、熱心な将門宗信者だという「坂谷蔵相」。人名を間違えるのは大変失礼で、訂正記事を出すことになるので必ずチェック。原文が長いので一部省いて「(中略)」としましたが、実はその中に「阪谷蔵相」も出てきます。
調べてみると、前年の1906年に第1次西園寺公望内閣が発足していて、その大蔵大臣は阪谷芳郎です。08年まで務めているのでこの人で間違いなさそうです。「つちへん」ではなく「こざとへん」では?と聞いてみましょう。
この2年前の記事には大蔵次官時代の阪谷氏が登場していて、なぜか経済学協会で将門塚を紹介しており、五輪塔の写真もあります=参考記事①。今回の記事に出てくる2基の記念碑のうち一つも阪谷氏が建てたものですから、記者の言うとおり将門信者として有名だったのかもしれません。
最後の段落に移ると、行頭に「兎もかくも遺蹟を」とあります。これはこの記事の冒頭が「将門の遺跡として」で始まるのとそろえた方がよいでしょう。現代では「遺跡」が一般的ですね。
「遺蹟」のすぐ後には「古来より伝設のある場所」と出てきます(原文は旧字の「傳設」)。「伝設」は「伝説」の間違いでしょう。
この記事の16年後、関東大震災で将門塚も被害を受けました。阪谷蔵相の記念碑も壊れてしまって、現存する碑は後代の蔵相によるものです。木造だった大蔵省庁舎も全焼したので、塚と池が取り払われてその上に仮庁舎が建てられてしまいますが、やはり後ろめたかったのか、震災5年後の記事では怨霊扱いされています=参考記事②。この時さすがに仮庁舎は取り壊され、首塚も復活しました。
「首塚のたたり」がうわさされるようになったのはこの頃からのようで、戦後も米軍が駐車場にしようとしたらブルドーザーが横転、死者が出たので工事を中止したという話が伝わっています=参考記事③。
しかし今回取り上げた記事は、遺跡が素人に掘り返されたことを問題にしているだけで、将門のたたりを恐れる様子は全く感じられません。明治維新で「朝敵」将門が軽んじられ、その霊力が忘れ去られていた時代ならではのエピソードなのかもしれません。
【現代風の記事にすると…】
大蔵省、「将門塚」を工事名目で発掘
東京・大手町の大蔵省構内の将門塚が専門家の立ち会いもなしに発掘中だという。
阪谷芳郎蔵相は熱心な将門崇拝者として知られる。しかし平将門の遺跡として歴史家にも重要視されている塚を素人考えで荒らすのはよくないし、後世に誤った結果を伝える恐れもある。
大蔵省を訪ねて目的を聞いた。担当の●●博士は留守で、代わりに■■技師が以下のように答えた。
「今朝の新聞を見て驚きました。今回は遺跡調査ではなく、2基の記念碑を建てるために地ならしをしただけです。調査が目的なら、専門家や記者に立ち会っていただかなければなりません。今回は調査ではないのでそんなことは考えずに手を付けたところ、『墳墓発掘』と書かれてしまいました」
(中略)
現場を見ると、従来「将門塚」と呼ばれていた五輪塔が横に動かされ、その下が縦2.4メートル、横1.8メートルくらいの長方形に深さ3メートルほども掘り下げられていた。穴の層は上部1.8メートルが積み土、その下は青黒い泥土で、その中から石塊3個と木片数個が発見された。しかし、これらは大名屋敷だった頃の池の排水設備らしく、将門とは全く関係ないようだ。
(中略)
遺跡を掘ったのは事実だった。大昔からの伝説の場所で、比較的新しいにしても五輪塔も残る遺跡を、専門家に任せず素人考えでいじくり回してしまったのは残念だ。大蔵官僚が物好き半分に将門の塚を発掘したと言われても仕方がないだろう。
(板垣茂)
原文どおりに表記することを原則としますが、読みやすさの観点から
等の手を加えています。ご了承ください