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昔の新聞点検隊

100年前の節分・豆まき 拾う群衆は「命懸け」

加勢 健一

1913(大正2)年2月4日付東京朝日朝刊5面拡大1913(大正2)年2月4日付東京朝日朝刊5面。画像をクリックすると大きくなります。主な直しだけ朱を書き入れています。現在の朝日新聞の表記基準で認めていない漢字の音訓や、当時は入れていなかった句点を入れる等については、原則として記入を省いています。画像は一部加工しています
【当時の記事】

豆一粒に命懸け
川崎大師の大混乱

川崎大師の節分は素的もない雑沓で電車は無論皆満員、雪駄などで気取って歩くと足を踏み躙られて終ふ程だ、停車場から数町の暗がり道には男や女がゾロゾロと絶間もなく(中略)境内の広場には観覧随意の余興の活動写真だの太神楽だのがあって五人男や西洋悲劇の真最中、午後七時ゴーンと一番鐘が鳴ると何れも裃を着た年男の大鳴門、明石龍、中野喜三郎、加藤弥惣次、池野幾次郎、宮川政吉、中山八百吉、松原仙太郎の八名が各自自分の名を記した弓張りを真先に仕事師や何かに取囲まれて木遣りやらお経やらを唄ひ唱へて本堂へ繰込むと続いて二番鐘がなる、此時参詣人は益重なり合って頭の上が歩ける位、奉行が来る、山主が来る、侍が来る、沓取りが来る、と群集は今は活動写真処でなく豆が欲しい欲しいと本堂指して押かける、本堂ではお経が始まった 護摩の煙がパッと上る 『ソラ最う直だぞ』と何れも豆を拾ふ用意をする、中に懐中電気を持ってゐるのをも見受けた、斯くて山主が豆の入った三宝を抱へて欄干近くに出たのは十二時少し前、パラパラと百粒ばかり撒くと続いて年男の面々も『鬼は外ーッ福は内ーッ』とブン投げる、群集は大変な騒ぎ 命も要らないと言った風で隣の人を突退け押倒して一粒の豆を奪ひ合ふ其混雑の有様は到底筆に尽されなかった

(1913〈大正2〉年2月4日付東京朝日朝刊5面)


【解説】

2013年2月4日付東京本社版朝刊川崎版拡大昨年の川崎大師の豆まきの記事=2013年2月4日付東京本社版朝刊川崎版
 厳しい寒さが続きますが、カレンダーをめくればもうすぐ節分です。それぞれの家庭で「福は内、鬼は外」のかけ声とともに豆をまいて邪気を払う光景は、まさに日本の年中行事の代表格と言えます。一方、各地の神社やお寺では力士や有名人ら「年男・年女」をゲストに呼び、華やかに豆まきをするイベントが盛んです。今回は、厄よけ大師として知られる川崎大師(川崎市)の100年前の豆まきを取り上げた記事をのぞいてみます。

 まずは、校閲記者の視点から記事を点検しましょう。

 冒頭の「素的もない雑沓(ざっとう)」という表現に、目がとまります。「すてき」という言葉は知っていても、「すてきもない~」という言い回しは見慣れません。

 日本国語大辞典(通称「日国」)を引いてみると「すてき」の意味の1番目に「程度がはなはだしいさま。度はずれたさま」とあり、これが「本来の意味」と解説があります。「水虫で素的に困るの」という江戸時代の用例が挙げられており、思わず噴き出してしまいます。実は、語義の2番目に「非常にすぐれているさま。すばらしい」とあり、かつては2種類の意味があって、しだいに2番目の意味に限定されていったということです。日国によると「すてきもない」は「はなはだしい。途方もない」の意。記事の「素的もない雑沓」とは、人出の多さをことさら強調した表現だと分かりました。

 読み進めると「数町の暗がり道には」と出てきて、この場面が昼間ではないと初めて気付きます。その後「午後七時」「十二時少し前」とあるので夜のイベントだとはっきり分かりますが、これはもう少し早い段階で明示しておくのが親切です。記事冒頭でしっかり触れておきましょう。

 豆まきの主役となる「年男」8人が登場していますが、一体どういう人たちなのか肩書を記しておきたいところです。大鳴門、明石龍はその名から力士と推測されます。が、ほかの人物については何も分かりません。たとえ著名な人物でも、その人の属性を示す情報を一言でも盛り込むのが現代の新聞の流儀です。

 豆まきイベントの流れと混雑ぶりを、順を追ってテンポ良く描いた名調子が読ませますが、末尾の「混雑の有様は到底筆に尽されなかった」には拍子抜けです。出来事をペンで伝える使命の新聞が「筆に尽くせない」ではいけません。直前にある「命も要らないと言った風で隣の人を突退(つきの)け押倒して一粒の豆を奪ひ合ふ」との描写で十分でしょう。

