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昔の新聞点検隊

箱根駅伝をもう一度 戦中につないだ伝統のタスキ

広瀬 集

1943(昭和18)年1月8日付朝日新聞東京本社版 朝刊4面拡大1943(昭和18)年1月8日付 朝日新聞東京本社版 朝刊4面。画像をクリックすると大きくなります。主な直しだけ朱を書き入れています。画像は一部加工しています。現在の朝日新聞の表記基準で認めていない漢字の音訓や、当時は入れていなかった句点を入れる等については、原則として記入を省いています
【当時の記事】

強兵健民
寒気を衝いて 関東学徒鍛錬継走大会

関東学徒鍛錬継走大会(旧箱根駅伝競走)は決戦の新春一月五、六の両日、靖国神社-箱根神社間往復百五十哩の道路上で参加関東大学専門十一校、百十名の選手の意気も高らかに折からの寒気を衝いて挙行

結果は日大、慶大の大接戦の末、日大が合計時間13時間46分5秒の記録をもって優勝した

大東亜戦下、学徒に要請せらるる体力の増強、士気の昂揚は刻下必緊なるもの、この意味から最近特に学徒の行軍力強化が叫ばれてゐるが、駅伝継走には一致団結の協力精神、不撓不屈の忍耐力、斃れて止まざる敢闘精神と、それにも増して頑健なる体力を必要とするのである

この駅伝大会が昭和十五年以来中絶されてゐたのを今回関東学生陸上競技聯盟によって復活、敢行されたことは意義の深きものがある しかしながら今回の成績は必ずしも満足すべきものではなかった

最近陸上競技界の記録低下はただに駅伝競走ばかりではないが、この記録低下の原因を案ずれば、その最大因は何といっても、この駅伝競走が中絶されたため、選手がその目標を失ひ練習不足にある、それに主催者側の開催決定発表が十一月であったため準備期間の不足といふことも見逃せぬが、なんといっても短時日の附焼刃式練習訓練では到底目的は期し得ない、たとひ最初の十マイルぐらゐは相当に走っても最後二、三マイルの肝腎のところで必ず頓挫を来すものである

相当な準備期間を持ち周到な計画のもとに鍛錬につぐ鍛練を重ね、その上に打ち樹てたられた強健な体力を以てしてはじめて成果が期し得られるのである

専修大学は往路第三走者の肉ばなれにより準備不足の補欠選手を第五区に起用したため第八位に顚落してしまったが、第一日の不振にも士気沮喪することなく

奮然立ち上り第二日の成績では見事首位を占めたがその気力には賞讃すべきものがある

とまれ今回の大会が学生のみの手により立派に開催され、終始気魄横溢して真摯敢闘の裡に終了したことは喜ばしい(以下略)


(1943〈昭和18〉年1月8日付 朝日新聞東京本社版 朝刊4面)

【解説】

 少し早いですが、もういくつ寝るとお正月。皆さんは新年の雰囲気を、何で感じますか? 初日の出、初詣、年賀状、お雑煮やおせち。いろいろ思いつきますが、中にはこれを見なきゃ年が始まらない!という方もいらっしゃるかもしれません。2、3日に開催される箱根駅伝です。

 正式には「東京箱根間往復大学駅伝競走」。関東学生陸上競技連盟(関東学連)が主催する、いわばローカル大会ですが、毎年熱い戦いが中継され、今やすっかり風物詩となっています。朝日新聞も3~4日の紙面で大きく扱います(別記事1)。

2013年1月4日付 朝日新聞東京本社版朝刊18、19面拡大別記事1 2ページにまたがる見開きで箱根駅伝(第89回)を報じる今年の紙面=2013年1月4日付 朝日新聞東京本社版18、19面

 来年で90回を迎える大会の、1943年に行われた第22回の記事を今回とりあげました。太平洋戦争下で唯一行われた「箱根駅伝」です。「鍛錬継走大会」といかめしい名称に変わり、靖国神社前からスタートしました。前日(1月7日付)に載った順位と記録だけの一報を受けた詳報です。

1920年2月16日付 東京朝日朝刊4、7面の欄外拡大別記事2 第1回の結果を伝える記事。優勝は東京高等師範だった=1920年2月16日付 東京朝日朝刊4、7面の欄外
 まずは点検から。「マイル」は漢字だと「哩」。混在しているので統一しましょう。なお現在は「キロ(メートル)」を使うのが原則です。中ほどに記録低調の分析がありますが、「何といっても」「なんといっても」と続きます。ここぞの一言も、連発しては説得力減。どちらか一方にしたいところです。同じ部分で、「その最大因は……選手がその目標を失い練習不足にある」とあるのは、「目標を失ったことによる」などとしないとつながりが悪いですね。校閲はこのような表現の改善も提案します。