 指摘はこの辺にとどめるとして、100年前の豆まきの様子を眺めていると、時間が夜であること以外は現代のそれとまったく変わらないことに驚かされます。

 豆まきは、奈良時代に中国から伝わった「追儺(ついな)」と呼ばれる宮中行事と、寺社が邪気を払うために節分に行っていた「豆打ち」の儀式が合わさったものと言われています。追儺は弓矢などで鬼や厄を追い払う儀式で、大みそかの夜に、豆打ちは邪気が入り込むと考えられた季節の変わり目に、それぞれ行われていました。煎った豆には、厄をはらう霊力が宿るとされていました。

 追儺の行事の流れをくんでのことか、かつては立春の前日の夜に豆まき行事をする寺社が多かったようです。それが太平洋戦争目前の1940年、川崎大師などでは「節電」の目的で、開始時間が昼間に繰り上げられるようになったといいます。

 さて、「福豆」を得ようと人々が神社仏閣に押し寄せるにぎわいぶりを、明治末期の記事は次のように伝えています。

何処(どこ)の社、其処(そこ)の堂と之(これ)までの古例でもない神や仏がヤレ開運の厄除(よけ)のと御守りを売らん哉(かな)の豆撒き沙汰に芝居や寄席までが負けぬ気になって客引の手段に用ひるやうになっては追儺式は一種の興行にて赤鬼青鬼も角をヒョコつかせて笑ふべし

(1912〈明治45〉年2月6日付東京朝日朝刊5面)

1912年2月6日付東京朝日朝刊5面拡大各地の豆まきの様子を伝える明治末期の紙面=1912年2月6日付東京朝日朝刊5面

 このころには、あちこちの寺社で豆まきが行われるようになり、行事が「興行化」していたことが読み取れます。

1946年2月4日付東京本社版朝刊2面拡大敗戦直後の豆まきの様子=1946年2月4日付東京本社版朝刊2面
 季節の風物詩と呼ぶべき国民的行事も、敗戦直後の1946年の節分の様子は切実でした。

食糧不足で生き死にの境ひにある“娑婆(しゃば)”へ観音さまがほかほかの大豆を一俵そっくりお撒き下さる―三日二時から行はれた浅草観音さまの節分会、地獄図絵のやうな“闇市”から善男善女のせかせかした足並がこの“極楽”に押し寄せる、旧(ふる)い日本の“鬼”を追ひ払って“福”を招き寄せ給(たま)へ “福”こそはわれらの食糧――ありったけのものをひろげて構へ食ひつくやうなすさまじさ、五重塔も鳩(はと)もゐない焼跡の豆撒きだった

(1946〈昭和21〉年2月4日付朝刊2面)

 東京の下町は前年3月10日の東京大空襲で一面焼け野原となり、浅草寺も境内の五重塔が焼失、まさに戦争の傷痕が生々しいなかでの豆まきでした。食糧難にあえぐ人々が必死に布きれや帽子を差し出して豆を得ようとするさまは、食うにも事欠く時代の苦難を象徴しています。

 暖衣飽食の現代にあっても、節分に厄を払い福を呼び込もうとする気持ちそのものは変わりません。人々の切なる思いが集まればこそ「旧い日本の鬼」が再び跋扈(ばっこ)することはあるまい、と願いつつ、年の数だけ豆をほおばることにしたいと思います。


【現代風の記事にすると…】

福豆奪い合い 川崎大師は大にぎわい

 川崎大師の節分会には3日夕方から大勢の人が集まりだし、境内はごった返した。余興の映画上映や太神楽が行われた後、午後7時の一番鐘を合図に大鳴門と明石龍の両力士をはじめ、かみしも姿の年男8人が登場した。続いて二番鐘が鳴ると、山主のほか奉行や侍姿の男たちが出てきて群衆が本堂に殺到。お経が始まり、護摩の煙が上がると「さあ、もうすぐだ」と豆を待ち構えた。午前0時前、山主が豆の入った三宝を抱えて欄干からパラパラとまき始めたのに続いて、年男たちが「鬼は外! 福は内!」と声を張り上げて豆を力いっぱいまくと、群衆は我先にと奪い合った。

(加勢健一)

当時の記事について

原文どおりに表記することを原則としますが、読みやすさの観点から

  • 漢字の旧字体は新字体に
  • 句点(。)を補った方がよいと思われる部分には1字分のスペース
  • 当時大文字の「ゃ」「ゅ」「っ」等の拗音(ようおん)、促音は小文字に

等の手を加えています。ご了承ください