 箱根駅伝は、1920(大正9)年に始まりました。日本初の五輪選手(ストックホルム・1912年)としてマラソンを走った金栗四三らが創設メンバーです。「箱根駅伝70年史」(関東学連編)によると、金栗らが夢みた「アメリカ大陸横断」走の手始めとして、選手選抜のための大会をまず開こう、と考えたことがきっかけ。五輪で完走できず悔しい思いをした金栗の、後進を育てたいという強い思いもあったようです。

 関東の各校に参加を呼びかけましたが、準備が間に合わず1回目の参加は4校だけ(早大、慶大、明大、東京高等師範〈現・筑波大〉)。主催は報知新聞社と決まりました。

初期の頃の箱根駅伝の記事拡大別記事3 ①第12回。初めて2段の見出しがつく=1931年1月12日付朝刊3面 ②第17回。初の写真付き=36年1月6日付朝刊3面 ③第18回。戦前最大の3段見出し=37年1月11日付朝刊8面 ④第21回。各校の区ごとの順位表がついた=40年1月8日付朝刊6面、いずれも東京朝日
 報知新聞は1872(明治5)年創刊の老舗。箱根駅伝と言えば読売新聞のイメージですが、読売が開催者側に入ったのは戦後。戦時中に報知は読売に吸収されています。

 

 わずか4校、しかもライバル紙の主催だからか、第1回大会を報じる朝日紙面は欄外のベタ記事(別記事2、欄外については「欄外で速報、続きは明日」参照)。今では考えられない扱いですね。

 朝日ではその後もしばらく、扱いはベタどまり。第4回からは欄外から本紙面で報じられるようになりますが、簡単な記録の紹介の短行記事が中心です。

 しかし早大が連覇した1931(昭和6)年の第12回で、初めて見出しが2段に(別記事3の①)。第17回で初めて写真が付き(同②)、戦前最多の14校が参加し日大が史上初の3連覇を遂げた第18回は3段見出し(同③)、そして1940年の第21回では2段ながら各区到着順位の表まで付くようになりました(同④)。

1940年9月27日付 朝日新聞東京本社版朝刊6面拡大別記事4 箱根駅伝の中止を伝える記事=1940年9月27日付 朝日新聞東京本社版朝刊6面
 「70年史」でも、小田原あたりの沿道は「熱烈な騒ぎ」だったことが、当時の走者らの回顧座談会で語られています。ところが41年の箱根駅伝は、一転中止となります。朝日の記事(別記事4)では「報知と学連の対立」が理由としていますが、「70年史」によると軍需物資の輸送等の理由で東海道の使用が禁止されたとありました。戦争の影が色濃く迫ってきていたようです。

1941年1月12日付 朝日新聞東京本社版朝刊6面拡大別記事5 東京青梅間駅伝の事前予想記事=1941年1月12日付 朝日新聞東京本社版朝刊6面
 41年は代わりに、神宮外苑から青梅町(現・東京都青梅市)までを往復する駅伝大会が開かれます。報知主催で無くなったからか、朝日も大きめに紹介していました(別記事5)。距離は100キロ強と、箱根の半分。大会名も「東京青梅間鍛錬継走大会」と、「鍛錬」の文字が入っていますね。さらに、本来なら42年に開催予定だった2回目の青梅駅伝は、41年11月に繰り上げて開催。1年に2度大会を行ったことになります。徴兵を猶予されている学生を繰り上げ卒業させて召集する国の方針が固まりつつあり、1月では間に合わないと判断したようです。

 2回目の青梅の直後、太平洋戦争が開戦します。スポーツは鍛錬の一手段とみなされ、大会は次々に中止、手榴弾(しゅりゅうだん)投げなどの種目が行われ、全日本陸上競技連盟も「大日本体育会 陸上戦技部」とされてしまいます。

 なんとも息苦しい時代です。当時の選手たちは、なおさらだったのでしょう。「どうしても箱根駅伝を復活させてもらおう」という声が箱根経験者を中心に上がったと、当時の関東学連幹事長の回顧談にあります(「70年史」)。彼らは文部省や陸軍関係者を何度も訪ね、説得してまわります。その結果、「戦勝祈願」の名目なら鍛錬大会を開いてよかろうということになったのでした。

 それが今回取り上げた大会です。だから発着が靖国神社、箱根神社になっているのです。当時の中大の第1走者の回顧によると、靖国神社に参拝した後に大鳥居前からスタートしたそうです。

 記事にも「学生のみの手により立派に開催され」とあるように、準備も運営もほとんど学生だけで行ったようです。それまで主催していた報知新聞が無くなり資金もない中で自腹も切りながら、コース設定や点検を行います。当日の審判も時計係も学生。これまではサイドカーを使っていたコーチも、ガソリンがないため自転車での伴走だったといいます。

 また、記事では低調な記録を嘆いています。準備不足、そして選手の目標の喪失が原因だと指摘しています。戦争一色の世に対する批判の一矢だとしたら骨のある記事ですが、どうでしょうか。回顧によると他に、栄養事情が悪かったことが挙げられていました。栄養剤の注射を打って走った選手もいたようです。

1943年9月26日付 朝日新聞東京本社版朝刊3面拡大別記事6 学徒の体育大会を一切取りやめることを伝える記事=1943年9月26日付 朝日新聞東京本社版朝刊3面
 優勝タイムは13時間45分5秒(朝日、読売ともに当時の記事は「46分」なのですが、関東学連の資料は45分としています)。発着が変わっておそらく距離が延びているので単純に比較はできませんが、戦前で最速だった37年(第18回)の日大の12時間33分24秒より、1時間以上も遅い記録です。

 回顧座談会の一節に、この大会は「苦し紛れにやったもの」だけど「学生としては、それだけ意欲があった」とありました。当時の学生たちは暗く重くのしかかる空気を、走ることでなんとかうち払いたかったのかもしれません。

 しかしこの年の9月には学生の体育大会はいっさい禁止され(別記事6)、さらに10月、ついに在学生の多くを徴兵可能とする命令が下されます。いわゆる学徒出陣です。この大会の出場者も、何人もかり出されました。苦労して復活させた箱根はこの1回のみで終わり、再開は戦後の47年まで待たなければなりません。

第22回の優勝盾拡大第22回の優勝盾。文字や模様を縫い付けた厚手の生地を、板に貼り付けてある=東京・世田谷
 ただ、この戦時中の開催がなければ、もしかしたら戦後も再開されなかったかもしれません。この時必死でつないだのは、学校のタスキだけではなく、「箱根駅伝の伝統」そのものでもあったのだと思います。

 この第22回の優勝盾は、日大の陸上競技部で今も大事に保管されています(写真)。簡素なつくりですが、資金難の上に物資の乏しい時代では、精いっぱいだったのだと思います。「この大会は、学校の垣根を越えてみんなでゴールを喜んだと聞いています。『この盾には、全員の魂がこもっている。これだけはしっかり管理しなければならない』と言われて引き継がれています」と、コーチの堀込隆さん。「このような『見えないタスキ』をつなぐのも私たちの責務、そう考えています」


【現代風の記事にすると…】

強兵健民
目標立てられず 準備不足で記録低調 関東学徒鍛錬継走大会

 関東学徒鍛錬継走大会(旧・箱根駅伝競走)が1月5、6日、東京・靖国神社―神奈川・箱根神社間(往復約240キロ)で行われた。関東の大学・専門学校11校から110人の選手たちが参加。日大が慶大を大接戦の末ふりきり、往復13時間46分5秒で総合優勝を果たした。

 戦時下、学生に求められるのは体力増強、士気高揚。そういう意味でも最近特に学生の行軍力強化が叫ばれているが、駅伝はまさに、一致団結の協力精神、不撓(ふとう)不屈の忍耐力、倒れてでも進もうとする敢闘精神と、なにより頑健な体力が必要な種目だ。

 1940年以来中断していたものを、今回関東学生陸上競技連盟が復活させ、意義深い大会となった。ただ成績は必ずしも満足できるものではなかった。

 最近の成績低迷は駅伝に限ったことではなく、陸上競技の他の種目でも同様だ。ただ、今大会の成績が芳しくなかった最大の原因は、大会中断で選手が目標を失ったことによる練習不足だ。主催者側の開催決定の発表が11月だったため準備期間が短かったこともある。付け焼き刃的な練習では、たとえ最初の15キロ程度は軽快に走れても、最後の3、4キロの肝心なところで踏ん張れない。

 余裕のある準備期間で周到な計画のもとに鍛錬を重ねる。その上に作り上げた強健な体力があってはじめて好成績を収められる。

 専大は3区に予定していた走者の肉離れで準備不足の補欠選手を急きょ5区に起用したため、総合成績は8位。だが、士気を失うことなく復路では見事に1位なった。その気力を称賛したい。

 ともあれ、今回の大会が学生のみの手で立派に開催され、終始気迫に満ちた真剣勝負の大会となったことは喜ばしい。(以下略)

(広瀬集)

当時の記事について

原文どおりに表記することを原則としますが、読みやすさの観点から

  • 漢字の旧字体は新字体に
  • 句点(。)を補った方がよいと思われる部分には1字分のスペース
  • 当時大文字の「ゃ」「ゅ」「っ」等の拗音(ようおん)、促音は小文字に

等の手を加えています。ご了承ください